アマテラスの力を継ぐ者【第一記】

モンキー書房

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章第二「茨木童子」

(十三)かく乱せむとする鬼

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 横たわっていた大木につまずき、鬼がつんのめったのを見逃さず、彩はすかさず距離を縮めていく。
 咥えていた小刀を握り締め、頭部へと斬りかかるが、鬼は、いままでにない敏捷びんしょうな動きで急にかがみ込んだ。
 脚元を狙えば、今度は最小限の動きで飛び跳ねる。刃先が鬼の足裏をかすめていく。
 わずかな刀傷が母指球につくられ、そこから無色透明な液体がしたたり落ちる。鬼の血も赤かったはずだが、いったいこれは……?


 かかとまで完全に足裏を着地させてしまえば、また距離を取られ、そこから再び間合いを詰めていくのは、骨が折れることだろう。
 ここで一気に片をつけたいところだが、そのりきみがあだとなり、大きく振りかぶって勢いづいたスピードのまま、近くの木へ刃をり込ませてしまった。


 一瞬の隙でも生まれれば、その間に逃げられるか、あるいは相手に絶好の攻守交代の機会を与えてしまい、無様にやられることとなる。
 だがあせれば焦るほど手こずり、余計に小刀は、寄木細工のように抜けなくなっていく。
 回り込んだ弥兵衛が狐松明を吐き出すと、逃げ道を失った鬼は、彩のほうへ迫ってくるように見える。すぐに、彩の予想は後者であると悟った。


 彩は小刀から手を離さず、もう片方の手で投石器を前へ突き出す。狙いを定めることができないまま、鬼との距離が縮み、咄嗟とっさに臨戦態勢を取った。
 しかし、無防備な姿をさらしている彩には目もくれず、ひとりと一匹のあいだをすり抜けていく。鬼は、まるでおちょくるかのように、少し離れたところで、彩たちのほうへ背中を向けたまま立ち止まる。


 弥兵衛が戦っているあいだに、彩は幹に片足をかけ、目いっぱいの力を込め、踏ん張ってみた。やっとのことで小刀が抜け、勢いあまって引っくり返りそうになる。
 それ以降も、弥兵衛との二人三脚で攻撃をくり出し続けるが、さっきまでと同様に「やはり」というか「またか」という感じで、のらりくらりと、鬼は彩の刀術も弥兵衛の狐松明きつねたいまつかわし続ける。


 あまりの手応てごたえのなさに、だんだんと痺れを切らしてきたのか、弥兵衛は思いきった行動に打って出た。
 火力全開で吐き出された狐松明が樹々に燃え移り、鬼のゆく手をさえぎるかたちで延焼していく。
 その火の手は、あっという間に彩たちの背後へとまわり、引くにも引けない状態となり、鬼を含めた三者は、山林のなかに取り残されてしまう。


 目の前にいる鬼は夏の虫よりも賢いらしく、明らかに躊躇をしている様子だった。思いっきり腰をひねり、彩は片脚を軸にして地面を蹴る。
 そして、火に触れないよう引き返してきた鬼の腹部へ、彩の強烈な一発が命中した。すると、その鬼の身体は蹴りの当たった部分から水泡のごとく崩れ落ち、あっという間に瓦解していく。
 リアル鬼ごっこの顛末は、拍子抜けするほどに、あっさりとしたものだった。
 鬼の身体を観察しようと、死体が転がっているはずの地面へ目を向けるも、そこには肉片などほとんど残っていなかった。そして死体に近づいた瞬間、とてつもない刺激臭が彩を襲う。


 思わず彩は、鼻をつまむ。あたしでこうなのだから、と心配になった彩は、ふと弥兵衛のほうへ視線を向ける。
 少し離れたところで、口から泡を吹き、仰向けに地面へ倒れ込むキツネの姿があった。彩は「や、やへえぇぇぇぇぇ!」と神使の名前を叫ぶ。
 どうやら、気絶しただけのようだった。におい耐性を獲得していたのか、すぐにこの異臭にも慣れてしまった自分が怖い。


 鬼だった身体の破片を、ひとつつかみ取ると、そこで、その物体が鬼ではないことに気がつく。これは、人間の死体だ。
 さっきまで強く感じていた鬼の気配も、いまは一切なくなっている。漂っているのは、凄まじいほどの死臭だけ。
 そうか、と彩は合点がいく。これはただの人形で、単に操られていただけなのだ。それに気づいた途端、恐れていた最悪の事態が一気に現実味を帯びてくる。


 しまった……! 彩は、焦燥感に駆られた。


 主人を離れた狐松明を引き連れ、彩は急いで下山を開始する。五瀬家まで、そう遠く離れてはいなかったが、この瞬間にも、稲穂の身に危険が及んでいる恐れのあることを考えると、気が気ではなかった。
 山林を抜け、水田のところまでりてきて、もう少しで玄関へたどりつく、というときに、彩の脚が突然、一部分だけが金縛りにでもあったかのように動かなくなる。


