57 / 83
第57話
しおりを挟む
そんなある日の午後だった。
私は、カイ様への差し入れにお茶菓子を用意して、彼の執務室へ向かっていた。けれど、執務室に彼の姿はなかった。
「少し散策に出られました。おそらく、東の庭園かと」
侍従に聞くと、そう教えてくれた。
東の庭園。そこは、王宮の中でも特に奥まった場所にあり、訪れる人も少ない静かな場所だ。そして、私は知っていた。そこが、かつてカイ様とリディアが、よく二人で会っていたという思い出の場所だということを。
胸騒ぎがした。
嫌な予感が、背筋を駆け上る。私は、侍女に菓子を預けると、早足で東の庭園へと向かった。
たどり着いた庭園の入り口。古いガゼボ(西洋風あずまや)がひっそりと佇むその場所から、話し声が聞こえてきた。カイ様の声だ。そして、もう一人は……。
私は、息をひそめ、大きな木の陰に身を隠した。心臓がドクンドクンと鳴り、手のひらに冷たい汗が浮かぶのを感じながら、そこから見えた光景に私は言葉を失う。
ガゼボの中、カイ様とリディアが二人きりで話していた。
リディアは泣いていた。その美しい顔を涙で濡らし、今にも崩れ落ちそうに肩を震わせている。
「……もう、私には帰る場所なんてないの。信じてくれる人なんて、どこにもいない。カイ……私、どうしたらいいのか、分からない……」
か細い声で、彼女はカイ様に訴える。それは、時計塔で私に見せた強気な姿とは似ても似つかない。あまりにもか弱く、庇護欲をそそる姿だった。
「リディア……」
カイ様の声は、困惑しているように聞こえた。
「お願い、カイ。少しだけでいいの。あなたの側にいさせて。あなたがいてくれるだけで、私は……私は、生きていけるから」
そう言うと、リディアは、ふらりとカイ様の胸に倒れ込んだ。
そして、カイ様は……拒まなかった。
それどころか、ためらうように、けれど確かに、その手がそっと持ち上がり、泣きじゃくる彼女の背中を慰めるように……優しく、数回叩いた。
――世界から、音が消えた。
まるで、何か重いもので頭を殴られたかのように、強烈な衝撃が走った。視界がぐにゃりと歪み、目の前のものがすべてぼやけていく。何が起こったのか、信じることができなかった。いや、信じたくなかった。
その瞬間、心が凍りつき、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。目の前に広がる光景が現実だということが、どうしても受け入れられず、頭の中で何度も「これは夢だ、夢だ」と呟くしかなかった。
『彼は、私を拒めないかもしれないわよ?』
リディアの言葉が、脳内で何度も何度も反響する。
ああ、そうか。彼女の言う通りだったんだ。カイ様は優しいから。泣いている彼女を、突き放すことなんてできなかったんだ。
『それでも、彼は私を選びます。私は、カイ様を信じていますから』
時計塔でリディアに放った私の言葉は、今となってはあまりにも空虚で、どこかおかしく思えて仕方ない。「信じている」と、何の根拠もなく口にしたその瞬間、それが真実だと信じた自分が、どれほど愚かだったかが痛いほど分かる。
それはただの願望、ただの希望だったのだと、今さらながら思い知らされている。その無力感が、心の中で膨らんでいくのを感じ、言葉を発した自分が恥ずかしかった。
胸の内に、引き裂かれるような痛みが走り、息をすることすら苦しくなる。涙があふれ、視界が徐々に滲んでいく。もう、この瞬間を見ていられない。自分を抑えることができず、足が自然と後ろへ下がっていく。私はそのまま足を動かし、急ぎ足でその場を離れていった。
私は、カイ様への差し入れにお茶菓子を用意して、彼の執務室へ向かっていた。けれど、執務室に彼の姿はなかった。
「少し散策に出られました。おそらく、東の庭園かと」
侍従に聞くと、そう教えてくれた。
東の庭園。そこは、王宮の中でも特に奥まった場所にあり、訪れる人も少ない静かな場所だ。そして、私は知っていた。そこが、かつてカイ様とリディアが、よく二人で会っていたという思い出の場所だということを。
胸騒ぎがした。
嫌な予感が、背筋を駆け上る。私は、侍女に菓子を預けると、早足で東の庭園へと向かった。
たどり着いた庭園の入り口。古いガゼボ(西洋風あずまや)がひっそりと佇むその場所から、話し声が聞こえてきた。カイ様の声だ。そして、もう一人は……。
私は、息をひそめ、大きな木の陰に身を隠した。心臓がドクンドクンと鳴り、手のひらに冷たい汗が浮かぶのを感じながら、そこから見えた光景に私は言葉を失う。
ガゼボの中、カイ様とリディアが二人きりで話していた。
リディアは泣いていた。その美しい顔を涙で濡らし、今にも崩れ落ちそうに肩を震わせている。
「……もう、私には帰る場所なんてないの。信じてくれる人なんて、どこにもいない。カイ……私、どうしたらいいのか、分からない……」
か細い声で、彼女はカイ様に訴える。それは、時計塔で私に見せた強気な姿とは似ても似つかない。あまりにもか弱く、庇護欲をそそる姿だった。
「リディア……」
カイ様の声は、困惑しているように聞こえた。
