36 / 83
第36話
しおりを挟む
そんな穏やかな日々が、突如として引き裂かれたのは、ある月の美しい夜だった。
姉たちと共に出席した音楽会からの帰り道。少し夜風にあたりたいと、一人で王宮の庭園を散策していた。
すると、濃い緑のアーチの先に、見慣れた姿が見えた。
「カイ様……?」
声をかけると、彼は驚いたように振り返った。その顔に、一瞬だけ、素の表情が浮かんだ気がした。
「アイラ嬢。こんな夜更けに、どうされたのですか」
「少し、考え事を。あなたこそ」
「私も、同じです」
二人で並んで、静かな噴水の縁に腰を下ろす。月の光が水面に反射して、きらきらと揺れていた。
「……貴女に、言わねばならないことがある」
彼が、真剣な声で切り出した。私は息を呑んで、彼の次の言葉を待つ。
だが、その言葉が紡がれることはなかった。
「誰だッ!」
カイ様が鋭く叫び、立ち上がったのと、茂みの中から黒装束の男たちが数人飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。その手には、鈍く光る刃。
「きゃっ!」
悲鳴を上げた私を、カイ様が素早く自分の背後にかばう。
「下がりなさい!」
信じられない光景だった。いつも穏やかで知的な彼が、まるで熟練の戦士のように、刺客たちと対峙している。その立ち居振る舞いは、ただの外交官のものではなかった。
金属音が響き渡り、火花が散る。彼はどこからか取り出した短剣一本で、複数の敵を相手に一歩も引けを取らない。
けれど、敵の数が多い。じりじりと、私たちは追い詰められていく。
一人の刺客が、カイ様の相手をすり抜けて、私の方へ向かってきた!
「危ないっ!」
もうダメだ、と思った瞬間。
カイ様が、私を力強く突き飛ばした。私は体勢を崩し、地面に倒れ込む。
そして、見てしまった。
私を庇った彼の背中に、敵の刃が、深く突き刺さるのを。
「──っ!」
言葉にならない痛みに耐えきれず、彼の体はふと揺らいだ。
その隙を見逃さなかった刺客が、さらにとどめを刺そうと刃を振り上げた。
「殿下──っ!」
その時、どこからともなく現れた護衛らしき男たちが、刺客たちに襲いかかった。彼らはあっという間に残りの刺客を制圧すると、傷を負ったカイ様に駆け寄る。
「カイ殿下、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
──殿下?
私は、自分の耳を疑った。
地面に倒れ込んだまま、動けない。全身の血が、さあっと引いていくのを感じた。
(……殿下?)
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
刺客の狙いは、アーヴェル王国の使節団。そして、護衛たちは彼を『殿下』と呼んだ。
まさか。そんな。
ありえない。
傷を負い、護衛に支えられながらも、カイ様は私の方を振り返った。その顔は苦痛に歪み、血の気を失っている。
「……どうして、私なんかに……」
震える声で、私は尋ねた。どうして、命を懸けてまで、私を守ったりしたの。あなたは、一体、誰なの。
彼は、途切れそうな息の中で、答えてくれた。その瞳は、真摯な光を宿して、まっすぐに私を見つめている。
「私が初めて……“心を奪われた相手”だったからだ。……身分など、最初から……関係なかった……」
それが、彼の告白だった。
初めて心を奪われた相手。その言葉が、私の胸に深く、深く突き刺さる。
ああ、嬉しい。こんな状況なのに、どうしようもなく、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
でも。
でも、それと同時に、絶望的な事実が、私の意識を打ちのめした。
アーヴェル王国。それは、我がバランシュナイル公爵家が、長年国境で睨み合ってきた隣国。外交上は友好を保っているとはいえ、水面下では緊張が続く、いわば『敵国』。
その国の、王族。殿下。
仮面の男の正体は──敵国の王族だったのだ。
世界から、音が消えた。
月の光が、やけに白々しく感じられた。
私の恋の物語は、始まった瞬間に、最も残酷な形で、その正体を現したのだった。
姉たちと共に出席した音楽会からの帰り道。少し夜風にあたりたいと、一人で王宮の庭園を散策していた。
すると、濃い緑のアーチの先に、見慣れた姿が見えた。
「カイ様……?」
声をかけると、彼は驚いたように振り返った。その顔に、一瞬だけ、素の表情が浮かんだ気がした。
「アイラ嬢。こんな夜更けに、どうされたのですか」
「少し、考え事を。あなたこそ」
「私も、同じです」
二人で並んで、静かな噴水の縁に腰を下ろす。月の光が水面に反射して、きらきらと揺れていた。
「……貴女に、言わねばならないことがある」
彼が、真剣な声で切り出した。私は息を呑んで、彼の次の言葉を待つ。
だが、その言葉が紡がれることはなかった。
「誰だッ!」
カイ様が鋭く叫び、立ち上がったのと、茂みの中から黒装束の男たちが数人飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。その手には、鈍く光る刃。
「きゃっ!」
悲鳴を上げた私を、カイ様が素早く自分の背後にかばう。
「下がりなさい!」
信じられない光景だった。いつも穏やかで知的な彼が、まるで熟練の戦士のように、刺客たちと対峙している。その立ち居振る舞いは、ただの外交官のものではなかった。
金属音が響き渡り、火花が散る。彼はどこからか取り出した短剣一本で、複数の敵を相手に一歩も引けを取らない。
けれど、敵の数が多い。じりじりと、私たちは追い詰められていく。
一人の刺客が、カイ様の相手をすり抜けて、私の方へ向かってきた!
「危ないっ!」
もうダメだ、と思った瞬間。
カイ様が、私を力強く突き飛ばした。私は体勢を崩し、地面に倒れ込む。
そして、見てしまった。
私を庇った彼の背中に、敵の刃が、深く突き刺さるのを。
「──っ!」
言葉にならない痛みに耐えきれず、彼の体はふと揺らいだ。
その隙を見逃さなかった刺客が、さらにとどめを刺そうと刃を振り上げた。
「殿下──っ!」
その時、どこからともなく現れた護衛らしき男たちが、刺客たちに襲いかかった。彼らはあっという間に残りの刺客を制圧すると、傷を負ったカイ様に駆け寄る。
「カイ殿下、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
──殿下?
私は、自分の耳を疑った。
地面に倒れ込んだまま、動けない。全身の血が、さあっと引いていくのを感じた。
(……殿下?)
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
刺客の狙いは、アーヴェル王国の使節団。そして、護衛たちは彼を『殿下』と呼んだ。
まさか。そんな。
ありえない。
傷を負い、護衛に支えられながらも、カイ様は私の方を振り返った。その顔は苦痛に歪み、血の気を失っている。
「……どうして、私なんかに……」
震える声で、私は尋ねた。どうして、命を懸けてまで、私を守ったりしたの。あなたは、一体、誰なの。
彼は、途切れそうな息の中で、答えてくれた。その瞳は、真摯な光を宿して、まっすぐに私を見つめている。
「私が初めて……“心を奪われた相手”だったからだ。……身分など、最初から……関係なかった……」
それが、彼の告白だった。
初めて心を奪われた相手。その言葉が、私の胸に深く、深く突き刺さる。
ああ、嬉しい。こんな状況なのに、どうしようもなく、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
でも。
でも、それと同時に、絶望的な事実が、私の意識を打ちのめした。
アーヴェル王国。それは、我がバランシュナイル公爵家が、長年国境で睨み合ってきた隣国。外交上は友好を保っているとはいえ、水面下では緊張が続く、いわば『敵国』。
その国の、王族。殿下。
仮面の男の正体は──敵国の王族だったのだ。
世界から、音が消えた。
月の光が、やけに白々しく感じられた。
私の恋の物語は、始まった瞬間に、最も残酷な形で、その正体を現したのだった。
976
あなたにおすすめの小説
妹を選んで婚約破棄した婚約者は、平民になる現実を理解していなかったようです
藤原遊
恋愛
跡継ぎとして育てられた私には、将来を約束された婚約者がいた。
――けれど彼は、私ではなく「妹」を選んだ。
妹は父の愛人の子。
身分も立場も分かったうえでの選択だと思っていたのに、
彼はどうやら、何も理解していなかったらしい。
婚約を破棄し、妹と結ばれた彼は、
当然のように貴族の立場を失い、平民として生きることになる。
一方で、妹は覚悟を決めて現実に向き合っていく。
だが彼だけが、最後まで「元に戻れる」と信じ続けていた。
これは、誰かが罰した物語ではない。
ただ、選んだ道の先にあった現実の話。
覚悟のなかった婚約者が、
自分の選択と向き合うまでを描いた、静かなざまぁ物語。
裏切ったのはあなたですよね?─湖に沈められ記憶を失った私は、大公女として返り咲き幸せを掴みます
nanahi
恋愛
婚約者ウィルとその幼馴染ベティに罠にはめられ、湖へ沈められた伯爵令嬢アミアン。一命を取り留め、公女として生まれ変わった彼女が見たのは、裏切り者の幸せな家庭だった。
アミアンは絶望を乗り越え、第二の人生を歩む決意をする。いまだ国に影響力を持つ先の王弟の大公女として、輝くほど磨き上げられていったアミアンに再会したウィルは激しく後悔するが、今更遅かった。
全ての記憶を取り戻したアミアンは、ついに二人の悪事を断罪する。
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
婚約破棄はまだですか?─豊穣をもたらす伝説の公爵令嬢に転生したけど、王太子がなかなか婚約破棄してこない
nanahi
恋愛
火事のあと、私は王太子の婚約者:シンシア・ウォーレンに転生した。王国に豊穣をもたらすという伝説の黒髪黒眼の公爵令嬢だ。王太子は婚約者の私がいながら、男爵令嬢ケリーを愛していた。「王太子から婚約破棄されるパターンね」…私はつらい前世から解放された喜びから、破棄を進んで受け入れようと自由に振る舞っていた。ところが王太子はなかなか破棄を告げてこなくて…?
幼馴染に夢中の夫を捨てた貴婦人は、王太子に熱愛される
Narian
恋愛
アイリスの夫ロイは、新婚の頃から金髪の愛らしい幼馴染・フローラに夢中で、妻には見向きもしなかった。
夫からは蔑ろにされ、夫の両親からは罵られ、フローラからは見下される日々。そしてアイリスは、ついに決意する。
「それほど幼馴染が大切なら、どうぞご自由に。私は出て行って差し上げます」
これは、虐げられた主人公が、過去を断ち切り幸せを掴む物語。
※19話完結。
毎日夜9時ごろに投稿予定です。朝に投稿することも。お気に入り登録していただけたら嬉しいです♪
【完結】私と婚約破棄して恋人と結婚する? ならば即刻我が家から出ていって頂きます
水月 潮
恋愛
ソフィア・リシャール侯爵令嬢にはビクター・ダリオ子爵令息という婚約者がいる。
ビクターは両親が亡くなっており、ダリオ子爵家は早々にビクターの叔父に乗っ取られていた。
ソフィアの母とビクターの母は友人で、彼女が生前書いた”ビクターのことを託す”手紙が届き、亡き友人の願いによりソフィアの母はビクターを引き取り、ソフィアの婚約者にすることにした。
しかし、ソフィアとビクターの結婚式の三ヶ月前、ビクターはブリジット・サルー男爵令嬢をリシャール侯爵邸に連れてきて、彼女と結婚するからソフィアと婚約破棄すると告げる。
※設定は緩いです。物語としてお楽しみ頂けたらと思います。
*HOTランキング1位到達(2021.8.17)
ありがとうございます(*≧∀≦*)
捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来
鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」
婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。
王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。
アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。
だが、彼女は決して屈しない。
「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」
そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。
――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。
彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」
王命により、婚約破棄されました。
緋田鞠
恋愛
魔王誕生に対抗するため、異界から聖女が召喚された。アストリッドは結婚を翌月に控えていたが、婚約者のオリヴェルが、聖女の指名により独身男性のみが所属する魔王討伐隊の一員に選ばれてしまった。その結果、王命によって二人の婚約が破棄される。運命として受け入れ、世界の安寧を祈るため、修道院に身を寄せて二年。久しぶりに再会したオリヴェルは、以前と変わらず、アストリッドに微笑みかけた。「私は、長年の約束を違えるつもりはないよ」。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる