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第8話 彼に見下される
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翌日。私はいつものように執務室にいた。ただし、やっている作業はいつもとは違う。『領地の収支報告書』の作成ではなく、私個人の資産の完全分離と屋敷への貸付金の債権回収リストの作成だ。
裏帳簿は、ほぼ完成しつつある。イザベルの使途不明金、ローザの贅沢品リスト、父の薬の処方記録、そして昨夜見た遺言書のメモ。これら全てをセットにして王都の法務院へ提出すれば、遺言書の無効確認訴訟くらいは起こせるだろう。
だが、それだけでは足りない。私が受けた精神的苦痛と、奪われた時間の対価。それをきっちりと回収せねば気が済まない。
「セリーヌ、いるかい?」
扉が開く。エドガー様だ。昨日の今日で、よくもまあ顔を出せたものだ。
「……何のご用でしょうか」
「昨日の件、謝りたくてね。少し言いすぎたよ」
彼は殊勝な顔で近づいてきた。手には花束を持っている。赤い薔薇。花言葉は情熱。あるいは、あなたを愛しています。ローザと愛し合っているのに、そんなふりをするなんてあまりにも嘘が過ぎる。それにその薔薇は、誰の金で買ったものだ?
「お気になさらないでください。事実ですから」
「いや、君は……可愛いよ。ただ、少し不器用なだけだ」
何だその間は? 私を褒める言葉が見つからなかったのか? 彼は私の机の前に立ち、書類の山を見下ろした。
「相変わらず、よく働くね。……実はね、セリーヌ。ローザに聞いたんだけど、バラック様の容態が良くないみたいだね」
「存じております」
「もしものことがあったら、この家はどうなるか……心配だろう? でも安心してくれ。僕がついてる」
エドガー様が私の手に触れようとした。私は反射的に手を引いて避ける。彼は苦笑して、汚い手を引っ込めた。ちなみに、エドガー様には兄がいて、オルレアン伯爵家の当主は兄が継ぐことになっている。
「君は、このまま僕と結婚して、この家を支えてくれればいい。君にはその才能がある」
「才能、ですか?」
「ああ。君はこの数年、公爵家の当主代行として立派にやってきた。その経験は素晴らしいよ」
そして、彼は言った。私の人生を決定的に変える一言を。
「これまでの苦労は、僕とローザを支えるための『予行練習』になって良かったね」
え? 目の前にいる男は、今なんて言った? 時が止まって世界から音が消えた。予行練習。練習? 私が睡眠時間を削り、爪を割り、胃を痛めながら必死に守ってきたこの十年が? 亡き母との思い出が詰まったこの屋敷を守ろうとした努力が?
すべて、彼とローザが楽をして生きるための練習台だったと言ったのか。エドガー様は、頭の知恵が足りないため、悪気があったのかなかったのかも私には判断できないけど。
プツン、と何かが切れた音がした。それは理性ではない。私をこの家に縛り付けていた最後の情という鎖だ。怒りは通り越していた。代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷たくて透き通った殺意にも似た決意。感情の温度が、絶対零度まで低下する。
「……そうですわね」
私はにっこりと笑った。頬の筋肉が引きつることもなく、完璧な笑顔を浮かべることができたと思う。
「本当に、良い勉強になりましたわ、エドガー様。あなたのおかげで、私は自分の価値を再認識できましたもの」
「うんうん、そうだろう? これからも頼むよ」
「ええ、ご期待ください。……私の本番は、これからですから」
エドガー様は満足そうに頷き、花束を置いて出て行った。私はその花束を手に取り、無造作にゴミ箱へと放り込んだ。どうやら彼は、無意識のうちに口から出た言葉で、悪気はなかったようだ。薔薇の棘が指に刺さって一滴の血が滲む。その痛みすら、今の私には心地よかった。
私は椅子に座り直し、新しい羊皮紙を広げた。インク壺にペンを浸す。もう迷いはなく、計算式は完成した。
変数X(エドガー)と変数Y(ローザ)を、定数Z(私)を最大化するための解。それは、彼らの人生を終わらせること。
「ただし、私が注ぎ込んだ資源(金銭と労力)を、十分な利子を加えて回収させていただいた後で、事を終わらせるつもりです」
私は誰に聞かせるでもなく呟いた。窓の外では、小鳥たちが楽しげにさえずりながら飛び回っている。私の気持ちを祝うファンファーレにしては、いささか間の抜けた音だったが悪くはないと感じた。
裏帳簿は、ほぼ完成しつつある。イザベルの使途不明金、ローザの贅沢品リスト、父の薬の処方記録、そして昨夜見た遺言書のメモ。これら全てをセットにして王都の法務院へ提出すれば、遺言書の無効確認訴訟くらいは起こせるだろう。
だが、それだけでは足りない。私が受けた精神的苦痛と、奪われた時間の対価。それをきっちりと回収せねば気が済まない。
「セリーヌ、いるかい?」
扉が開く。エドガー様だ。昨日の今日で、よくもまあ顔を出せたものだ。
「……何のご用でしょうか」
「昨日の件、謝りたくてね。少し言いすぎたよ」
彼は殊勝な顔で近づいてきた。手には花束を持っている。赤い薔薇。花言葉は情熱。あるいは、あなたを愛しています。ローザと愛し合っているのに、そんなふりをするなんてあまりにも嘘が過ぎる。それにその薔薇は、誰の金で買ったものだ?
