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第12話
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離宮を後にし、アルビオン公国の国境近く、緑に包まれた『セレニティ』の館に身を寄せてから、ひとつの季節が静かに過ぎていった。王都の喧騒は過去のものとなり、この地で過ごす時間はまるで夢の中のように穏やかだ。
朝、鳥の歌声で目を覚まし、昼間はクロエと庭を歩きながら、草花に囲まれた小道をふたりで歩く。夜、暖炉の炎の揺れを見つめながら、私は心地よい静寂に包まれページをめくる。この場所が、どれほど私の心に静かな癒しを与えてくれているのか、気づけば私の内側の傷は時間と共に少しずつ癒えていくのだった。
館の使用人たちは皆、私の故郷から連れてきた者たちで、私のことを“妃殿下”ではなく、昔のように“セリーヌお嬢様”と呼んだ。その響きが、私をがんじがらめにしていた王太子妃という役割から解放し、ただのセリーヌに戻してくれた。
「ママ、見て! 白い蝶々よ!」
芝生の上を駆け回りながら、クロエが指さす。その笑顔は、離宮にいた頃の、どこかひとひらの暗さを感じさせるものとはまるで違っていた。ここでは、彼女はアリスと比べられることも、両親の不和に心を痛めることもない。この子の笑顔を守れたこと、それだけで、私の決断は正しかったのだと思えた。
もちろん、ふとした瞬間に、嵐のような過去が心の凪を乱すこともあった。ブラッドが私に贈ってくれた最初のプレゼントは、小さな真珠の耳飾りだった。彼と二人で見た燃えるような夕焼け。クロエが生まれた日の彼の涙。
愛した記憶は、消しゴムでこするように簡単には消えてくれない。けれど、それはもう遠い国の物語。ページを閉じて、本棚の奥にしまった古いおとぎ話。
私は、このセレニティの地で、クロエと二人、静かに強く生きていく。
そう、心に誓っていた。
◇
暖かな日差しが次第に穏やかになり、空気にひんやりとした予感が漂い始めた頃、ブラッドはクロエの誕生日を思い出した。父親としての責任。彼はそう自分に言い聞かせ、プレゼントを携えてセレニティの館を訪れることにした。もちろん、その隣にはエミリーとアリスの姿があった。
「クロエも、アリスと一緒なら喜ぶだろう」
その行動が彼らしいとも言えるが、その優しさにはどこか薄くて不完全なものがあった。まるで自己満足のためだけに動いているかのような、あまりにも表面的な気配りにすぎなかった。
突然の訪問に館の使用人たちは一瞬立ち尽くし、予期せぬ訪問者の姿に戸惑いが広がった。その様子を一歩引いて見つめていたセリーヌの顔には、わずかな驚きと共に眉をひそめる表情が浮かぶ。
突然の訪問に、館の使用人たちは目を見開き、ほんの一瞬、動きが止まった。あまりに予期しない訪問者に、誰もがその場でどうするべきかを迷っていた。セリーヌはその様子を静かに見守りながらも、予想外の訪問者に少し眉をひそめた。
しかし、彼女は感情を抑えつつも、その動揺を表には出さず冷静にブラッドを迎え入れる。その優雅な手のひらで、無言のまま彼を客間へと誘った。心の中で複雑な思いが絡み合いながらも、彼女はそれを外に漏らさず、すぐに優美な微笑を浮かべて静かな歓迎の意を示した。
「……お久しぶりですわね、ブラッド様」
セリーヌの声は、湖面の氷のように静かで冷たかった。最後に会った時よりも、ブラッドには彼女は痩せたように見えたが、その瞳には凛とした強い光が宿っていた。
かつて彼が勝手に思い込み、口にしていた嫉妬深い妻の姿は、今や完全に消え失せていた。今目の前にいる彼女は、まるで別人のように彼を圧倒し、冷静で落ち着いた魅力を漂わせていた。
「ああ。クロエに会いに来た」
ブラッドは、ぎこちなく答えた。やがて、乳母に連れられてクロエが部屋に入ってくる。クロエは、ブラッドの姿を見ると、一瞬、ぱっと顔を輝かせたが、彼の後ろに立つアリスの姿を目にすると、その表情はすぐに固くなった。
「クロエ、誕生日おめでとう。パパからのプレゼントだ」
ブラッドが差し出したのは、美しい銀細工の髪飾りだった。しかし、彼のもう片方の手には、それよりも一回り大きく、明らかに高価そうな宝石箱が握られている。アリスへの、ついでに買ってきたのであろうプレゼントだ。そのことに、クロエは瞬時に気づいた。
