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第47話
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その夜、王城のゲストハウスに戻ってからも、カイ様はどこか上の空だった。
夕食の席でも言葉少なで、私が話しかけても、どこか遠い場所から返事をしているようで、今にも途切れそうな距離感を感じた。
並木道での出来事が、彼の心を揺さぶっているのは明らかだった。私は、聞くべきか、聞かざるべきか、ずっと迷っていた。彼の触れられたくない部分に、土足で踏み込んでしまうのではないか。そう思うと、怖かった。
でも、彼のあんな顔を見たら、知らないままでいることなんてできない。彼の苦しみを、少しでも分かち合いたい。
暖炉の炎がぱちぱちと小さな音を奏でるラウンジで、二人きりになったとき、私はついに口を開いた。
「……カイ様」
「……はい」
「あの……昼間の、並木道にいた女性……。どなた、なのですか?」
私の声は、自分でも驚くほど震えていた。
カイ様は、手にしていたワイングラスをそっとテーブルに置くと、少しだけ目を伏せて答えた。その声は、かすれた風のように聞こえた。
「……私が、かつて婚約していた相手だ」
「……え?」
息が、止まる。婚約者。彼の、婚約者。聞いたこともない話だった。私の頭の中で、その言葉が何度も何度も反響する。
しばらく、重たい静寂が部屋に落ちる。暖炉の炎だけが、壁に私たちの影をゆらゆらと映し出していた。
やがて、カイ様は諦めたように、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、私が今まで知らなかった彼の深い傷跡の物語だった。
「彼女の名前は、リディア。隣国――つまり、我が国と長年対立している、あのガレリア帝国の伯爵令嬢だった」
(ガレリア帝国……敵国の、令嬢?)
「表向きは、両国の和平の証として結ばれるはずの婚約だった。だが、彼女は……実は、敵国の間者だったんだ」
間者。スパイ。物語の中でしか聞いたことのない言葉が、現実の重みを持って私の胸に突き刺さる。
「私に近づき、信頼を得て、我が国の軍事機密や政治の情報を本国へ流していた。……私は、何も気づかなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない」
カイ様の声は、痛みを堪えるように静かだった。私はただ、相槌を打つこともできずに、彼の言葉を聞いていた。
「彼女との日々は……本当に、幸せだった」
そう言って、カイ様は遠い目をした。その瞳に映っているのは、私ではなく、リディアと名乗る女性との過去なのだろう。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「彼女は聡明で、美しく、そして……とても愛情深い人だった。少なくとも、私にはそう見えた。公務で疲れて帰ると、いつも彼女は温かいお茶を入れてくれた。私が何気なく『この詩が好きだ』と言えば、次の日にはその詩集をすべて読み込んでいるような、そんな人だった」
カイ様は、宝物を思い出すかのように、過去を語る。
『カイ、お疲れ様。今日は冷えるから、生姜の入ったハーブティーを用意したわ』
『すごいな、リディア。どうして私が今これを飲みたいと分かったんだ?』
『ふふ、分かるわよ。だって私は、あなたの婚約者ですもの』
そんな風に微笑む彼女は、本当にカイ様を愛しているように見えた、と彼は言った。二人で乗馬を楽しみ、夜通し語り合ったこと。彼女が弾くピアノの音色が、どれほど美しかったか。彼が贈ったささやかな花を、彼女が涙を流して喜んでくれたこと。
幸せな記憶の断片が、カイ様の口から語られるたびに、私の心は喜びと嫉妬の入り混じった複雑な感情でかき乱される。彼が、そんなにも誰かを深く愛していたという事実。そして、その相手が、私ではないという事実。
「彼女のすべてを信じていた。この愛があれば、両国の間に真の和平が訪れると、本気でそう信じていたんだ。……愚か者だろう?」
無理に笑ってみせたカイ様の顔は、見ていられないほど痛々しかった。
夕食の席でも言葉少なで、私が話しかけても、どこか遠い場所から返事をしているようで、今にも途切れそうな距離感を感じた。
並木道での出来事が、彼の心を揺さぶっているのは明らかだった。私は、聞くべきか、聞かざるべきか、ずっと迷っていた。彼の触れられたくない部分に、土足で踏み込んでしまうのではないか。そう思うと、怖かった。
でも、彼のあんな顔を見たら、知らないままでいることなんてできない。彼の苦しみを、少しでも分かち合いたい。
暖炉の炎がぱちぱちと小さな音を奏でるラウンジで、二人きりになったとき、私はついに口を開いた。
「……カイ様」
「……はい」
「あの……昼間の、並木道にいた女性……。どなた、なのですか?」
私の声は、自分でも驚くほど震えていた。
カイ様は、手にしていたワイングラスをそっとテーブルに置くと、少しだけ目を伏せて答えた。その声は、かすれた風のように聞こえた。
「……私が、かつて婚約していた相手だ」
「……え?」
息が、止まる。婚約者。彼の、婚約者。聞いたこともない話だった。私の頭の中で、その言葉が何度も何度も反響する。
しばらく、重たい静寂が部屋に落ちる。暖炉の炎だけが、壁に私たちの影をゆらゆらと映し出していた。
やがて、カイ様は諦めたように、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、私が今まで知らなかった彼の深い傷跡の物語だった。
「彼女の名前は、リディア。隣国――つまり、我が国と長年対立している、あのガレリア帝国の伯爵令嬢だった」
(ガレリア帝国……敵国の、令嬢?)
「表向きは、両国の和平の証として結ばれるはずの婚約だった。だが、彼女は……実は、敵国の間者だったんだ」
間者。スパイ。物語の中でしか聞いたことのない言葉が、現実の重みを持って私の胸に突き刺さる。
「私に近づき、信頼を得て、我が国の軍事機密や政治の情報を本国へ流していた。……私は、何も気づかなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない」
カイ様の声は、痛みを堪えるように静かだった。私はただ、相槌を打つこともできずに、彼の言葉を聞いていた。
「彼女との日々は……本当に、幸せだった」
そう言って、カイ様は遠い目をした。その瞳に映っているのは、私ではなく、リディアと名乗る女性との過去なのだろう。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「彼女は聡明で、美しく、そして……とても愛情深い人だった。少なくとも、私にはそう見えた。公務で疲れて帰ると、いつも彼女は温かいお茶を入れてくれた。私が何気なく『この詩が好きだ』と言えば、次の日にはその詩集をすべて読み込んでいるような、そんな人だった」
カイ様は、宝物を思い出すかのように、過去を語る。
『カイ、お疲れ様。今日は冷えるから、生姜の入ったハーブティーを用意したわ』
『すごいな、リディア。どうして私が今これを飲みたいと分かったんだ?』
『ふふ、分かるわよ。だって私は、あなたの婚約者ですもの』
そんな風に微笑む彼女は、本当にカイ様を愛しているように見えた、と彼は言った。二人で乗馬を楽しみ、夜通し語り合ったこと。彼女が弾くピアノの音色が、どれほど美しかったか。彼が贈ったささやかな花を、彼女が涙を流して喜んでくれたこと。
幸せな記憶の断片が、カイ様の口から語られるたびに、私の心は喜びと嫉妬の入り混じった複雑な感情でかき乱される。彼が、そんなにも誰かを深く愛していたという事実。そして、その相手が、私ではないという事実。
「彼女のすべてを信じていた。この愛があれば、両国の間に真の和平が訪れると、本気でそう信じていたんだ。……愚か者だろう?」
無理に笑ってみせたカイ様の顔は、見ていられないほど痛々しかった。
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