「お気になさらないでください。事実ですから」
「いや、君は……可愛いよ。ただ、少し不器用なだけだ」
何だその間は? 私を褒める言葉が見つからなかったのか? 彼は私の机の前に立ち、書類の山を見下ろした。
「相変わらず、よく働くね。……実はね、セリーヌ。ローザに聞いたんだけど、バラック様の容態が良くないみたいだね」
「存じております」
「もしものことがあったら、この家はどうなるか……心配だろう? でも安心してくれ。僕がついてる」
エドガー様が私の手に触れようとした。私は反射的に手を引いて避ける。彼は苦笑して、汚い手を引っ込めた。ちなみに、エドガー様には兄がいて、オルレアン伯爵家の当主は兄が継ぐことになっている。
「君は、このまま僕と結婚して、この家を支えてくれればいい。君にはその才能がある」
「才能、ですか?」
「ああ。君はこの数年、公爵家の当主代行として立派にやってきた。その経験は素晴らしいよ」
そして、彼は言った。私の人生を決定的に変える一言を。
「これまでの苦労は、僕とローザを支えるための『予行練習』になって良かったね」
え? 目の前にいる男は、今なんて言った? 時が止まって世界から音が消えた。予行練習。練習? 私が睡眠時間を削り、爪を割り、胃を痛めながら必死に守ってきたこの十年が? 亡き母との思い出が詰まったこの屋敷を守ろうとした努力が?
すべて、彼とローザが楽をして生きるための練習台だったと言ったのか。エドガー様は、頭の知恵が足りないため、悪気があったのかなかったのかも私には判断できないけど。
プツン、と何かが切れた音がした。それは理性ではない。私をこの家に縛り付けていた最後の情という鎖だ。怒りは通り越していた。代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷たくて透き通った殺意にも似た決意。感情の温度が、絶対零度まで低下する。
「……そうですわね」
私はにっこりと笑った。頬の筋肉が引きつることもなく、完璧な笑顔を浮かべることができたと思う。
「本当に、良い勉強になりましたわ、エドガー様。あなたのおかげで、私は自分の価値を再認識できましたもの」
「うんうん、そうだろう? これからも頼むよ」
「ええ、ご期待ください。……私の本番は、これからですから」
エドガー様は満足そうに頷き、花束を置いて出て行った。私はその花束を手に取り、無造作にゴミ箱へと放り込んだ。どうやら彼は、無意識のうちに口から出た言葉で、悪気はなかったようだ。薔薇の棘が指に刺さって一滴の血が滲む。その痛みすら、今の私には心地よかった。
私は椅子に座り直し、新しい羊皮紙を広げた。インク壺にペンを浸す。もう迷いはなく、計算式は完成した。
変数X(エドガー)と変数Y(ローザ)を、定数Z(私)を最大化するための解。それは、彼らの人生を終わらせること。
「ただし、私が注ぎ込んだ資源(金銭と労力)を、十分な利子を加えて回収させていただいた後で、事を終わらせるつもりです」
私は誰に聞かせるでもなく呟いた。窓の外では、小鳥たちが楽しげにさえずりながら飛び回っている。私の気持ちを祝うファンファーレにしては、いささか間の抜けた音だったが悪くはないと感じた。
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