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第60話
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唇が離れても、心の距離は少しも遠ざからなかった。カイ様と私は額を寄せ合い、肩で息をしながら、その長すぎる沈黙を、ただ静かに分かち合っていた。
触れ合ったままの額から伝わる熱が、まだ言葉にならない想いを確かに伝えていた。世界が止まったようなそのひとときが、永遠であってほしいと思わずにはいられなかった。
「……アイラ。俺の未来に必要なのは、君だけだ! 君以外の人間なんて、考えられない。頼むから、俺のそばにいてくれ!」
その声は、言葉を尽くすよりも強く、私の心にそっと触れてきた。どこまでも不器用で、それでもまっすぐで、ただ私を求めるだけの響き。その温度にふれた瞬間、張りつめていたものがふっと緩み、頬を伝う涙が止められなかった。
瞳から零れ落ちた涙は、悲しみではなかった。自分でも気づかぬうちに欲していたものにようやく手が届いた。それは、心が救われた瞬間にだけ訪れる感動の涙だった。
「……ばか」
私は声にならない想いをぶつけるように、彼の胸に、ぽかぽかと小さく手を打ちつけた。その手に力はこもっていなかったけれど、触れるたびに、伝えたい気持ちが音になって響いているようで、胸の奥がじんと熱くなった。
「カイ様の、お馬鹿さん……! 私が、どれだけ、不安だったか……!」
「すまない……本当に、すまなかった」
どうしようもなく涙が止まらなかった私を、カイ様は何のためらいもなく、その腕でしっかりと包み込んだ。その力は決して強すぎず、けれど決して離れない。私の壊れそうな心をそっと支えるためだけに存在するようだった。彼の鼓動が私の涙に寄り添い、身体よりも先に心が、そこに帰ってきた気がした。
――その瞬間だった。不意に感じた視線に振り向くと、木々の陰にひとりの人物が佇んでいた。リディアだった。その表情には、あの気高い微笑みも、強がりな眼差しもなかった。全身から力が抜け落ちたような彼女は、ただ、あらがうこともできない現実を前に、無防備な素顔を晒していた。
リディアの姿に気づいたカイ様は、一瞬だけ目を細めた。だが、その腕は私を抱いたまま微動だにしない。この想いを誰にも否定させないという意志をその抱擁に込めるように、しっかりと私を包み込んでいた。そして次の瞬間、彼はそのままの姿勢で、鋭くリディアに向けて言葉を放った。
「リディア! これが、俺の答えだ」
わずかな沈黙のあと、彼は私に向き直り、そっと頬にキスを落とした。けれどそれは、ただの愛情表現ではなかった。背後に佇むリディアの視線を、確かに意識した上での彼なりの答えだった。
見せつけるというよりも、誰にも覆せない現実を、やさしさというかたちで静かに突きつけるような――そんな、確かな選択の証だった。
その光景に、リディアは目を見開いたまま、ひとことも発さずに立っていた。あらゆる感情が押し寄せたはずなのに、彼女の表情は、むしろ静かすぎるほど静かだった。
しばらくして、ふっと何かを諦めたように、ひとりごとのような笑みを浮かべ、ゆっくりと私たちに背を向ける。その後ろ姿は、かつての彼女の強さとは正反対の、壊れそうなほど繊細な影を映していた。
「もう、二度と君を不安にさせないと誓う」
「……ええ。信じていますわ」
激しく吹き荒れていた嵐はようやく過ぎ去り、心の空はようやく晴れ渡った。その中で、私は今、世界の中心にいるような幸福に包まれていた。カイ様の胸元から伝わる熱が、ゆっくりと私の全身を満たしていく。
そして彼もまた、私を失いたくないという想いをそのまま腕に込めるように、ぎゅっと抱きしめてくれる。言葉では足りない想いが、肌と肌のあいだで交わされていた。
私たちは、しばらくの間、そうして黙って抱きしめ合っていた。私たちは言葉を交わさず、ただ静かに抱き合っていた。それだけで、すべてが伝わっていた。
もう大丈夫――この腕の中にあるものは、誰にも奪えない。誰ひとりとして、もう私たちの間に割って入ることはできないと確信できた。
触れ合ったままの額から伝わる熱が、まだ言葉にならない想いを確かに伝えていた。世界が止まったようなそのひとときが、永遠であってほしいと思わずにはいられなかった。
「……アイラ。俺の未来に必要なのは、君だけだ! 君以外の人間なんて、考えられない。頼むから、俺のそばにいてくれ!」
その声は、言葉を尽くすよりも強く、私の心にそっと触れてきた。どこまでも不器用で、それでもまっすぐで、ただ私を求めるだけの響き。その温度にふれた瞬間、張りつめていたものがふっと緩み、頬を伝う涙が止められなかった。
瞳から零れ落ちた涙は、悲しみではなかった。自分でも気づかぬうちに欲していたものにようやく手が届いた。それは、心が救われた瞬間にだけ訪れる感動の涙だった。
「……ばか」
私は声にならない想いをぶつけるように、彼の胸に、ぽかぽかと小さく手を打ちつけた。その手に力はこもっていなかったけれど、触れるたびに、伝えたい気持ちが音になって響いているようで、胸の奥がじんと熱くなった。
「カイ様の、お馬鹿さん……! 私が、どれだけ、不安だったか……!」
「すまない……本当に、すまなかった」
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――その瞬間だった。不意に感じた視線に振り向くと、木々の陰にひとりの人物が佇んでいた。リディアだった。その表情には、あの気高い微笑みも、強がりな眼差しもなかった。全身から力が抜け落ちたような彼女は、ただ、あらがうこともできない現実を前に、無防備な素顔を晒していた。
リディアの姿に気づいたカイ様は、一瞬だけ目を細めた。だが、その腕は私を抱いたまま微動だにしない。この想いを誰にも否定させないという意志をその抱擁に込めるように、しっかりと私を包み込んでいた。そして次の瞬間、彼はそのままの姿勢で、鋭くリディアに向けて言葉を放った。
「リディア! これが、俺の答えだ」
わずかな沈黙のあと、彼は私に向き直り、そっと頬にキスを落とした。けれどそれは、ただの愛情表現ではなかった。背後に佇むリディアの視線を、確かに意識した上での彼なりの答えだった。
見せつけるというよりも、誰にも覆せない現実を、やさしさというかたちで静かに突きつけるような――そんな、確かな選択の証だった。
その光景に、リディアは目を見開いたまま、ひとことも発さずに立っていた。あらゆる感情が押し寄せたはずなのに、彼女の表情は、むしろ静かすぎるほど静かだった。
しばらくして、ふっと何かを諦めたように、ひとりごとのような笑みを浮かべ、ゆっくりと私たちに背を向ける。その後ろ姿は、かつての彼女の強さとは正反対の、壊れそうなほど繊細な影を映していた。
「もう、二度と君を不安にさせないと誓う」
「……ええ。信じていますわ」
激しく吹き荒れていた嵐はようやく過ぎ去り、心の空はようやく晴れ渡った。その中で、私は今、世界の中心にいるような幸福に包まれていた。カイ様の胸元から伝わる熱が、ゆっくりと私の全身を満たしていく。
そして彼もまた、私を失いたくないという想いをそのまま腕に込めるように、ぎゅっと抱きしめてくれる。言葉では足りない想いが、肌と肌のあいだで交わされていた。
私たちは、しばらくの間、そうして黙って抱きしめ合っていた。私たちは言葉を交わさず、ただ静かに抱き合っていた。それだけで、すべてが伝わっていた。
もう大丈夫――この腕の中にあるものは、誰にも奪えない。誰ひとりとして、もう私たちの間に割って入ることはできないと確信できた。
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