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第19話
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「クロエは、パパよりママのほうが好き」
「あら、どうして?」
「だって、ママは、いっつもクロエのそばにいてくれるから。それに、あったかいから」
クロエは、ふと見せた母の寂しげな表情に胸を締めつけられ、どうにかしてその悲しみを和らげてあげたいという思いに駆られた。
どう声をかければいいのかはわからなかったが、それでもそっとそばに寄り添い、せめて一人ではないことを伝えたくなった。
そして、ぎゅっと母の腰に腕を回し、力強く抱きついた。その温かな感触がセリーヌの胸に広がり、冷たい痛みをやさしく溶かしていく。
(この子がいれば、それでいい)
セリーヌは、その思いを心の底から強く信じていた。自分の腕の中に抱くこの小さな命こそが、かけがえのない存在であると実感するたびに、その子を守るためなら、たとえどんな苦しみや困難が待ち受けていようとも必ず乗り越えていける。そう強く揺るぎない覚悟を胸に刻んだのだった。
夜になると、クロエのためにベッドの横に腰を下ろし、絵本を読んで聞かせてやるのが毎晩のささやかな日課だった。
物語の中では、お姫様と王子様が数々の困難を乗り越え、最後には幸せに結ばれるという心温まるお話が語られていた。クロエは目を輝かせながら聞き入っており、その時間は二人にとって何ものにも代えがたい宝物のような時間だった。
「……そして、ふたりはいつまでも幸せに暮らしました。おしまい」
最後のページを読み終えてそっと本を閉じると、クロエはまるで夢の続きを思い描いているかのように、うっとりとした表情で小さなため息をもらした。その目はまだ物語の世界にとどまっているようで、現実に戻るのが惜しいとでも言うように、ゆっくりと瞬きをしていた。
「素敵ね。クロエも、いつか素敵な王子様と結婚する」
「そうね。きっと、世界で一番すてきな王子様が見つかるわ」
「王子様って、パパみたいな人?」
その何気ない一言を耳にした瞬間、セリーヌは胸の奥がふっと詰まるような感覚に包まれ、思わず息を止めてしまった。子供というのは感じたことを、そのままの気持ちで無邪気に言葉にしてしまう。
そこに悪意などあるはずもなく、ただ思ったことを素直に伝えようとするだけなのだが、大人の心には思いがけず深く響いてしまうこともある。昼間のクロエのあの言葉も、まさにそうだった。
「……そうね。でも、もっともっと、クロエのことだけを一番に考えてくれる人がいいわね」
「うん!」
たしかにブラッドは立場としては王子様だった。けれども、彼は家族として共に過ごした大切な時間を手放し、私たちの前から姿を消した人。どれだけ過去に笑顔を見せてくれたとしても、今ここにいないという現実は変わらない。
だからこそセリーヌは、いつかクロエが大人になったときには、自分のことだけをまっすぐに愛し、大切にしてくれる王子様を選んでほしいと心から願っていた。そしてそれは、クロエに伝えたい言葉であると同時に、自分自身にも言い聞かせるような思いでもあった。
もう二度と、愛という名のもとに傷つくことのないように――そんな静かな祈りが、セリーヌの胸の奥でそっと息づいていた。
満足そうに小さく頷いたクロエは、ほどなくして安心したようにすうすうと寝息を立て始めた。セリーヌはそっと静かに身を起こし、娘の穏やかな寝顔を見つめながら、しばらくのあいだその場に座っていた。ふと目をやると、窓の外には静けさに包まれた夜の闇が、やさしく広がっている。
あの城で過ごしていた頃、この暗闇はどこまでも冷たく、いつ終わるともしれない不安を抱えた恐ろしいものだった。けれど今は違う。まるで新しい朝へと続いていく道のようだった。その暗さには、かすかな光の兆しが漂っていた。
私は心の中で決意を固めていた。もう二度と、あの場所には戻らない。たとえ過去が私を引き戻そうとしても、その扉を開くことはないと自分に誓ったのだ。
まさにその時だった。静かだった館の空気が一変し、正面扉のほうから突然、慌ただしい物音が聞こえてきた。甲高い侍女の声が響き、その後ろで、それを抑え込もうとするような低く重い男の声が続いた。
その声の応酬に胸の奥がざわつく。何が起こっているのかは分からない。だが、理由もなく背筋を冷たいものが這い上がっていく。これは、ただごとではない――そう直感した。
