幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第75話

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通りを行き交う人々が、空気の変化を察したかのように足を緩め、何か起きたのかと興味深げにこちらを振り返り始めた。誰もが声を潜めつつも、静かな視線で私たちを注視しているのが、はっきりと伝わってくる。

「……何を、仰っているのですか?」 

「兄上、いい加減にしてください!」

私が困惑を隠しきれずに問いかけると、カイ様は何のためらいもなく私の前に一歩踏み出し、私を庇うようにその身を差し出した。その声には、感情を抑えようとする意思が感じられたものの、内に秘めた怒りが滲み出ており、聞く者すべてに強い緊張を走らせた。

しかし、ルーカス陛下はそんな弟の怒りすらも一興として楽しんでいるかのようで、少しも動じる様子を見せない。むしろ彼は、さらに状況をかき乱そうとするかのように、冷たく挑発的な笑みを唇の端に浮かべた。

「おやおや、怖い顔だ。君たち、まだ若いからな。恋の喜びしか知らず、その裏にある嫉妬や、しがらみや、責任というものを、まだ知らないんだろう? だが、心配はいらない。この親切な兄が、これからたっぷりと教えてやるからね」

「……っ、えぇ!? そんな――」

「俺が兄上から教わりたいのは、ただ一つ。あなたに対する、忍耐力だけです」

私の声は、驚きと戸惑いが入り混じり思わず上ずっていた。胸の奥に押し寄せるのは、目の前に立ちはだかる“何か”人智を超えた存在に対する畏れにも似た感情だった。

そんな私の様子を横目に、カイ様は苛立ちを隠そうともせず、低く吐き捨てるように言葉を放った。その声には、怒りと軽蔑が鋭く込められており、空気が一瞬で張り詰めるのを感じた。

ふたりの視線が交差した瞬間、言葉を超えた激しい緊張が空間を支配する。見えない火花が、兄弟の間で激しくぶつかり合っているのが、はっきりと肌で感じ取れた。

私はその只中に立たされたまま、一歩も動くことができず何も言えずに、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。心臓の鼓動が、自分の耳にだけ異様なほど大きく響いていた。

「あはははは……なるほどね。そうくるとは思わなかったよ」

ルーカス陛下は、突如として笑い声を上げた。その笑いには他人を嘲るような鋭さはなく、むしろ目の前の状況すらも楽しんでいるかのような不思議な余裕が感じられた。

やがて彼はふっと笑みを残したまま背を向け、まるですべてを見通し、掌の上で転がしているかのような風格と落ち着きを漂わせながら、ゆっくりとその場を後にした。私たちは声をかけることも、足を一歩動かすことすらもできなかった。ただその去りゆく背中を、呆然と見送るしかなかった。



ルーカス陛下の行動は、日を追うごとに激しさを増していった。それは単なる気まぐれや偶然ではなく、あたかも私たちの間にある絆の強さを試すために仕組まれたかのような、意図的で執拗な揺さぶりだった。

言葉の端々に含まれる棘、計算されたようなすれ違い。そして目の前で起こる予測不能な出来事。どれもが私たちを追い詰め、信じる心を揺さぶろうとする罠のように思えた。それでも私たちは、簡単には崩れないということを、彼に証明しなければならなかった。

湖のほとりに佇む落ち着いた雰囲気のレストランで、カイ様が私のために特別に用意してくれたディナーを楽しんでいたあの夜。水面には月明かりがやさしく映り、テーブルの上ではキャンドルの灯りが静かに揺れていた。

穏やかでロマンチックな空間に包まれ、私はようやくふたりきりで、心ゆくまでこの時間を過ごせるのだと信じていた。今日こそは誰にも邪魔されることなく、カイ様とゆっくり向き合える――そう思っていたのに、運命はまたしても、静かな夜を許してはくれなかった。

「やあ、奇遇だね。君たちも食事かい?」

ルーカス陛下は、私たちの静かな時間を狙っていたかのように、またしてもふいに姿を現した。優雅な足取りでこちらへと歩み寄るその手には、深紅のワインが満たされたグラスが握られており、その仕草には油断のない冷静さと、意図的に波風を立てようとするような含みが感じられた。
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