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第10話 パワハラ厨房
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翌朝。私はいつもより一時間早く起床し、簡素だが動きやすいドレスに着替えた。鏡の前で髪をきつく結い上げて、戦いに臨む支度を整えた。最初に向かったのは、屋敷の心臓部の一つである厨房だ。
早朝の厨房は、本来なら朝食の準備で活気づいているはずだ。かまどの火が燃え、スープの香りが漂い、包丁がまな板を叩くリズムが響く。それが健全な屋敷の朝だが、今のフォンテーヌ家の厨房は違った。
扉を開けた瞬間、室内には緊張感の欠けた、だらけた空気がゆるやかに漂っていた。張りつめるべき場であるはずなのに、気の抜けた雰囲気が満ちており、思わず眉をひそめたくなるほどだった。かまどの火は種火程度で食材は出しっぱなし。そして、料理長のフィリップは、調理台に腰掛けてタバコをふかしていた。そばには、下働きの美少年が怯えた様子で控えている。
「あぁ? なんだ、お嬢か」
フィリップは私を見ても、タバコを消そうともしなかった。彼はイザベルが連れてきた料理人で、腕はそこそこだが、態度と手癖の悪さは一級品だ。特にローザの機嫌を取るのがうまく、彼女の『天使のおやつ』を一手に引き受けることで、屋敷内での地位を確立していた。私は、この男がイザベルの愛人ではないかと疑っている。言動の端々に不自然さがあり、どうにも偶然とは思えない点が多かったからだ。
「おはよう、フィリップ。朝食の準備はどうなっているの?」
「見ての通りさ。これからやるとこだよ。旦那様は寝たきりだし、奥様とローザ様は起きるのが遅ぇ。急ぐ必要なんてねぇだろ」
「私の朝食は七時と決まっているはずよ」
「へいへい。パンと昨日の残りスープでいいでしょ? カロリー気にしなきゃなんねぇしな」
彼はニタニタと笑い、煙を天井に吐き出した。完全な舐め腐った態度は、私が何も言い返せないと思っているのだ。これまでは、波風を立てないために黙認してきたが、それも昨日までだ。
「フィリップ。あなたに質問があるの」
「あぁ? なんだよ忙しいのに」
「先月の食材発注リストと、在庫管理表の照合をしていたのだけれど」
私は懐から一枚の書類を取り出した。
「高級牛肉が三十キロ、赤ワインが十二本、最高級バターが五キロ。これだけの量が、食卓に出された記録がないまま消失しているわ。どこへ消えたのかしら?」
フィリップの表情がピクリと動いた。だが、すぐに尊大な態度を取り戻す。
「あー、そりゃあれだ。腐っちまったから廃棄したんだよ。管理が悪かったかな? へへっ」
「廃棄? ならば廃棄記録があるはずよ。見せなさい」
「そんなもんいちいちつけてられるかよ! 俺は料理人だぞ、事務屋じゃねぇんだ!」
彼は大声で怒鳴り、威圧しようとしてきた。だが、私は眉一つ動かさない。物理的な暴力なら脅威だが、音量だけの威嚇など騒音でしかない。
「記録がないのなら、横領とみなします」
「なっ……! 言いがかりだぞ!」
「いいえ、事実確認です。それと、もう一つ。あなたが裏口から出入りしている業者の馬車に、屋敷のゴミを積んでいるのを見たという証言があるわ。そのゴミの中に、なぜか未開封のワインボトルが混ざっていたそうね」
フィリップの顔色は、最初は赤く火照っていたのに、次の瞬間には青ざめ、やがて生気を失った土気色へと変わっていった。感情がそのまま表に出ているかのようだった。私はジェラルドに命じて、裏口を監視させていたのだ。ネズミの通り道を押さえるのは駆除の基本である。
「そ、それは……」
「言い訳は不要よ。あなたを即刻、解雇します」
私は冷ややかに告げた。
「な、なんだと!? ふざけんな! 俺をクビにしたら、誰が飯を作るんだ! そ、そんなことしたら奥様が黙っちゃいねぇぞ!」
「代わりなら、そこにいる彼がいるわ」
私は隅で震えていた下働きの美少年、リュシアンを指差した。彼は真面目で、夜遅くまで一人で包丁研ぎをしているのを知っている。
「リュシアン、あなたが今日の朝食を作りなさい。メニューはオムレツとサラダ。できるわね?」
「は、はいっ! できます!」
「よろしい。フィリップ、あなたは今すぐ荷物をまとめて出て行きなさい。退職金は、横領した食材費と相殺します。むしろ足りないくらいだから、追って請求書を送るわ」
フィリップは怒りに任せて私に掴みかかろうとしたが、背後に控えていたジェラルドが素早い動きで彼の腕を捻り上げた。ジェラルドは元・王宮護衛官だ。老いてもその腕力は錆び付いていない。
「がっ……! はなせっ!」
「お嬢様への狼藉、これ以上は看過できませんな。……さあ、ご退場願いましょうか、『元』料理長殿」
ジェラルドに引きずられるようにして、フィリップは厨房から連れ出された。残されたのは静寂と、唖然とする他の厨房スタッフたち。
私はパンパンと手を叩き、空気を切り替えた。
「聞いての通りよ。今日から、不正と怠慢は一切許容しません。その代わり、真面目に働く者には正当な対価と評価を約束します。……さあ、仕事に戻って」
