幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

文字の大きさ
60 / 83

第60話

しおりを挟む
唇が離れても、心の距離は少しも遠ざからなかった。カイ様と私は額を寄せ合い、肩で息をしながら、その長すぎる沈黙を、ただ静かに分かち合っていた。

触れ合ったままの額から伝わる熱が、まだ言葉にならない想いを確かに伝えていた。世界が止まったようなそのひとときが、永遠であってほしいと思わずにはいられなかった。

「……アイラ。俺の未来に必要なのは、君だけだ! 君以外の人間なんて、考えられない。頼むから、俺のそばにいてくれ!」

その声は、言葉を尽くすよりも強く、私の心にそっと触れてきた。どこまでも不器用で、それでもまっすぐで、ただ私を求めるだけの響き。その温度にふれた瞬間、張りつめていたものがふっと緩み、頬を伝う涙が止められなかった。

瞳から零れ落ちた涙は、悲しみではなかった。自分でも気づかぬうちに欲していたものにようやく手が届いた。それは、心が救われた瞬間にだけ訪れる感動の涙だった。

「……ばか」

私は声にならない想いをぶつけるように、彼の胸に、ぽかぽかと小さく手を打ちつけた。その手に力はこもっていなかったけれど、触れるたびに、伝えたい気持ちが音になって響いているようで、胸の奥がじんと熱くなった。

「カイ様の、お馬鹿さん……! 私が、どれだけ、不安だったか……!」
「すまない……本当に、すまなかった」

どうしようもなく涙が止まらなかった私を、カイ様は何のためらいもなく、その腕でしっかりと包み込んだ。その力は決して強すぎず、けれど決して離れない。私の壊れそうな心をそっと支えるためだけに存在するようだった。彼の鼓動が私の涙に寄り添い、身体よりも先に心が、そこに帰ってきた気がした。

――その瞬間だった。不意に感じた視線に振り向くと、木々の陰にひとりの人物が佇んでいた。リディアだった。その表情には、あの気高い微笑みも、強がりな眼差しもなかった。全身から力が抜け落ちたような彼女は、ただ、あらがうこともできない現実を前に、無防備な素顔を晒していた。

リディアの姿に気づいたカイ様は、一瞬だけ目を細めた。だが、その腕は私を抱いたまま微動だにしない。この想いを誰にも否定させないという意志をその抱擁に込めるように、しっかりと私を包み込んでいた。そして次の瞬間、彼はそのままの姿勢で、鋭くリディアに向けて言葉を放った。

「リディア! これが、俺の答えだ」

わずかな沈黙のあと、彼は私に向き直り、そっと頬にキスを落とした。けれどそれは、ただの愛情表現ではなかった。背後に佇むリディアの視線を、確かに意識した上での彼なりの答えだった。

見せつけるというよりも、誰にも覆せない現実を、やさしさというかたちで静かに突きつけるような――そんな、確かな選択の証だった。

その光景に、リディアは目を見開いたまま、ひとことも発さずに立っていた。あらゆる感情が押し寄せたはずなのに、彼女の表情は、むしろ静かすぎるほど静かだった。

しばらくして、ふっと何かを諦めたように、ひとりごとのような笑みを浮かべ、ゆっくりと私たちに背を向ける。その後ろ姿は、かつての彼女の強さとは正反対の、壊れそうなほど繊細な影を映していた。

「もう、二度と君を不安にさせないと誓う」
「……ええ。信じていますわ」

激しく吹き荒れていた嵐はようやく過ぎ去り、心の空はようやく晴れ渡った。その中で、私は今、世界の中心にいるような幸福に包まれていた。カイ様の胸元から伝わる熱が、ゆっくりと私の全身を満たしていく。

そして彼もまた、私を失いたくないという想いをそのまま腕に込めるように、ぎゅっと抱きしめてくれる。言葉では足りない想いが、肌と肌のあいだで交わされていた。

私たちは、しばらくの間、そうして黙って抱きしめ合っていた。私たちは言葉を交わさず、ただ静かに抱き合っていた。それだけで、すべてが伝わっていた。

もう大丈夫――この腕の中にあるものは、誰にも奪えない。誰ひとりとして、もう私たちの間に割って入ることはできないと確信できた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妹を選んで婚約破棄した婚約者は、平民になる現実を理解していなかったようです

藤原遊
恋愛
跡継ぎとして育てられた私には、将来を約束された婚約者がいた。 ――けれど彼は、私ではなく「妹」を選んだ。 妹は父の愛人の子。 身分も立場も分かったうえでの選択だと思っていたのに、 彼はどうやら、何も理解していなかったらしい。 婚約を破棄し、妹と結ばれた彼は、 当然のように貴族の立場を失い、平民として生きることになる。 一方で、妹は覚悟を決めて現実に向き合っていく。 だが彼だけが、最後まで「元に戻れる」と信じ続けていた。 これは、誰かが罰した物語ではない。 ただ、選んだ道の先にあった現実の話。 覚悟のなかった婚約者が、 自分の選択と向き合うまでを描いた、静かなざまぁ物語。

裏切ったのはあなたですよね?─湖に沈められ記憶を失った私は、大公女として返り咲き幸せを掴みます

nanahi
恋愛
婚約者ウィルとその幼馴染ベティに罠にはめられ、湖へ沈められた伯爵令嬢アミアン。一命を取り留め、公女として生まれ変わった彼女が見たのは、裏切り者の幸せな家庭だった。 アミアンは絶望を乗り越え、第二の人生を歩む決意をする。いまだ国に影響力を持つ先の王弟の大公女として、輝くほど磨き上げられていったアミアンに再会したウィルは激しく後悔するが、今更遅かった。 全ての記憶を取り戻したアミアンは、ついに二人の悪事を断罪する。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

婚約破棄はまだですか?─豊穣をもたらす伝説の公爵令嬢に転生したけど、王太子がなかなか婚約破棄してこない

nanahi
恋愛
火事のあと、私は王太子の婚約者:シンシア・ウォーレンに転生した。王国に豊穣をもたらすという伝説の黒髪黒眼の公爵令嬢だ。王太子は婚約者の私がいながら、男爵令嬢ケリーを愛していた。「王太子から婚約破棄されるパターンね」…私はつらい前世から解放された喜びから、破棄を進んで受け入れようと自由に振る舞っていた。ところが王太子はなかなか破棄を告げてこなくて…?

幼馴染に夢中の夫を捨てた貴婦人は、王太子に熱愛される

Narian
恋愛
アイリスの夫ロイは、新婚の頃から金髪の愛らしい幼馴染・フローラに夢中で、妻には見向きもしなかった。 夫からは蔑ろにされ、夫の両親からは罵られ、フローラからは見下される日々。そしてアイリスは、ついに決意する。 「それほど幼馴染が大切なら、どうぞご自由に。私は出て行って差し上げます」 これは、虐げられた主人公が、過去を断ち切り幸せを掴む物語。 ※19話完結。 毎日夜9時ごろに投稿予定です。朝に投稿することも。お気に入り登録していただけたら嬉しいです♪

【完結】私と婚約破棄して恋人と結婚する? ならば即刻我が家から出ていって頂きます

水月 潮
恋愛
ソフィア・リシャール侯爵令嬢にはビクター・ダリオ子爵令息という婚約者がいる。 ビクターは両親が亡くなっており、ダリオ子爵家は早々にビクターの叔父に乗っ取られていた。 ソフィアの母とビクターの母は友人で、彼女が生前書いた”ビクターのことを託す”手紙が届き、亡き友人の願いによりソフィアの母はビクターを引き取り、ソフィアの婚約者にすることにした。 しかし、ソフィアとビクターの結婚式の三ヶ月前、ビクターはブリジット・サルー男爵令嬢をリシャール侯爵邸に連れてきて、彼女と結婚するからソフィアと婚約破棄すると告げる。 ※設定は緩いです。物語としてお楽しみ頂けたらと思います。 *HOTランキング1位到達(2021.8.17) ありがとうございます(*≧∀≦*)

捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来

鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」 婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。 王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。 アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。 だが、彼女は決して屈しない。 「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」 そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。 ――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。 彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」

王命により、婚約破棄されました。

緋田鞠
恋愛
魔王誕生に対抗するため、異界から聖女が召喚された。アストリッドは結婚を翌月に控えていたが、婚約者のオリヴェルが、聖女の指名により独身男性のみが所属する魔王討伐隊の一員に選ばれてしまった。その結果、王命によって二人の婚約が破棄される。運命として受け入れ、世界の安寧を祈るため、修道院に身を寄せて二年。久しぶりに再会したオリヴェルは、以前と変わらず、アストリッドに微笑みかけた。「私は、長年の約束を違えるつもりはないよ」。

処理中です...