「お願い、カイ。少しだけでいいの。あなたの側にいさせて。あなたがいてくれるだけで、私は……私は、生きていけるから」
そう言うと、リディアは、ふらりとカイ様の胸に倒れ込んだ。
そして、カイ様は……拒まなかった。
それどころか、ためらうように、けれど確かに、その手がそっと持ち上がり、泣きじゃくる彼女の背中を慰めるように……優しく、数回叩いた。
――世界から、音が消えた。
まるで、何か重いもので頭を殴られたかのように、強烈な衝撃が走った。視界がぐにゃりと歪み、目の前のものがすべてぼやけていく。何が起こったのか、信じることができなかった。いや、信じたくなかった。
その瞬間、心が凍りつき、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。目の前に広がる光景が現実だということが、どうしても受け入れられず、頭の中で何度も「これは夢だ、夢だ」と呟くしかなかった。
『彼は、私を拒めないかもしれないわよ?』
リディアの言葉が、脳内で何度も何度も反響する。
ああ、そうか。彼女の言う通りだったんだ。カイ様は優しいから。泣いている彼女を、突き放すことなんてできなかったんだ。
『それでも、彼は私を選びます。私は、カイ様を信じていますから』
時計塔でリディアに放った私の言葉は、今となってはあまりにも空虚で、どこかおかしく思えて仕方ない。「信じている」と、何の根拠もなく口にしたその瞬間、それが真実だと信じた自分が、どれほど愚かだったかが痛いほど分かる。
それはただの願望、ただの希望だったのだと、今さらながら思い知らされている。その無力感が、心の中で膨らんでいくのを感じ、言葉を発した自分が恥ずかしかった。
胸の内に、引き裂かれるような痛みが走り、息をすることすら苦しくなる。涙があふれ、視界が徐々に滲んでいく。もう、この瞬間を見ていられない。自分を抑えることができず、足が自然と後ろへ下がっていく。私はそのまま足を動かし、急ぎ足でその場を離れていった。
721
あなたにおすすめの小説
妹と王子殿下は両想いのようなので、私は身を引かせてもらいます。
木山楽斗
恋愛
侯爵令嬢であるラナシアは、第三王子との婚約を喜んでいた。
民を重んじるというラナシアの考えに彼は同調しており、良き夫婦になれると彼女は考えていたのだ。
しかしその期待は、呆気なく裏切られることになった。
第三王子は心の中では民を見下しており、ラナシアの妹と結託して侯爵家を手に入れようとしていたのである。
婚約者の本性を知ったラナシアは、二人の計画を止めるべく行動を開始した。
そこで彼女は、公爵と平民との間にできた妾の子の公爵令息ジオルトと出会う。
その出自故に第三王子と対立している彼は、ラナシアに協力を申し出てきた。
半ば強引なその申し出をラナシアが受け入れたことで、二人は協力関係となる。
二人は王家や公爵家、侯爵家の協力を取り付けながら、着々と準備を進めた。
その結果、妹と第三王子が計画を実行するよりも前に、ラナシアとジオルトの作戦が始まったのだった。
【完結】私ではなく義妹を選んだ婚約者様
水月 潮
恋愛
セリーヌ・ヴォクレール伯爵令嬢はイアン・クレマン子爵令息と婚約している。
セリーヌは留学から帰国した翌日、イアンからセリーヌと婚約解消して、セリーヌの義妹のミリィと新たに婚約すると告げられる。
セリーヌが外国に短期留学で留守にしている間、彼らは接触し、二人の間には子までいるそうだ。
セリーヌの父もミリィの母もミリィとイアンが婚約することに大賛成で、二人でヴォクレール伯爵家を盛り立てて欲しいとのこと。
お父様、あなたお忘れなの? ヴォクレール伯爵家は亡くなった私のお母様の実家であり、お父様、ひいてはミリィには伯爵家に関する権利なんて何一つないことを。
※設定は緩いので、物語としてお楽しみ頂けたらと思います
※最終話まで執筆済み
完結保証です
*HOTランキング10位↑到達(2021.6.30)
感謝です*.*
HOTランキング2位(2021.7.1)
【12話完結】私はイジメられた側ですが。国のため、貴方のために王妃修行に努めていたら、婚約破棄を告げられ、友人に裏切られました。
西東友一
恋愛
国のため、貴方のため。
私は厳しい王妃修行に努めてまいりました。
それなのに第一王子である貴方が開いた舞踏会で、「この俺、次期国王である第一王子エドワード・ヴィクトールは伯爵令嬢のメリー・アナラシアと婚約破棄する」
と宣言されるなんて・・・
「誰もお前なんか愛さない」と笑われたけど、隣国の王が即プロポーズしてきました
ゆっこ
恋愛
「アンナ・リヴィエール、貴様との婚約は、今日をもって破棄する!」
王城の大広間に響いた声を、私は冷静に見つめていた。
誰よりも愛していた婚約者、レオンハルト王太子が、冷たい笑みを浮かべて私を断罪する。
「お前は地味で、つまらなくて、礼儀ばかりの女だ。華もない。……誰もお前なんか愛さないさ」
笑い声が響く。
取り巻きの令嬢たちが、まるで待っていたかのように口元を隠して嘲笑した。
胸が痛んだ。
けれど涙は出なかった。もう、心が乾いていたからだ。
捨てた私をもう一度拾うおつもりですか?
ミィタソ
恋愛
「みんな聞いてくれ! 今日をもって、エルザ・ローグアシュタルとの婚約を破棄する! そして、その妹——アイリス・ローグアシュタルと正式に婚約することを決めた! 今日という祝いの日に、みんなに伝えることができ、嬉しく思う……」
ローグアシュタル公爵家の長女――エルザは、マクーン・ザルカンド王子の誕生日記念パーティーで婚約破棄を言い渡される。
それどころか、王子の横には舌を出して笑うエルザの妹――アイリスの姿が。
傷心を癒すため、父親の勧めで隣国へ行くのだが……
【完結】私に可愛げが無くなったから、離縁して使用人として雇いたい? 王妃修行で自立した私は離縁だけさせてもらいます。
西東友一
恋愛
私も始めは世間知らずの無垢な少女でした。
それをレオナード王子は可愛いと言って大層可愛がってくださいました。
大した家柄でもない貴族の私を娶っていただいた時には天にも昇る想いでした。
だから、貴方様をお慕いしていた私は王妃としてこの国をよくしようと礼儀作法から始まり、国政に関わることまで勉強し、全てを把握するよう努めてまいりました。それも、貴方様と私の未来のため。
・・・なのに。
貴方様は、愛人と床を一緒にするようになりました。
貴方様に理由を聞いたら、「可愛げが無くなったのが悪い」ですって?
愛がない結婚生活などいりませんので、離縁させていただきます。
そう、申し上げたら貴方様は―――
婚約破棄にはなりました。が、それはあなたの「ため」じゃなく、あなたの「せい」です。
百谷シカ
恋愛
「君がふしだらなせいだろう。当然、この婚約は破棄させてもらう」
私はシェルヴェン伯爵令嬢ルート・ユングクヴィスト。
この通りリンドホルム伯爵エドガー・メシュヴィツに婚約破棄された。
でも、決して私はふしだらなんかじゃない。
濡れ衣だ。
私はある人物につきまとわれている。
イスフェルト侯爵令息フィリップ・ビルト。
彼は私に一方的な好意を寄せ、この半年、あらゆる接触をしてきた。
「君と出会い、恋に落ちた。これは運命だ! 君もそう思うよね?」
「おやめください。私には婚約者がいます……!」
「関係ない! その男じゃなく、僕こそが君の愛すべき人だよ!」
愛していると、彼は言う。
これは運命なんだと、彼は言う。
そして運命は、私の未来を破壊した。
「さあ! 今こそ結婚しよう!!」
「いや……っ!!」
誰も助けてくれない。
父と兄はフィリップ卿から逃れるため、私を修道院に入れると決めた。
そんなある日。
思いがけない求婚が舞い込んでくる。
「便宜上の結婚だ。私の妻となれば、奴も手出しできないだろう」
ランデル公爵ゴトフリート閣下。
彼は愛情も跡継ぎも求めず、ただ人助けのために私を妻にした。
これは形だけの結婚に、ゆっくりと愛が育まれていく物語。
「役立たず」と婚約破棄されたけれど、私の価値に気づいたのは国中であなた一人だけでしたね?
ゆっこ
恋愛
「――リリアーヌ、お前との婚約は今日限りで破棄する」
王城の謁見の間。高い天井に声が響いた。
そう告げたのは、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下だった。
周囲の貴族たちがくすくすと笑うのが聞こえる。彼らは、殿下の隣に寄り添う美しい茶髪の令嬢――伯爵令嬢ミリアが勝ち誇ったように微笑んでいるのを見て、もうすべてを察していた。
「理由は……何でしょうか?」
私は静かに問う。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる