幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

文字の大きさ
75 / 83

第75話

しおりを挟む
通りを行き交う人々が、空気の変化を察したかのように足を緩め、何か起きたのかと興味深げにこちらを振り返り始めた。誰もが声を潜めつつも、静かな視線で私たちを注視しているのが、はっきりと伝わってくる。

「……何を、仰っているのですか?」 

「兄上、いい加減にしてください!」

私が困惑を隠しきれずに問いかけると、カイ様は何のためらいもなく私の前に一歩踏み出し、私を庇うようにその身を差し出した。その声には、感情を抑えようとする意思が感じられたものの、内に秘めた怒りが滲み出ており、聞く者すべてに強い緊張を走らせた。

しかし、ルーカス陛下はそんな弟の怒りすらも一興として楽しんでいるかのようで、少しも動じる様子を見せない。むしろ彼は、さらに状況をかき乱そうとするかのように、冷たく挑発的な笑みを唇の端に浮かべた。

「おやおや、怖い顔だ。君たち、まだ若いからな。恋の喜びしか知らず、その裏にある嫉妬や、しがらみや、責任というものを、まだ知らないんだろう? だが、心配はいらない。この親切な兄が、これからたっぷりと教えてやるからね」

「……っ、えぇ!? そんな――」

「俺が兄上から教わりたいのは、ただ一つ。あなたに対する、忍耐力だけです」

私の声は、驚きと戸惑いが入り混じり思わず上ずっていた。胸の奥に押し寄せるのは、目の前に立ちはだかる“何か”人智を超えた存在に対する畏れにも似た感情だった。

そんな私の様子を横目に、カイ様は苛立ちを隠そうともせず、低く吐き捨てるように言葉を放った。その声には、怒りと軽蔑が鋭く込められており、空気が一瞬で張り詰めるのを感じた。

ふたりの視線が交差した瞬間、言葉を超えた激しい緊張が空間を支配する。見えない火花が、兄弟の間で激しくぶつかり合っているのが、はっきりと肌で感じ取れた。

私はその只中に立たされたまま、一歩も動くことができず何も言えずに、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。心臓の鼓動が、自分の耳にだけ異様なほど大きく響いていた。

「あはははは……なるほどね。そうくるとは思わなかったよ」

ルーカス陛下は、突如として笑い声を上げた。その笑いには他人を嘲るような鋭さはなく、むしろ目の前の状況すらも楽しんでいるかのような不思議な余裕が感じられた。

やがて彼はふっと笑みを残したまま背を向け、まるですべてを見通し、掌の上で転がしているかのような風格と落ち着きを漂わせながら、ゆっくりとその場を後にした。私たちは声をかけることも、足を一歩動かすことすらもできなかった。ただその去りゆく背中を、呆然と見送るしかなかった。



ルーカス陛下の行動は、日を追うごとに激しさを増していった。それは単なる気まぐれや偶然ではなく、あたかも私たちの間にある絆の強さを試すために仕組まれたかのような、意図的で執拗な揺さぶりだった。

言葉の端々に含まれる棘、計算されたようなすれ違い。そして目の前で起こる予測不能な出来事。どれもが私たちを追い詰め、信じる心を揺さぶろうとする罠のように思えた。それでも私たちは、簡単には崩れないということを、彼に証明しなければならなかった。

湖のほとりに佇む落ち着いた雰囲気のレストランで、カイ様が私のために特別に用意してくれたディナーを楽しんでいたあの夜。水面には月明かりがやさしく映り、テーブルの上ではキャンドルの灯りが静かに揺れていた。

穏やかでロマンチックな空間に包まれ、私はようやくふたりきりで、心ゆくまでこの時間を過ごせるのだと信じていた。今日こそは誰にも邪魔されることなく、カイ様とゆっくり向き合える――そう思っていたのに、運命はまたしても、静かな夜を許してはくれなかった。

「やあ、奇遇だね。君たちも食事かい?」

ルーカス陛下は、私たちの静かな時間を狙っていたかのように、またしてもふいに姿を現した。優雅な足取りでこちらへと歩み寄るその手には、深紅のワインが満たされたグラスが握られており、その仕草には油断のない冷静さと、意図的に波風を立てようとするような含みが感じられた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妹を選んで婚約破棄した婚約者は、平民になる現実を理解していなかったようです

藤原遊
恋愛
跡継ぎとして育てられた私には、将来を約束された婚約者がいた。 ――けれど彼は、私ではなく「妹」を選んだ。 妹は父の愛人の子。 身分も立場も分かったうえでの選択だと思っていたのに、 彼はどうやら、何も理解していなかったらしい。 婚約を破棄し、妹と結ばれた彼は、 当然のように貴族の立場を失い、平民として生きることになる。 一方で、妹は覚悟を決めて現実に向き合っていく。 だが彼だけが、最後まで「元に戻れる」と信じ続けていた。 これは、誰かが罰した物語ではない。 ただ、選んだ道の先にあった現実の話。 覚悟のなかった婚約者が、 自分の選択と向き合うまでを描いた、静かなざまぁ物語。

裏切ったのはあなたですよね?─湖に沈められ記憶を失った私は、大公女として返り咲き幸せを掴みます

nanahi
恋愛
婚約者ウィルとその幼馴染ベティに罠にはめられ、湖へ沈められた伯爵令嬢アミアン。一命を取り留め、公女として生まれ変わった彼女が見たのは、裏切り者の幸せな家庭だった。 アミアンは絶望を乗り越え、第二の人生を歩む決意をする。いまだ国に影響力を持つ先の王弟の大公女として、輝くほど磨き上げられていったアミアンに再会したウィルは激しく後悔するが、今更遅かった。 全ての記憶を取り戻したアミアンは、ついに二人の悪事を断罪する。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

婚約破棄はまだですか?─豊穣をもたらす伝説の公爵令嬢に転生したけど、王太子がなかなか婚約破棄してこない

nanahi
恋愛
火事のあと、私は王太子の婚約者:シンシア・ウォーレンに転生した。王国に豊穣をもたらすという伝説の黒髪黒眼の公爵令嬢だ。王太子は婚約者の私がいながら、男爵令嬢ケリーを愛していた。「王太子から婚約破棄されるパターンね」…私はつらい前世から解放された喜びから、破棄を進んで受け入れようと自由に振る舞っていた。ところが王太子はなかなか破棄を告げてこなくて…?

幼馴染に夢中の夫を捨てた貴婦人は、王太子に熱愛される

Narian
恋愛
アイリスの夫ロイは、新婚の頃から金髪の愛らしい幼馴染・フローラに夢中で、妻には見向きもしなかった。 夫からは蔑ろにされ、夫の両親からは罵られ、フローラからは見下される日々。そしてアイリスは、ついに決意する。 「それほど幼馴染が大切なら、どうぞご自由に。私は出て行って差し上げます」 これは、虐げられた主人公が、過去を断ち切り幸せを掴む物語。 ※19話完結。 毎日夜9時ごろに投稿予定です。朝に投稿することも。お気に入り登録していただけたら嬉しいです♪

【完結】私と婚約破棄して恋人と結婚する? ならば即刻我が家から出ていって頂きます

水月 潮
恋愛
ソフィア・リシャール侯爵令嬢にはビクター・ダリオ子爵令息という婚約者がいる。 ビクターは両親が亡くなっており、ダリオ子爵家は早々にビクターの叔父に乗っ取られていた。 ソフィアの母とビクターの母は友人で、彼女が生前書いた”ビクターのことを託す”手紙が届き、亡き友人の願いによりソフィアの母はビクターを引き取り、ソフィアの婚約者にすることにした。 しかし、ソフィアとビクターの結婚式の三ヶ月前、ビクターはブリジット・サルー男爵令嬢をリシャール侯爵邸に連れてきて、彼女と結婚するからソフィアと婚約破棄すると告げる。 ※設定は緩いです。物語としてお楽しみ頂けたらと思います。 *HOTランキング1位到達(2021.8.17) ありがとうございます(*≧∀≦*)

捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来

鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」 婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。 王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。 アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。 だが、彼女は決して屈しない。 「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」 そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。 ――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。 彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」

王命により、婚約破棄されました。

緋田鞠
恋愛
魔王誕生に対抗するため、異界から聖女が召喚された。アストリッドは結婚を翌月に控えていたが、婚約者のオリヴェルが、聖女の指名により独身男性のみが所属する魔王討伐隊の一員に選ばれてしまった。その結果、王命によって二人の婚約が破棄される。運命として受け入れ、世界の安寧を祈るため、修道院に身を寄せて二年。久しぶりに再会したオリヴェルは、以前と変わらず、アストリッドに微笑みかけた。「私は、長年の約束を違えるつもりはないよ」。

処理中です...