彼女はプレゼントを受け取らず、小さな拳を握りしめ、震える声で言った。
「……いらない」
「クロエ?」
「そんなもの、いらないわ! パパなんて大嫌い!!」
クロエは叫んだ。その瞳には、涙が溢れていた。
朝、鳥の歌声で目を覚まし、昼間はクロエと庭を歩きながら、草花に囲まれた小道をふたりで歩く。夜、暖炉の炎の揺れを見つめながら、私は心地よい静寂に包まれページをめくる。この場所が、どれほど私の心に静かな癒しを与えてくれているのか、気づけば私の内側の傷は時間と共に少しずつ癒えていくのだった。
館の使用人たちは皆、私の故郷から連れてきた者たちで、私のことを“妃殿下”ではなく、昔のように“セリーヌお嬢様”と呼んだ。その響きが、私をがんじがらめにしていた王太子妃という役割から解放し、ただのセリーヌに戻してくれた。
「ママ、見て! 白い蝶々よ!」
芝生の上を駆け回りながら、クロエが指さす。その笑顔は、離宮にいた頃の、どこかひとひらの暗さを感じさせるものとはまるで違っていた。ここでは、彼女はアリスと比べられることも、両親の不和に心を痛めることもない。この子の笑顔を守れたこと、それだけで、私の決断は正しかったのだと思えた。
もちろん、ふとした瞬間に、嵐のような過去が心の凪を乱すこともあった。ブラッドが私に贈ってくれた最初のプレゼントは、小さな真珠の耳飾りだった。彼と二人で見た燃えるような夕焼け。クロエが生まれた日の彼の涙。
愛した記憶は、消しゴムでこするように簡単には消えてくれない。けれど、それはもう遠い国の物語。ページを閉じて、本棚の奥にしまった古いおとぎ話。
私は、このセレニティの地で、クロエと二人、静かに強く生きていく。
そう、心に誓っていた。
◇
暖かな日差しが次第に穏やかになり、空気にひんやりとした予感が漂い始めた頃、ブラッドはクロエの誕生日を思い出した。父親としての責任。彼はそう自分に言い聞かせ、プレゼントを携えてセレニティの館を訪れることにした。もちろん、その隣にはエミリーとアリスの姿があった。
「クロエも、アリスと一緒なら喜ぶだろう」
その行動が彼らしいとも言えるが、その優しさにはどこか薄くて不完全なものがあった。まるで自己満足のためだけに動いているかのような、あまりにも表面的な気配りにすぎなかった。
突然の訪問に館の使用人たちは一瞬立ち尽くし、予期せぬ訪問者の姿に戸惑いが広がった。その様子を一歩引いて見つめていたセリーヌの顔には、わずかな驚きと共に眉をひそめる表情が浮かぶ。
突然の訪問に、館の使用人たちは目を見開き、ほんの一瞬、動きが止まった。あまりに予期しない訪問者に、誰もがその場でどうするべきかを迷っていた。セリーヌはその様子を静かに見守りながらも、予想外の訪問者に少し眉をひそめた。
しかし、彼女は感情を抑えつつも、その動揺を表には出さず冷静にブラッドを迎え入れる。その優雅な手のひらで、無言のまま彼を客間へと誘った。心の中で複雑な思いが絡み合いながらも、彼女はそれを外に漏らさず、すぐに優美な微笑を浮かべて静かな歓迎の意を示した。
「……お久しぶりですわね、ブラッド様」
セリーヌの声は、湖面の氷のように静かで冷たかった。最後に会った時よりも、ブラッドには彼女は痩せたように見えたが、その瞳には凛とした強い光が宿っていた。
かつて彼が勝手に思い込み、口にしていた嫉妬深い妻の姿は、今や完全に消え失せていた。今目の前にいる彼女は、まるで別人のように彼を圧倒し、冷静で落ち着いた魅力を漂わせていた。
「ああ。クロエに会いに来た」
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「クロエ、誕生日おめでとう。パパからのプレゼントだ」
ブラッドが差し出したのは、美しい銀細工の髪飾りだった。しかし、彼のもう片方の手には、それよりも一回り大きく、明らかに高価そうな宝石箱が握られている。アリスへの、ついでに買ってきたのであろうプレゼントだ。そのことに、クロエは瞬時に気づいた。
彼女はプレゼントを受け取らず、小さな拳を握りしめ、震える声で言った。
「……いらない」
「クロエ?」
「そんなもの、いらないわ! パパなんて大嫌い!!」
クロエは叫んだ。その瞳には、涙が溢れていた。
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