幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第38話

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あの日から、私はカイ様と会っていない。
部屋に閉じこもって、ただ黙々と刺繍に心を注いでいた。チク、チク、と針を進める音だけが、私の心を無にしてくれる。

(どうして、よりにもよって……)

ため息しか出ない。
アーヴェル王国と我が国は、百年前の大戦以来、ずっと冷え切った関係が続いている。表向きは停戦しているけれど、国境付近では小競り合いが絶えない。

そんな国の王弟と、この国の防衛の要であるバランシュナイル公爵家の娘が、恋仲だなんて。
もし、そんなことが明るみに出たら。
考えただけで、血の気が引く。我が家は、国を裏切ったと見なされ、取り潰されるかもしれない。カイ様の立場だって、危うくなるに決まっている。

「……ダメよ、アイラ。しっかりしなきゃ」

これは、ただの気の迷い。一時の夢。
そう自分に言い聞かせても、カイ様の哀しげな瞳が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

そんな私の晴れない心のままに過ぎていく日々を、さらにかき乱す存在が、あの物置の二人組だった。

その日、私は気分転換に、少しだけ街に出ることにした。
お気に入りの書店で新しい本を買い、カフェでお茶をしていた時だった。

「まあ、オリバー様ったら、そんなに慌てなくてもケーキは逃げませんわ」

「う、うるさい! 俺は腹が減っているんだ!」

聞き覚えのある声に顔を上げると、店の入り口で、オリバーとローズが言い争いをしていた。二人とも、普段の薄汚れた格好ではなく、少しだけマシな服を着ている。どうやら、お小遣いを貯めてデートにでも来たらしい。

(本当に、どこで会っても騒がしいんだから……)

見つからないように、視線をやわらかく離す。けれど、私の願いも虚しく、ローズがぱっと顔を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。

「まあ! アイラ様じゃありませんか! 奇遇ですわね!」

「……ええ」

不機嫌そうな表情を浮かべたオリバーが、しぶしぶといった感じで頭を下げる。

「アイラ様も、お一人でお茶ですの? よろしければ、ご一緒しても?」

「え、ええ……」

断れる雰囲気でもなく、私たちは三人でテーブルを囲むことになった。気まずい。気まずすぎる。

「それにしても、羨ましいですわ。アイラ様はいつでもこんな素敵なお店で、美味しいケーキが食べられて」

ローズの言葉には、わずかながらも攻撃的な響きがあった。

「オリバー様なんて、たまのデートなのに、一番安いケーキしか頼んでくださらないのよ。ひどいと思いませんこと?」

「なっ! ローズ、お前な!」

「だって、本当のことですもの!」

また始まった。私は黙って紅茶を飲む。
彼らの過去については、詳しく聞いたことがある。オリバーは王太子である兄と常に比べられ、出来が悪いと父王に疎まれていた。ローズも男爵家の生まれで、もっと高い身分の家に嫁ぎたいという野心があったらしい。そんな二人が、互いの足りない部分を埋めるように、惹かれ合った。そして、誰にも祝福されないまま、すべてを失った。

彼らが私に向ける感情は、きっと嫉妬と劣等感が入り混じった複雑なものなのだろう。慈悲をかけたはずの相手に、憐れみの目で見られるのは、プライドが許さないのかもしれない。

「アイラ様は、良いですわよね。バランシュナイル公爵令嬢という、誰もが羨む身分で。きっと、この国の誰とでも結婚できるのでしょう?」

「……そんなこと、ないわ」

「またまた、ご冗談を」

ローズの嫌味を、オリバーが咳払いで制した。

「ローズ、やめろ。調子に乗ると、外に放り出されて寝袋生活だぞ」

「あら、ごめんなさいまし。でも、私にはわかるんですの。アイラ様、最近、何か悩んでいらっしゃるお顔をしていますわ。もしかして、恋のお悩み、とか?」

ドキリとした。
図星だった。顔に出てしまっていただろうか。

「そ、そんなことないわ。気のせいよ」

必死で平静を装う。これ以上、この二人といるのは危険だ。

「それじゃあ、私はこれで。用事を思い出したから」

そそくさと会計を済ませ、私はカフェを飛び出した。背中に、ローズの探るような視線が突き刺さるのを感じながら。

公爵邸に逃げ帰ると、正面の広間で父が待っていた。

「アイラ。少し、話がある」

父の厳しい声に、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
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