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キスを見て目覚める
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「リーシャ様、お大事になさらないと。……ごめんなさい、私が夜会にお誘いしたばかりに、気を遣わせてしまったかもしれませんわ」
自然と口から滑り出たのは、謝罪の言葉だった。私のせいではないことまで、いつの間にか謝るのが癖になっていた。病弱なリーシャが、夜会に参加したいと言い出した。婚約してから10年、長い間慣れたことだから。そうすれば、この場が穏便に収まることを知っていた。
「ああ、気をつけてくれ。リーシャの体調を気にかけるのは、何より君の重要な役目だろう?」
「はい……すみません」
「もしリーシャが風邪でも引いたら、君のせいだといっても過言ではない」
アルディンは窓の外に視線を向けたまま、こともなげに言った。その声に温度はない。彼は私が謝ることを、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだと思っている。その無関心さが、何よりも雄弁に私たちの関係性を物語っていた。
自室に戻り、一人になると、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。ベッドに倒れ込むと、豪華な天蓋がぼやけて見える。
私はずっと二番目だった。
オルステリア伯爵家がアルディンの婚約者に求めたのは、伯爵家を支える財力と、跡継ぎを産むための健康な身体。病弱なリーシャは、その条件から弾かれた。そして、グラディウス子爵家の潤沢な資産と健康な身体を持つ私が、代用品として選ばれた。
ただそれだけのこと。政略結婚など貴族社会ではありふれた話。アルディンがリーシャを愛していることも、本当はずっと前から知っていた。知っていて心を殺して、見て見ぬふりをしてきた。いつか、彼が私を一番に見てくれる日が来るかもしれないと淡い期待を抱きながら。
「私の心の隙間には、ひとしずくの切なさが溢れて、どうしても止まらないの」
でも、十年だ。十年経っても、彼の隣は私の場所にはならなかった。私たちの間には、埋めようのない深い溝が横たわっている。婚約者という名前だけの関係。心が締め付けられるような日々に、もう疲れ果てていた。
数日後の夜、私はアルディンに父からの届け物を渡すため、オルステリア伯爵家の屋敷を訪れていた。侍女に案内され、彼の書斎へ向かう途中、ふと月明かりに照らされた庭園に目が留まった。薔薇のアーチの向こうに、寄り添う二つの人影が見える。
アルディンと、リーシャだった。
思わず足を止め、柱の陰に身を潜める。聞くつもりはなかったけれど、風が彼らの会話を運んできた。
「アルディン、ごめんなさい。またあなたに迷惑をかけて……」
「気にするな。君のためなら、何だってするさ」
アルディンの声は、私に向ける声とは比較にならないほど柔らかく温かみを感じさせた。彼はリーシャの頬にかかった髪をそっと指で払い顔を覗き込む。そして、壊れ物に触れるかのように、優しく彼女の唇に自分の唇を重ねた。
深い口づけ。時間が止まった。視界がぐにゃりと歪み、周囲の音がすべて消え去る。心臓が氷の塊になったみたいに冷たくなって、呼吸の仕方を忘れてしまった。
十年。私が守り続けてきた砂の城のような婚約生活。それが今、目の前で音もなく崩れ落ちていく。
涙は、一滴も出なかった。ただ、身体の芯から凍てついていくような感覚だけがあった。ああ、そうか。これが現実。これが、私がずっと目を逸らし続けてきた真実。
(もう、これ以上続ける必要はないわ。こんな婚約、もう終わりにしましょう)
心の中で押し寄せる感情が、全てを決断させた。切ない決意が、凍てついた心の中で確かな形を結んだ。間抜けなように彼の愛を信じようとした自分に、今日でさよならを告げるのだ。
自然と口から滑り出たのは、謝罪の言葉だった。私のせいではないことまで、いつの間にか謝るのが癖になっていた。病弱なリーシャが、夜会に参加したいと言い出した。婚約してから10年、長い間慣れたことだから。そうすれば、この場が穏便に収まることを知っていた。
「ああ、気をつけてくれ。リーシャの体調を気にかけるのは、何より君の重要な役目だろう?」
「はい……すみません」
「もしリーシャが風邪でも引いたら、君のせいだといっても過言ではない」
アルディンは窓の外に視線を向けたまま、こともなげに言った。その声に温度はない。彼は私が謝ることを、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだと思っている。その無関心さが、何よりも雄弁に私たちの関係性を物語っていた。
自室に戻り、一人になると、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。ベッドに倒れ込むと、豪華な天蓋がぼやけて見える。
私はずっと二番目だった。
オルステリア伯爵家がアルディンの婚約者に求めたのは、伯爵家を支える財力と、跡継ぎを産むための健康な身体。病弱なリーシャは、その条件から弾かれた。そして、グラディウス子爵家の潤沢な資産と健康な身体を持つ私が、代用品として選ばれた。
ただそれだけのこと。政略結婚など貴族社会ではありふれた話。アルディンがリーシャを愛していることも、本当はずっと前から知っていた。知っていて心を殺して、見て見ぬふりをしてきた。いつか、彼が私を一番に見てくれる日が来るかもしれないと淡い期待を抱きながら。
「私の心の隙間には、ひとしずくの切なさが溢れて、どうしても止まらないの」
でも、十年だ。十年経っても、彼の隣は私の場所にはならなかった。私たちの間には、埋めようのない深い溝が横たわっている。婚約者という名前だけの関係。心が締め付けられるような日々に、もう疲れ果てていた。
数日後の夜、私はアルディンに父からの届け物を渡すため、オルステリア伯爵家の屋敷を訪れていた。侍女に案内され、彼の書斎へ向かう途中、ふと月明かりに照らされた庭園に目が留まった。薔薇のアーチの向こうに、寄り添う二つの人影が見える。
アルディンと、リーシャだった。
思わず足を止め、柱の陰に身を潜める。聞くつもりはなかったけれど、風が彼らの会話を運んできた。
「アルディン、ごめんなさい。またあなたに迷惑をかけて……」
「気にするな。君のためなら、何だってするさ」
アルディンの声は、私に向ける声とは比較にならないほど柔らかく温かみを感じさせた。彼はリーシャの頬にかかった髪をそっと指で払い顔を覗き込む。そして、壊れ物に触れるかのように、優しく彼女の唇に自分の唇を重ねた。
深い口づけ。時間が止まった。視界がぐにゃりと歪み、周囲の音がすべて消え去る。心臓が氷の塊になったみたいに冷たくなって、呼吸の仕方を忘れてしまった。
十年。私が守り続けてきた砂の城のような婚約生活。それが今、目の前で音もなく崩れ落ちていく。
涙は、一滴も出なかった。ただ、身体の芯から凍てついていくような感覚だけがあった。ああ、そうか。これが現実。これが、私がずっと目を逸らし続けてきた真実。
(もう、これ以上続ける必要はないわ。こんな婚約、もう終わりにしましょう)
心の中で押し寄せる感情が、全てを決断させた。切ない決意が、凍てついた心の中で確かな形を結んだ。間抜けなように彼の愛を信じようとした自分に、今日でさよならを告げるのだ。
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