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第18話
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風が温かく、空気が軽やかに感じられる。柔らかな日差しが、ステンドグラスを通して虹色の破片みたいに床にちらばっている。セリーヌは窓辺の椅子に腰かけ、膝の上で眠る娘の髪をそっと撫でていた。
クロエの小さな寝息だけが、静かな部屋に満ちている。光を受けてきらめく淡い金色の髪、ほんのりと色づいた頬。腕の中にすっぽりとおさまるこの温かさだけが、今のセリーヌの世界のすべてだった。
「ん……ママ?」
クロエはふと身じろぎをし、眠りの名残がまだ抜けきれないかのように、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、夢と現実の狭間で迷っているかのようにぼんやりとしたまま、ふわりとセリーヌを見上げる。そのまどろんだ視線には、どこか遠くを見ているようでいて、確かに目の前のセリーヌを捉えていることが感じられた。
「ここにいるわ、クロエ。もう少しお眠りなさい」
「うん……」
こくりと頷いたクロエは、再びセリーヌの胸に顔をうずめた。ここ、セレニティの館に移り住んでから、いくつもの月が過ぎていた。
王宮での息が詰まるような慌ただしい日々は、今となってはまるで遠い昔の出来事のように感じられる。あの頃の緊張と不安は、どこか遠くに置き忘れたようで、ここでの穏やかな時間がそのすべてを包み込んでくれているかのようだった。
昼下がり、私たちは静かな街へと足を運んだ。柔らかな光が街並みに降り注ぎ、時間がゆっくりと流れているかのような穏やかな午後。石畳の道を、クロエの小さな足取りに合わせて、私は歩みを緩めながら進んだ。
彼女が少し前を歩きながら、時折こちらを振り向き微笑んでくれるそのたびに、私も自然と顔がほころぶ。周りの賑わいと静かな時間が交わるこの街で、私たちはただ一緒に歩くだけで、心が落ち着いていくのを感じた。
「ママ、あのお花、見て!」
クロエが指を差した先には、花屋の店先に色とりどりのピオニーが並んでいた。淡いピンクの花びらが柔らかな陽光を浴び、春の息吹を感じさせるような優しさを放っている。その隣には、燃えるような赤いピオニーが力強く咲き誇り、情熱を表現しているかのようだった。
そして、雪のように純白の花が静かに佇み、その清らかさで周囲を包み込んでいた。まるでそれぞれの花が、独自の感情を静かに伝えているかのように見えた。
「本当、きれいね。クロエはどのお花が好き?」
「ぜんぶ!」
屈託なく笑うクロエの姿に、セリーヌもつられて自然と微笑んだ。楽しげなその笑顔に、心が温かくなるのを感じながら、私たちは店先で一番大きなピンクのピオニーをひと抱え買い、ゆっくりとお気に入りのカフェへと向かう。
カフェに着くと、香ばしい焼きたてのスコーンの香りが広がり、クロエのためにミルクを、そしてセリーヌはミルクを少しだけ加えた優雅なダージリンを注文した。窓から差し込む柔らかな光の中で、温かな飲み物を手に取りながら、私たちは静かなひとときを楽しんだ。
「ママ、おいしいね」
「そうね、おいしいわね」
セリーヌは、何気ない会話を交わす時間が心から愛おしかった。無駄な気遣いをすることなく、周囲の目を気にすることもなく、ただただ娘の笑顔を見守るそのひととき。
今までどれほど多くの人々の顔色を伺い、無意識にその機嫌を取り繕ってきたのだろう。けれども、この瞬間だけは、誰のためでもなく、自分自身と娘のためだけの平穏な時間が流れていた。その穏やかで平凡なひとときこそ、彼女が心の底から求めていたものだった。
「ねえ、ママ。どうしてパパは、クロエたちとここにいないのかな……」
クロエは、甘いクリームが口の周りにこぼれ落ち、頬を伝って悲しそうな表情を浮かべながら、母にぽつりと漏らした。その小さな手で、無邪気にクリームをぬぐおうとするものの、目にはどこか寂しさが滲んでいた。
その何気ない娘が漏らした一言に、セリーヌの胸が深く痛むのを感じた。娘が無意識のうちに言葉にしたかのように感じた。セリーヌは息を呑み、複雑な思いが胸を締めつける。無理に笑顔を作ることができたとしても、その痛みは決して隠せるものではなかった。
思わず口にした自分の言葉が、母を困らせてしまったのだと感じたクロエは無意識に顔を伏せた。母が悲しんでいるのを見て、心からその言葉を口にしたことを悔いた。自分でも、父がどういう人間かはよく理解していた。そのことが母に与える痛みの大きさを、クロエはよく知っていたはずだった。
なのに、どうしてそんなことを口にしてしまったのか。クロエは胸が痛んで仕方なかった。自分の無邪気な好奇心が、母にとってどれほど重いものだったのか、今になってそのことを痛感していた。
クロエの小さな寝息だけが、静かな部屋に満ちている。光を受けてきらめく淡い金色の髪、ほんのりと色づいた頬。腕の中にすっぽりとおさまるこの温かさだけが、今のセリーヌの世界のすべてだった。
「ん……ママ?」
クロエはふと身じろぎをし、眠りの名残がまだ抜けきれないかのように、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、夢と現実の狭間で迷っているかのようにぼんやりとしたまま、ふわりとセリーヌを見上げる。そのまどろんだ視線には、どこか遠くを見ているようでいて、確かに目の前のセリーヌを捉えていることが感じられた。
「ここにいるわ、クロエ。もう少しお眠りなさい」
「うん……」
こくりと頷いたクロエは、再びセリーヌの胸に顔をうずめた。ここ、セレニティの館に移り住んでから、いくつもの月が過ぎていた。
王宮での息が詰まるような慌ただしい日々は、今となってはまるで遠い昔の出来事のように感じられる。あの頃の緊張と不安は、どこか遠くに置き忘れたようで、ここでの穏やかな時間がそのすべてを包み込んでくれているかのようだった。
昼下がり、私たちは静かな街へと足を運んだ。柔らかな光が街並みに降り注ぎ、時間がゆっくりと流れているかのような穏やかな午後。石畳の道を、クロエの小さな足取りに合わせて、私は歩みを緩めながら進んだ。
彼女が少し前を歩きながら、時折こちらを振り向き微笑んでくれるそのたびに、私も自然と顔がほころぶ。周りの賑わいと静かな時間が交わるこの街で、私たちはただ一緒に歩くだけで、心が落ち着いていくのを感じた。
「ママ、あのお花、見て!」
クロエが指を差した先には、花屋の店先に色とりどりのピオニーが並んでいた。淡いピンクの花びらが柔らかな陽光を浴び、春の息吹を感じさせるような優しさを放っている。その隣には、燃えるような赤いピオニーが力強く咲き誇り、情熱を表現しているかのようだった。
そして、雪のように純白の花が静かに佇み、その清らかさで周囲を包み込んでいた。まるでそれぞれの花が、独自の感情を静かに伝えているかのように見えた。
「本当、きれいね。クロエはどのお花が好き?」
「ぜんぶ!」
屈託なく笑うクロエの姿に、セリーヌもつられて自然と微笑んだ。楽しげなその笑顔に、心が温かくなるのを感じながら、私たちは店先で一番大きなピンクのピオニーをひと抱え買い、ゆっくりとお気に入りのカフェへと向かう。
カフェに着くと、香ばしい焼きたてのスコーンの香りが広がり、クロエのためにミルクを、そしてセリーヌはミルクを少しだけ加えた優雅なダージリンを注文した。窓から差し込む柔らかな光の中で、温かな飲み物を手に取りながら、私たちは静かなひとときを楽しんだ。
「ママ、おいしいね」
「そうね、おいしいわね」
セリーヌは、何気ない会話を交わす時間が心から愛おしかった。無駄な気遣いをすることなく、周囲の目を気にすることもなく、ただただ娘の笑顔を見守るそのひととき。
今までどれほど多くの人々の顔色を伺い、無意識にその機嫌を取り繕ってきたのだろう。けれども、この瞬間だけは、誰のためでもなく、自分自身と娘のためだけの平穏な時間が流れていた。その穏やかで平凡なひとときこそ、彼女が心の底から求めていたものだった。
「ねえ、ママ。どうしてパパは、クロエたちとここにいないのかな……」
クロエは、甘いクリームが口の周りにこぼれ落ち、頬を伝って悲しそうな表情を浮かべながら、母にぽつりと漏らした。その小さな手で、無邪気にクリームをぬぐおうとするものの、目にはどこか寂しさが滲んでいた。
その何気ない娘が漏らした一言に、セリーヌの胸が深く痛むのを感じた。娘が無意識のうちに言葉にしたかのように感じた。セリーヌは息を呑み、複雑な思いが胸を締めつける。無理に笑顔を作ることができたとしても、その痛みは決して隠せるものではなかった。
思わず口にした自分の言葉が、母を困らせてしまったのだと感じたクロエは無意識に顔を伏せた。母が悲しんでいるのを見て、心からその言葉を口にしたことを悔いた。自分でも、父がどういう人間かはよく理解していた。そのことが母に与える痛みの大きさを、クロエはよく知っていたはずだった。
なのに、どうしてそんなことを口にしてしまったのか。クロエは胸が痛んで仕方なかった。自分の無邪気な好奇心が、母にとってどれほど重いものだったのか、今になってそのことを痛感していた。
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