「はいっ!」
久しぶりに聞く張りのある返事が返ってきた。恐怖による支配ではなく規律の再構築だ。腐ったリンゴを取り除けば、他のリンゴは腐らずに済む。
早朝の厨房は、本来なら朝食の準備で活気づいているはずだ。かまどの火が燃え、スープの香りが漂い、包丁がまな板を叩くリズムが響く。それが健全な屋敷の朝だが、今のフォンテーヌ家の厨房は違った。
扉を開けた瞬間、室内には緊張感の欠けた、だらけた空気がゆるやかに漂っていた。張りつめるべき場であるはずなのに、気の抜けた雰囲気が満ちており、思わず眉をひそめたくなるほどだった。かまどの火は種火程度で食材は出しっぱなし。そして、料理長のフィリップは、調理台に腰掛けてタバコをふかしていた。そばには、下働きの美少年が怯えた様子で控えている。
「あぁ? なんだ、お嬢か」
フィリップは私を見ても、タバコを消そうともしなかった。彼はイザベルが連れてきた料理人で、腕はそこそこだが、態度と手癖の悪さは一級品だ。特にローザの機嫌を取るのがうまく、彼女の『天使のおやつ』を一手に引き受けることで、屋敷内での地位を確立していた。私は、この男がイザベルの愛人ではないかと疑っている。言動の端々に不自然さがあり、どうにも偶然とは思えない点が多かったからだ。
「おはよう、フィリップ。朝食の準備はどうなっているの?」
「見ての通りさ。これからやるとこだよ。旦那様は寝たきりだし、奥様とローザ様は起きるのが遅ぇ。急ぐ必要なんてねぇだろ」
「私の朝食は七時と決まっているはずよ」
「へいへい。パンと昨日の残りスープでいいでしょ? カロリー気にしなきゃなんねぇしな」
彼はニタニタと笑い、煙を天井に吐き出した。完全な舐め腐った態度は、私が何も言い返せないと思っているのだ。これまでは、波風を立てないために黙認してきたが、それも昨日までだ。
「フィリップ。あなたに質問があるの」
「あぁ? なんだよ忙しいのに」
「先月の食材発注リストと、在庫管理表の照合をしていたのだけれど」
私は懐から一枚の書類を取り出した。
「高級牛肉が三十キロ、赤ワインが十二本、最高級バターが五キロ。これだけの量が、食卓に出された記録がないまま消失しているわ。どこへ消えたのかしら?」
フィリップの表情がピクリと動いた。だが、すぐに尊大な態度を取り戻す。
「あー、そりゃあれだ。腐っちまったから廃棄したんだよ。管理が悪かったかな? へへっ」
「廃棄? ならば廃棄記録があるはずよ。見せなさい」
「そんなもんいちいちつけてられるかよ! 俺は料理人だぞ、事務屋じゃねぇんだ!」
彼は大声で怒鳴り、威圧しようとしてきた。だが、私は眉一つ動かさない。物理的な暴力なら脅威だが、音量だけの威嚇など騒音でしかない。
「記録がないのなら、横領とみなします」
「なっ……! 言いがかりだぞ!」
「いいえ、事実確認です。それと、もう一つ。あなたが裏口から出入りしている業者の馬車に、屋敷のゴミを積んでいるのを見たという証言があるわ。そのゴミの中に、なぜか未開封のワインボトルが混ざっていたそうね」
フィリップの顔色は、最初は赤く火照っていたのに、次の瞬間には青ざめ、やがて生気を失った土気色へと変わっていった。感情がそのまま表に出ているかのようだった。私はジェラルドに命じて、裏口を監視させていたのだ。ネズミの通り道を押さえるのは駆除の基本である。
「そ、それは……」
「言い訳は不要よ。あなたを即刻、解雇します」
私は冷ややかに告げた。
「な、なんだと!? ふざけんな! 俺をクビにしたら、誰が飯を作るんだ! そ、そんなことしたら奥様が黙っちゃいねぇぞ!」
「代わりなら、そこにいる彼がいるわ」
私は隅で震えていた下働きの美少年、リュシアンを指差した。彼は真面目で、夜遅くまで一人で包丁研ぎをしているのを知っている。
「リュシアン、あなたが今日の朝食を作りなさい。メニューはオムレツとサラダ。できるわね?」
「は、はいっ! できます!」
「よろしい。フィリップ、あなたは今すぐ荷物をまとめて出て行きなさい。退職金は、横領した食材費と相殺します。むしろ足りないくらいだから、追って請求書を送るわ」
フィリップは怒りに任せて私に掴みかかろうとしたが、背後に控えていたジェラルドが素早い動きで彼の腕を捻り上げた。ジェラルドは元・王宮護衛官だ。老いてもその腕力は錆び付いていない。
「がっ……! はなせっ!」
「お嬢様への狼藉、これ以上は看過できませんな。……さあ、ご退場願いましょうか、『元』料理長殿」
ジェラルドに引きずられるようにして、フィリップは厨房から連れ出された。残されたのは静寂と、唖然とする他の厨房スタッフたち。
私はパンパンと手を叩き、空気を切り替えた。
「聞いての通りよ。今日から、不正と怠慢は一切許容しません。その代わり、真面目に働く者には正当な対価と評価を約束します。……さあ、仕事に戻って」
「はいっ!」
久しぶりに聞く張りのある返事が返ってきた。恐怖による支配ではなく規律の再構築だ。腐ったリンゴを取り除けば、他のリンゴは腐らずに済む。
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