「あら、どうして?」
「だって、ママは、いっつもクロエのそばにいてくれるから。それに、あったかいから」
クロエは、ふと見せた母の寂しげな表情に胸を締めつけられ、どうにかしてその悲しみを和らげてあげたいという思いに駆られた。
どう声をかければいいのかはわからなかったが、それでもそっとそばに寄り添い、せめて一人ではないことを伝えたくなった。
そして、ぎゅっと母の腰に腕を回し、力強く抱きついた。その温かな感触がセリーヌの胸に広がり、冷たい痛みをやさしく溶かしていく。
(この子がいれば、それでいい)
セリーヌは、その思いを心の底から強く信じていた。自分の腕の中に抱くこの小さな命こそが、かけがえのない存在であると実感するたびに、その子を守るためなら、たとえどんな苦しみや困難が待ち受けていようとも必ず乗り越えていける。そう強く揺るぎない覚悟を胸に刻んだのだった。
夜になると、クロエのためにベッドの横に腰を下ろし、絵本を読んで聞かせてやるのが毎晩のささやかな日課だった。
物語の中では、お姫様と王子様が数々の困難を乗り越え、最後には幸せに結ばれるという心温まるお話が語られていた。クロエは目を輝かせながら聞き入っており、その時間は二人にとって何ものにも代えがたい宝物のような時間だった。
「……そして、ふたりはいつまでも幸せに暮らしました。おしまい」
最後のページを読み終えてそっと本を閉じると、クロエはまるで夢の続きを思い描いているかのように、うっとりとした表情で小さなため息をもらした。その目はまだ物語の世界にとどまっているようで、現実に戻るのが惜しいとでも言うように、ゆっくりと瞬きをしていた。
「素敵ね。クロエも、いつか素敵な王子様と結婚する」
「そうね。きっと、世界で一番すてきな王子様が見つかるわ」
「王子様って、パパみたいな人?」
その何気ない一言を耳にした瞬間、セリーヌは胸の奥がふっと詰まるような感覚に包まれ、思わず息を止めてしまった。子供というのは感じたことを、そのままの気持ちで無邪気に言葉にしてしまう。
そこに悪意などあるはずもなく、ただ思ったことを素直に伝えようとするだけなのだが、大人の心には思いがけず深く響いてしまうこともある。昼間のクロエのあの言葉も、まさにそうだった。
「……そうね。でも、もっともっと、クロエのことだけを一番に考えてくれる人がいいわね」
「うん!」
たしかにブラッドは立場としては王子様だった。けれども、彼は家族として共に過ごした大切な時間を手放し、私たちの前から姿を消した人。どれだけ過去に笑顔を見せてくれたとしても、今ここにいないという現実は変わらない。
だからこそセリーヌは、いつかクロエが大人になったときには、自分のことだけをまっすぐに愛し、大切にしてくれる王子様を選んでほしいと心から願っていた。そしてそれは、クロエに伝えたい言葉であると同時に、自分自身にも言い聞かせるような思いでもあった。
もう二度と、愛という名のもとに傷つくことのないように――そんな静かな祈りが、セリーヌの胸の奥でそっと息づいていた。
満足そうに小さく頷いたクロエは、ほどなくして安心したようにすうすうと寝息を立て始めた。セリーヌはそっと静かに身を起こし、娘の穏やかな寝顔を見つめながら、しばらくのあいだその場に座っていた。ふと目をやると、窓の外には静けさに包まれた夜の闇が、やさしく広がっている。
あの城で過ごしていた頃、この暗闇はどこまでも冷たく、いつ終わるともしれない不安を抱えた恐ろしいものだった。けれど今は違う。まるで新しい朝へと続いていく道のようだった。その暗さには、かすかな光の兆しが漂っていた。
私は心の中で決意を固めていた。もう二度と、あの場所には戻らない。たとえ過去が私を引き戻そうとしても、その扉を開くことはないと自分に誓ったのだ。
まさにその時だった。静かだった館の空気が一変し、正面扉のほうから突然、慌ただしい物音が聞こえてきた。甲高い侍女の声が響き、その後ろで、それを抑え込もうとするような低く重い男の声が続いた。
その声の応酬に胸の奥がざわつく。何が起こっているのかは分からない。だが、理由もなく背筋を冷たいものが這い上がっていく。これは、ただごとではない――そう直感した。
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