幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第39話

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書斎に通された私は、重厚な革張りの椅子の前に、ただまっすぐに立つことしかできなかった。父は、バランシュナイル公爵家の当主として、いつも厳格で、私に笑顔を見せることは滅多にない。

「……最近、お前の様子がおかしいと、執事から報告を受けている」

「……申し訳、ございません」

「何があった」

単刀直入な問いに、言葉が詰まる。
言えるはずがない。敵国の王弟と恋に落ちました、なんて。

私が黙っていると、父は大きなため息をついた。

「……近々、お前に縁談の話が来るだろう。相手は、財務大臣の嫡男、クラウド卿だ。悪い話ではない。心づもりをしておけ」

「え……?」

縁談。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
クラウド卿。真面目で、家柄も申し分ない立派な方だと聞いている。以前の私なら、公爵令嬢としての務めだと、素直に受け入れていたかもしれない。

でも、今は。
カイ様を知ってしまった今、他の誰かと結婚するなんて、考えられなかった。

「嫌です」

自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
父の眉が、ぴくりと上がる。

「……何だと?」

「わたくし、その縁談は、お受けできません」

「理由を聞こうか」

「それは……」

言えない。理由なんて、言えるわけがない。

「わたくしには、心に決めた方がおります」

思わず、そう嘘をついてしまった。嘘ではない。嘘ではないけれど、それは決して口にしてはいけない真実。

「ほう。どこの男だ」

父の鋭い視線が、私の心の奥を見透かすようだった。

「……今は、申し上げられません」

「ふざけるな!」

父の怒声が、書斎に響き渡った。

「バランシュナイル家の娘であるお前が、どこの馬の骨とも知れぬ男にのぼせ上がるなど、許されると思うのか! 家の、そして国のことを考えろ!」

「ですが……」

「問答無用! クラウド卿との縁談は、すでに進めている。お前が心に決めた男とやらを諦め、公爵令嬢としての務めを果たせ。いいな!」

有無を言わせぬ父の言葉に、私は唇を噛みしめることしかできなかった。
悔しくて、悲しくて、涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。

その夜、私は眠れなかった。
縁談のこと、父の怒り、そして、カイ様のこと。
何もかもが、私の頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。

(会いたい……カイ様に、会いたい……)

どうしようもなく、彼に会いたくなった。
彼の声が聞きたい。彼の優しい目に、見つめてほしい。
この苦しい胸の内を、聞いてほしい。

数日後、不意に届いたカイ様からの手紙に、心が大きく波打った。

『一目だけでも会いたい。君に、伝えなければならないことがある』と。

ダメだ、と理性が叫ぶ。会いたい気持ちはあるのに、会えば余計につらくなるのが分かっている。
でも、私の足は、言うことを聞かなかった。



「人が多いな……おい、ローズ、こっちだ。はぐれるなよ」

公爵邸の片隅に身を寄せて暮らすふたりは、その日も仲睦まじく出かけていた。門限を守る限り、行動はほとんど自由だった。
人混みの中、照れ隠しかのように、オリバーは不器用にローズの手を取った。その大きな手に、ローズの胸が、きゅん、と小さく鳴る。こういう不意の優しさが、彼のずるいところだった。

「……べ、別に、子供じゃないんだから、大丈夫よ」

「うるさい。いいから黙ってついてこい」

憎まれ口を叩きながらも、繋がれた手は温かい。ローズは俯いて、誰にも見えないように、そっと微笑んだ。
そんな、ささやかな幸せに包まれていた。その時だった。
ふと、オリバーが足を止めた。彼の視線の先、カフェのテラス席に、見覚えのある顔があった。

「……あれは」

銀と青のドレス……ではない、もっと質素な街着に身を包んだ、公爵令嬢アイラ。そして、その向かいに座る男。

「アイラのやつ、男と逢い引きか?」

オリバーが、下世話な好奇心で目を細める。だが、相手の顔を認識した瞬間、彼の表情が凍りついた。
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