9 / 11
第9話 逃げるより排除
しおりを挟む
私が書き上げた『最終通告書』のインクが乾くのを待ちながら、ふと窓の外を見た。庭園の薔薇が風に揺れている。あれは、亡き母が一番好きだった『クイーン・オブ・ナイト』という品種だ。黒に近い深紅の花弁は、気高くてどこか孤独な母の背中を思い出させる。その向こうには、父が若き日に建て増しをしたサンルームが見える。
「…………」
私は手元の羊皮紙に視線を戻した。そこには、私がこの家を出ていく手順と、資産回収の段取りが記されている。論理的に考えれば、これが最適解のはずだ。これ以上、この腐敗した環境に身を置くことは、私の精神衛生と時間を摩耗させるだけだからだ。損切り。投資の世界では基本中の基本である。
だが、私の胸の奥では、計算機がはじき出した答えとは全く異なる感情がじわじわと湧き上がっていた。それは未練だろうか? いいえ、違う。敗北感だ。
私がここを出ていけば、どうなる? エドガーとローザとイザベルは、最初は邪魔者がいなくなったと祝杯を上げるだろう。彼らは、母が愛した庭園を荒らし、父が集めた蔵書を売り払い、この由緒あるフォンテーヌ公爵家の歴史を下品な欲望で塗り潰すだろう。私は自分を守るために逃げることで、結果として私の大切な場所を彼らに譲渡することになる。
最終的には経営が行き詰まり、どうしようもない状況に陥るだろう。しかし、最も恐ろしいのは、私の公爵家が次々と切り売りされ、最終的には完全に潰れてしまうことだ。これまでの歴史も家族の誇りも名声も、すべてが失われる未来が見えている。
「……おかしいわね」
私は独り言を漏らした。どうして、被害者である私が退去しなければならないの? 不法侵入者が住み着いたからといって、家主が家を焼き払って逃げる道理があるだろうか? 否。断じて否だ。やるべきことは逃亡ではなく駆除だ。
私は、先ほど書き上げた逃げを優先した『最終通告書』を両手で持ち、真ん中からビリリと引き裂いた。さらに二回、三回と破り、細かい紙吹雪に変える。ゴミ箱へパラパラと落とすと、私は新しい羊皮紙を取り出した。インク壺にペンを浸すと、脳内のスイッチが切り替わる音がした。撤退モードから迎撃・殲滅モードへ。
「訂正しましょう。私の辞書に『泣き寝入り』という言葉はない」
私はこの屋敷の管理者だ。管理者の責務とは何か? それは、組織の健全な運営を阻害する要因を排除し、資産を保全すること。つまり、私がやるべきは家出ではない。この屋敷に巣食う害虫たちを、一匹残らず燻り出して叩き潰して消毒することだ。
まずは手始めに、彼らの手足となって動く腐った使用人達から片付けるとしよう。頭(イザベル、ローザ)を潰す前に手足を奪えば、彼女らは何もできなくなる。兵糧攻めでいくことを決めた瞬間、胸の奥で何かが定まった。
私は口元に、自分ですら気づかないほどの冷たい笑みを浮かべる。救いの言葉も、情けも、もう用意しない。ただ淡々と、相手の首を絞める手順を書き連ねるだけだ。紙の上を走る文字は、剣よりも静かで、毒よりも遅効性がある。相手が飢えに気づく頃には、もう逃げ道など残っていない。
『屋敷内業務改善命令書、および人事粛正に関する実施計画』
さあ、大掃除の時間だ。
「…………」
私は手元の羊皮紙に視線を戻した。そこには、私がこの家を出ていく手順と、資産回収の段取りが記されている。論理的に考えれば、これが最適解のはずだ。これ以上、この腐敗した環境に身を置くことは、私の精神衛生と時間を摩耗させるだけだからだ。損切り。投資の世界では基本中の基本である。
だが、私の胸の奥では、計算機がはじき出した答えとは全く異なる感情がじわじわと湧き上がっていた。それは未練だろうか? いいえ、違う。敗北感だ。
