幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第55話

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月明かりだけが、私たちを照らしていた。
夜の闇に静かにそびえる古い時計塔の下。約束の時刻ぴったりにたどり着くと、彼女はすでにそこにいたようだった。

リディアは、石造りの壁に背を預け、腕を組んで私を待っていた。その姿はまるで、闇に咲く一輪の黒い百合のように、危険で人を惹きつけてやまない美しさを放っていた。

私の足音に気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。冷たい夜気よりもさらに冷たく感じる深い緑の瞳が、私を真っ直ぐに捉える。

「来てくれてありがとう。正直、来ないと思っていたわ」

その声には、わずかに見下すような響きが混じっていた。私のことを、怯えて逃げ出すだけの、頼りない娘だと決めつけていたのだろう。

「……お話とは、何でしょうか」

私は、努めて冷静に問いかける。カイ様に内緒でここへ来たことへの罪悪感で、心臓が早鐘を打っていたけれど、ここで怯んだら彼女の思う壺だ。

リディアは、壁から背を離し、ゆっくりと私の方へ一歩、近づいた。その動きだけで、場の空気が張り詰めるのが分かった。

「単刀直入に言うわ。カイを、私に譲ってほしいの」

――息が、止まる。
喉の奥がきゅっと詰まるような感覚。分かっていたはずの言葉なのに、実際に彼女の口から聞くと、現実のナイフのように鋭く胸に突き刺さった。
でも、目をそらさなかった。ここで視線を外したら、負けだと思ったから。

「……どうして、今さら、そんなことを仰るのですか」

絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
私の問いに、リディアはふい、と視線を伏せた。さっきまでの挑戦的な光は消え、その瞳には深い悲しみの色が浮かんでいるように見えた。

「私は……間者として彼に近づいた。国のために、彼を欺き、裏切ったわ。その罰として、彼を失った……でも」

彼女は、一度言葉を切ると、もう一度私を強く見つめた。

「あの人を愛していた気持ちだけは、本物だったのよ」

その声は、悲痛な響きを帯びていた。それは、演技なんかじゃない。魂からの叫びのように私の鼓膜を震わせた。

「私、全部捨ててここに来たの。生まれ育った国も、伯爵家という家も、貴族としての立場も。全部、全部よ。今の私は、帰る場所もない、ただの亡命者。でも、それでいいと思った。彼を完全に失ってしまうくらいなら、私にはもう、何もいらないから」

リディアの美しい瞳に、月明かりを反射して、きらりと涙が光った。
その涙は、彼女が失ったものの大きさと、カイ様への想いの深さを雄弁に物語っていた。

「あなたには分からないでしょうね」

リディアは、自らの弱さをかみしめるように笑った。

「愛する人を守りたいがために、その人を裏切らなければならなかった気持ちなんて。すべてを敵に回してでも、ただ一人を欲するこの心が、どれだけ業が深いかなんて」

胸が痛む。まるで見えない手に、静かに締めつけられているようだった。恐いと思った。彼女の執念が、純粋すぎて強すぎて――あまりにも美しすぎたから。私は、何かをすべて手放してまで、何かを守ろうとする覚悟があるだろうか。もし私が、彼女のような立場になったなら……それでも、私は進めるのだろうか。

一瞬、リディアの放つ気迫に押されそうになる。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。でも、ここで負けるわけにはいかない。私の背中には、カイ様の想いが確かに息づいているのだから。
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