 地面へ顔面を激突させる直前、狐松明のあかりに照らされた女が、風除室の壁に寄りかかっているのを見た。
 ならばと思い、地面から伸びている触手が、彩の脚をつかんでいるであろうことを、視認せずとも把握する。
 そこにいたのは、一週間前に襲撃してきた、くだんの鬼女だった。
 きょうは被衣かづきを羽織っておらず、眉目秀麗な素顔をさらし、欠損していないほうの脚で、立て膝をしていた。


 彩は地面から伸びる無数の触手によって、つんいになることを余儀なくされ、そこから一歩も動けなくなってしまう。
 日が昇ったあとに戦ったときより、確実に力が強くなっているように感じた。
 これで疑いの余地なく、鬼は太陽が苦手という俗信は、火を見るより、いや、むしろ日が見えないからこそ明らかとなった。


 しかも足止めされている以外に、脚を動かせなくなった理由がひとつある。一週間前に対峙したときよりも、ヒリヒリとした痛みを覚えるほど、鬼の気配を強く感じていた。
 これは、目の前の鬼女から発せられているものではない、と彩は思う。一週間程度で、変化することはないからだ。
 この「気配」というのは、鍛えれば向上する「力」という意味ではなく、個人の生まれ持った「遺伝子」という意味合いに近い。


 可能性として考えられるのは、目の前の鬼女と極めてつながりの濃い血族が、この近くにいるということだ。
 おとりの鬼は、見張りをおびき出するため、家の前で鬼女が待ち構えているのは、なかに入れさせないため、と考えれば辻褄は合う。
 つまり、もうすでに別の鬼が家のなかへの侵入を果たしてしまった、ということになる。


 もう武器としては役に立たず、ただただ浮遊するばかりの狐松明は、触手になんの傷もつけられないままだったが、周囲を照らしてくれるおかげで、光を嫌う相手の動きを鈍らせることには成功していた。
 この場に、市兵衛でもいてくれたら、いないよりはマシだったろう、と彩は思う。狐松明を操作して、攻撃できるのに……


 知りぬとて稚児ちご霊代たましろなれば力無ちからなきや。かる姿ではかたなし。
 石戸破いはとわ手力たぢからもがも。手弱たよわをみなにしあらばすべの知らなく……


 現実逃避の果てに、彩は現代の語彙を喪失しつつあった。彩の身体をし潰さんとばかりに、さらなる力が触手へと加えられるなか、血の出ていた鼻を片手でぬぐう。
 こぶしについた血が第二関節から垂れ、地面へとしたたり落ちたのち、染み込んでいく。すると彩の眼前で、ぐんぐんと稲や麦などの穀物が伸びていった。


 岩を割るほどの怪力はないけど、こちらには神明の加護がついている。というよりも自分自身が神さまなのだ、と腐っても鯛であると彩は豪語した。
 生えてきた稲を引き抜き、それらを丸ごと口に放り込み、それから渾身の肺活量をもって、力いっぱいに吐き出す。あたり一帯に霧が立ち込め、向こうから、こっちの状況を掴むのは難しくなっただろう。しかしそれと同時に、こちらからも相手の様子をうかがうことができなくなってしまった。


 霧のなかで右手をコヲロコヲロきまわすと、どんどん立派な太刀たちが姿を現してくる。平静を保つべく深呼吸をし、すくみ上がった脚を奮い立たせ、武者震いだという自己暗示をかける。手当たり次第といった感じで、地面から触手を伸ばし、彩のことを仕留めようとしてきた。すかさず、触手を蹴散らしていくが、さすがに、これらをかわし続けるのにも限界がある。


 一旦、この場を離れて山のほうへ身をひそめようと、彩はあぜ道を疾走した。いまの時間帯は、西の空をぼんやりと照らしている月のほかに光はなく、すっかり夜のとばりりきっている。
 全体的に影の広がった状況下で、いったい、どこまでの範囲に触手をつくり出せるのだろう、と彩は考えていた。それ次第では、遠距離攻撃もできそうだ。


 相手の攻撃は極めて単純明快なもので、動きを封じることしかしてこない。手遅れになる前に、稲穂のもとへ駆けつけねばならない、と彩は意志を固める。
 霧が晴れてくると、そのなかから現れた初期位置のままの人影が、だんだんと鮮明になってくる。彩は改めて「願はくば」と呟きつつ、太刀を握りなおした。
 そして木陰を飛び出し、もうすでに走りまわって限界がきていた身体にむちを打ち、正面突破する。
 距離感を掴めないらしく、何度も彩が通りすぎたあとに、触手が地面から伸びて空をきった。彼女までの距離が、残りわずかとなっていく。
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