私がここを出ていけば、どうなる? エドガーとローザとイザベルは、最初は邪魔者がいなくなったと祝杯を上げるだろう。彼らは、母が愛した庭園を荒らし、父が集めた蔵書を売り払い、この由緒あるフォンテーヌ公爵家の歴史を下品な欲望で塗り潰すだろう。私は自分を守るために逃げることで、結果として私の大切な場所を彼らに譲渡することになる。
最終的には経営が行き詰まり、どうしようもない状況に陥るだろう。しかし、最も恐ろしいのは、私の公爵家が次々と切り売りされ、最終的には完全に潰れてしまうことだ。これまでの歴史も家族の誇りも名声も、すべてが失われる未来が見えている。
「……おかしいわね」
私は独り言を漏らした。どうして、被害者である私が退去しなければならないの? 不法侵入者が住み着いたからといって、家主が家を焼き払って逃げる道理があるだろうか? 否。断じて否だ。やるべきことは逃亡ではなく駆除だ。
私は、先ほど書き上げた逃げを優先した『最終通告書』を両手で持ち、真ん中からビリリと引き裂いた。さらに二回、三回と破り、細かい紙吹雪に変える。ゴミ箱へパラパラと落とすと、私は新しい羊皮紙を取り出した。インク壺にペンを浸すと、脳内のスイッチが切り替わる音がした。撤退モードから迎撃・殲滅モードへ。
「訂正しましょう。私の辞書に『泣き寝入り』という言葉はない」
私はこの屋敷の管理者だ。管理者の責務とは何か? それは、組織の健全な運営を阻害する要因を排除し、資産を保全すること。つまり、私がやるべきは家出ではない。この屋敷に巣食う害虫たちを、一匹残らず燻り出して叩き潰して消毒することだ。
まずは手始めに、彼らの手足となって動く腐った使用人達から片付けるとしよう。頭(イザベル、ローザ)を潰す前に手足を奪えば、彼女らは何もできなくなる。兵糧攻めでいくことを決めた瞬間、胸の奥で何かが定まった。
私は口元に、自分ですら気づかないほどの冷たい笑みを浮かべる。救いの言葉も、情けも、もう用意しない。ただ淡々と、相手の首を絞める手順を書き連ねるだけだ。紙の上を走る文字は、剣よりも静かで、毒よりも遅効性がある。相手が飢えに気づく頃には、もう逃げ道など残っていない。
『屋敷内業務改善命令書、および人事粛正に関する実施計画』
さあ、大掃除の時間だ。
55
あなたにおすすめの小説
私を売女と呼んだあなたの元に戻るはずありませんよね?
ミィタソ
恋愛
アインナーズ伯爵家のレイナは、幼い頃からリリアナ・バイスター伯爵令嬢に陰湿ないじめを受けていた。
レイナには、親同士が決めた婚約者――アインス・ガルタード侯爵家がいる。
アインスは、その艶やかな黒髪と怪しい色気を放つ紫色の瞳から、令嬢の間では惑わしのアインス様と呼ばれるほど人気があった。
ある日、パーティに参加したレイナが一人になると、子爵家や男爵家の令嬢を引き連れたリリアナが現れ、レイナを貶めるような酷い言葉をいくつも投げかける。
そして、事故に見せかけるようにドレスの裾を踏みつけられたレイナは、転んでしまう。
上まで避けたスカートからは、美しい肌が見える。
「売女め、婚約は破棄させてもらう!」
あなたの絶望のカウントダウン
nanahi
恋愛
親同士の密約によりローラン王国の王太子に嫁いだクラウディア。
王太子は密約の内容を知らされないまま、妃のクラウディアを冷遇する。
しかも男爵令嬢ダイアナをそばに置き、面倒な公務はいつもクラウディアに押しつけていた。
ついにダイアナにそそのかされた王太子は、ある日クラウディアに離縁を突きつける。
「本当にいいのですね?」
クラウディアは暗い目で王太子に告げる。
「これからあなたの絶望のカウントダウンが始まりますわ」
好き避けするような男のどこがいいのかわからない
麻宮デコ@SS短編
恋愛
マーガレットの婚約者であるローリーはマーガレットに対しては冷たくそっけない態度なのに、彼女の妹であるエイミーには優しく接している。いや、マーガレットだけが嫌われているようで、他の人にはローリーは優しい。
彼は妹の方と結婚した方がいいのではないかと思い、妹に、彼と結婚するようにと提案することにした。しかしその婚約自体が思いがけない方向に行くことになって――。
全5話
今から婚約者に会いに行きます。〜私は運命の相手ではないから
ありがとうございました。さようなら
恋愛
婚約者が王立学園の卒業を間近に控えていたある日。
ポーリーンのところに、婚約者の恋人だと名乗る女性がやってきた。
彼女は別れろ。と、一方的に迫り。
最後には暴言を吐いた。
「ああ、本当に嫌だわ。こんな田舎。肥溜めの臭いがするみたい。……貴女からも漂ってるわよ」
洗練された都会に住む自分の方がトリスタンにふさわしい。と、言わんばかりに彼女は微笑んだ。
「ねえ、卒業パーティーには来ないでね。恥をかくのは貴女よ。婚約破棄されてもまだ間に合うでしょう?早く相手を見つけたら?」
彼女が去ると、ポーリーンはある事を考えた。
ちゃんと、別れ話をしようと。
ポーリーンはこっそりと屋敷から抜け出して、婚約者のところへと向かった。
義理姉がかわいそうと言われましても、私には関係の無い事です
渡辺 佐倉
恋愛
マーガレットは政略で伯爵家に嫁いだ。
愛の無い結婚であったがお互いに尊重し合って結婚生活をおくっていければいいと思っていたが、伯爵である夫はことあるごとに、離婚して実家である伯爵家に帰ってきているマーガレットにとっての義姉達を優先ばかりする。
そんな生活に耐えかねたマーガレットは…
結末は見方によって色々系だと思います。
なろうにも同じものを掲載しています。
家も婚約者も、もう要りません。今の私には、すべてがありますから
有賀冬馬
恋愛
「嫉妬深い女」と濡れ衣を着せられ、家も婚約者も妹に奪われた侯爵令嬢エレナ。
雨の中、たった一人で放り出された私を拾ってくれたのは、身分を隠した第二王子でした。
彼に求婚され、王宮で輝きを取り戻した私が舞踏会に現れると、そこには没落した元家族の姿が……。
ねぇ、今さら私にすり寄ってきたって遅いのです。だって、私にはもう、すべてがあるのですから。
【12話完結】私はイジメられた側ですが。国のため、貴方のために王妃修行に努めていたら、婚約破棄を告げられ、友人に裏切られました。
西東友一
恋愛
国のため、貴方のため。
私は厳しい王妃修行に努めてまいりました。
それなのに第一王子である貴方が開いた舞踏会で、「この俺、次期国王である第一王子エドワード・ヴィクトールは伯爵令嬢のメリー・アナラシアと婚約破棄する」
と宣言されるなんて・・・
元婚約者様へ――あなたは泣き叫んでいるようですが、私はとても幸せです。
有賀冬馬
恋愛
侯爵令嬢の私は、婚約者である騎士アラン様との結婚を夢見ていた。
けれど彼は、「平凡な令嬢は団長の妻にふさわしくない」と、私を捨ててより高位の令嬢を選ぶ。
絶望に暮れた私が、旅の道中で出会ったのは、国中から恐れられる魔導王様だった。
「君は決して平凡なんかじゃない」
誰も知らない優しい笑顔で、私を大切に扱ってくれる彼。やがて私たちは夫婦になり、数年後。
政争で窮地に陥ったアラン様が、助けを求めて城にやってくる。
玉座の横で微笑む私を見て愕然とする彼に、魔導王様は冷たく一言。
「我が妃を泣かせた罪、覚悟はあるな」
――ああ、アラン様。あなたに捨てられたおかげで、私はこんなに幸せになりました。心から、どうぞお幸せに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる