幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第36話

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そんな穏やかな日々が、突如として引き裂かれたのは、ある月の美しい夜だった。
姉たちと共に出席した音楽会からの帰り道。少し夜風にあたりたいと、一人で王宮の庭園を散策していた。
すると、濃い緑のアーチの先に、見慣れた姿が見えた。

「カイ様……?」

声をかけると、彼は驚いたように振り返った。その顔に、一瞬だけ、素の表情が浮かんだ気がした。

「アイラ嬢。こんな夜更けに、どうされたのですか」

「少し、考え事を。あなたこそ」

「私も、同じです」

二人で並んで、静かな噴水の縁に腰を下ろす。月の光が水面に反射して、きらきらと揺れていた。

「……貴女に、言わねばならないことがある」

彼が、真剣な声で切り出した。私は息を呑んで、彼の次の言葉を待つ。
だが、その言葉が紡がれることはなかった。

「誰だッ!」

カイ様が鋭く叫び、立ち上がったのと、茂みの中から黒装束の男たちが数人飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。その手には、鈍く光る刃。

「きゃっ!」

悲鳴を上げた私を、カイ様が素早く自分の背後にかばう。

「下がりなさい!」

信じられない光景だった。いつも穏やかで知的な彼が、まるで熟練の戦士のように、刺客たちと対峙している。その立ち居振る舞いは、ただの外交官のものではなかった。

金属音が響き渡り、火花が散る。彼はどこからか取り出した短剣一本で、複数の敵を相手に一歩も引けを取らない。
けれど、敵の数が多い。じりじりと、私たちは追い詰められていく。

一人の刺客が、カイ様の相手をすり抜けて、私の方へ向かってきた!

「危ないっ!」

もうダメだ、と思った瞬間。
カイ様が、私を力強く突き飛ばした。私は体勢を崩し、地面に倒れ込む。
そして、見てしまった。
私を庇った彼の背中に、敵の刃が、深く突き刺さるのを。

「──っ!」

言葉にならない痛みに耐えきれず、彼の体はふと揺らいだ。
その隙を見逃さなかった刺客が、さらにとどめを刺そうと刃を振り上げた。

「殿下──っ!」

その時、どこからともなく現れた護衛らしき男たちが、刺客たちに襲いかかった。彼らはあっという間に残りの刺客を制圧すると、傷を負ったカイ様に駆け寄る。

「カイ殿下、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

──殿下?

私は、自分の耳を疑った。
地面に倒れ込んだまま、動けない。全身の血が、さあっと引いていくのを感じた。

(……殿下?)

その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
刺客の狙いは、アーヴェル王国の使節団。そして、護衛たちは彼を『殿下』と呼んだ。
まさか。そんな。
ありえない。

傷を負い、護衛に支えられながらも、カイ様は私の方を振り返った。その顔は苦痛に歪み、血の気を失っている。

「……どうして、私なんかに……」

震える声で、私は尋ねた。どうして、命を懸けてまで、私を守ったりしたの。あなたは、一体、誰なの。

彼は、途切れそうな息の中で、答えてくれた。その瞳は、真摯な光を宿して、まっすぐに私を見つめている。

「私が初めて……“心を奪われた相手”だったからだ。……身分など、最初から……関係なかった……」

それが、彼の告白だった。
初めて心を奪われた相手。その言葉が、私の胸に深く、深く突き刺さる。
ああ、嬉しい。こんな状況なのに、どうしようもなく、嬉しいと思ってしまう自分がいる。

でも。
でも、それと同時に、絶望的な事実が、私の意識を打ちのめした。
アーヴェル王国。それは、我がバランシュナイル公爵家が、長年国境で睨み合ってきた隣国。外交上は友好を保っているとはいえ、水面下では緊張が続く、いわば『敵国』。
その国の、王族。殿下。

仮面の男の正体は──敵国の王族だったのだ。

世界から、音が消えた。
月の光が、やけに白々しく感じられた。
私の恋の物語は、始まった瞬間に、最も残酷な形で、その正体を現したのだった。
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