幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第35話

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「それはまるで、貴女のことのようですね」

「え……」

不意に投げかけられた言葉に、どきり、と心臓が大きく跳ねた。
私の、こと?
顔が熱くなるのを感じて、慌てて俯く。彼はそれ以上何も言わず、ただ静かにページをめくっていた。その沈黙が、やけに心地よかった。
心にずっと居場所がなかった私に、彼の言葉だけが、優しく、優しく染み渡っていくようだった。

またある時は、街で突然の夕立に見舞われた時だった。慌てて駆け込んだ教会の軒下で雨宿りをしていると、すぐ隣に、同じように駆け込んできた人影があった。息を切らして顔を上げると、そこにいたのは、やはり彼だった。

「……また、お会いしましたね」

「ええ。奇遇ですね、ヴァレント様」

偶然が重なりすぎている。でも、それを指摘する勇気はなかった。
激しい雨音が、私たちの言葉を覆い隠した。しばらく、二人で黙って降りしきる雨を眺めていた。

「……あの夜」

不意に、彼が口を開いた。

「あの夜、貴女の踊りには悲しみが混じっていた」

びくり、と肩が震える。
あの夜。彼が、初めてあの夜のことを口にした。
でも、それは問いかけではなかった。ただ、事実を告げるような、静かな声だった。

「どうして、そう思われたのですか」

「君のステップが、そう語っていたからだ。楽しもうとしながら、どこか世界を拒絶しているような、そんな危ういステップだった」

見抜かれていた。私の心の中まで、すべて。
仮面をつけて、別人になろうとしていたのに。この人には、何もかもお見通しだったんだ。

「あなたが誰であろうと、私の心は……仮面のままではごまかせないのですね」

ぽつりと、本音がこぼれた。それは、彼に対する降参宣言のようなものだった。
彼は私の方を向くと、その古いワインのような瞳で、まっすぐに私を見つめた。

「悲しみは、悪いことではない。だが、それに囚われてはいけない。君の魂は、もっと自由に羽ばたきたがっている」

雨は、いつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差した西日が、彼の横顔を黄金色に照らす。
彼はそれだけ言うと、『では、失礼』と軽く会釈して、去っていった。

私はその場から動けずに、ただ彼の後ろ姿を見送っていた。胸の中が、温かいような、切ないような、不思議な感情でいっぱいになっていた。

それからも、公式の晩餐会で偶然席が隣になったり、庭園を散策しているとばったり出くわしたり、そんなことが続いた。
彼は決して仮面舞踏会の夜のことをはっきりとは口にしない。いつも冷静で、完璧な外交官の顔を崩さない。

でも、ふとした瞬間に見せる優しい眼差しや、二人きりの時にだけ交わされる短い会話が、私たちの間に見えない絆を紡いでいくのを感じていた。
公の場では『ヴァレント様』、二人きりの時は、時々『カイ様』と呼んでしまう私を、彼は決して責めることはなかった。

私は、どんどん彼に惹かれていった。
ミステリアスなところも、私の心を見透かす鋭さも、そして、たまに見せる不意の優しさも。そのすべてが、私の心を掴んで離さなかった。

彼が身分を隠し、私に素知らぬふりをするのには、きっと何か深い理由があるのだろう。そう思うと、彼を問い詰めることなんてできなかった。ただ、彼のそばにいられるだけで、よかった。
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