20 / 54
第20話
しおりを挟む
突然、廊下を駆ける足音が近づき、次の瞬間、執事が戸を勢いよく押し開けて部屋に飛び込んできた。普段は冷静な彼が、息を荒げて動揺を隠せない様子で言う。
「申し訳ありません、大変です……! お別れになったブラッド王子殿下が、無理やり屋敷の中へ……!」
慌てた口調で告げられたのは、思いもよらぬ知らせだった。なんと、別れたはずのブラッドが、突然屋敷に乗り込んできたというのだ。
「お通しして。ただし、条件があります」
セリーヌは深く息を吸い込み、心を落ち着けながら、強引に自分の前に現れた彼と向き合う決意を固めた。何度も避けようとしたが、今、この瞬間だけは逃げるわけにはいかない。
やがて、重たい扉がゆっくりと開き、そこに長身の男が姿を現した。最後に会った時と比べると、ほんの少しだけ痩せているように見えたが、その印象はすぐに消え去った。何よりも変わらなかったのは彼の瞳だ。
傲慢とも言えるほど自信に満ちあふれたその眼差しは、まるで時間が止まったかのように、まったく色あせていなかった。ブラッドは部屋の中央で静かに立ち尽くすセリーヌを見つめ、彼女の姿に何かを感じたのか痛みをこらえるような甘い表情を浮かべた。
「セリーヌ……会いたかった」
その声を聞いた瞬間、セリーヌは自分の心が静かな湖のように穏やかになっていることに気づいた。これまでのように動揺することも、怒りがこみ上げることも、悲しみが心を締め付けることもなかった。
ただ、目の前に立つ男が、どこか不自然で場違いな存在に見えた。彼の姿は、かつてのような迫力を失い、ただ一人の人間として思わず微笑んでしまうほど、どこか頼りなく間の抜けた印象を与えたのだった。
「何の御用でしょうか、王子殿下。ご連絡もなくお越しになるとは、感心いたしませんわね」
努めて冷たく、事務的な声で言うセリーヌ。その言葉に、ブラッドは一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに気を取り直し、冷静さを取り戻してセリーヌに歩み寄ってきた。
彼の金色の髪が光り、青い瞳が輝いていた。それらは以前は、セリーヌの胸を高鳴らせ、彼女を夢中にさせたものだった。しかし、今、目の前に立つ彼の姿は、もう彼女の心を揺さぶることはなかった。その瞳に何を見ても、何の感情も動かされることはない。ただ、過去の記憶が薄れていくように感じるだけだった。
「そんな他人行儀な言い方はやめてくれ。俺たちは、夫婦だろう」
「いいえ、夫婦〝でした〟過去形です」
セリーヌがぴしゃりと、決定的な言葉を言い放った瞬間、それまでなんとか取り繕っていたブラッドの顔が、音を立てて崩れ落ちた。彼の表情は、まるで内側からこみ上げる痛みによって、押し潰されるかのように苦しげに歪んでいった。
ブラッドは、最後の望みをつかむかのように、必死でセリーヌの細い腕を取ろうと手を伸ばした。しかし、セリーヌは彼の切羽詰まった意図を、指先が触れるよりも早く察したのだろう。
まるで風に舞う木の葉のように、するりと身をかわす。あまりにも自然で流れるような動きで、ブラッドの手は空を切り、目の前に残されたのは届かぬ思いだけだった。
「手紙を読んでくれたか? 俺の、悲しみと、君への想いを」
「さあ、どうでしょう。暖炉の薪にするには、少し上等すぎる紙だったかもしれませんわね」
「す、捨てたのか? 俺が、あの手紙をどんな思いで……こんなにも心がすり減ってるのに……」
セリーヌが静かに告げた。手紙を暖炉に入れたと。その言葉が部屋に響いた瞬間、ブラッドは突然膝をつき悲痛な声をあげた。まるで心の底から絞り出したかのように、痛みと後悔を込めたその声は、彼が命を奪われたかのような迫力でセリーヌの耳に届いた。しかし、セリーヌはその姿を見て、心の中でため息をついた。
「エミリー様とは、もうお会いになっていないのですか?」
核心を突く質問を、わざと無邪気な声で尋ねてみた。ブラッドの表情が凍りつく。
「申し訳ありません、大変です……! お別れになったブラッド王子殿下が、無理やり屋敷の中へ……!」
慌てた口調で告げられたのは、思いもよらぬ知らせだった。なんと、別れたはずのブラッドが、突然屋敷に乗り込んできたというのだ。
「お通しして。ただし、条件があります」
セリーヌは深く息を吸い込み、心を落ち着けながら、強引に自分の前に現れた彼と向き合う決意を固めた。何度も避けようとしたが、今、この瞬間だけは逃げるわけにはいかない。
やがて、重たい扉がゆっくりと開き、そこに長身の男が姿を現した。最後に会った時と比べると、ほんの少しだけ痩せているように見えたが、その印象はすぐに消え去った。何よりも変わらなかったのは彼の瞳だ。
傲慢とも言えるほど自信に満ちあふれたその眼差しは、まるで時間が止まったかのように、まったく色あせていなかった。ブラッドは部屋の中央で静かに立ち尽くすセリーヌを見つめ、彼女の姿に何かを感じたのか痛みをこらえるような甘い表情を浮かべた。
「セリーヌ……会いたかった」
その声を聞いた瞬間、セリーヌは自分の心が静かな湖のように穏やかになっていることに気づいた。これまでのように動揺することも、怒りがこみ上げることも、悲しみが心を締め付けることもなかった。
ただ、目の前に立つ男が、どこか不自然で場違いな存在に見えた。彼の姿は、かつてのような迫力を失い、ただ一人の人間として思わず微笑んでしまうほど、どこか頼りなく間の抜けた印象を与えたのだった。
「何の御用でしょうか、王子殿下。ご連絡もなくお越しになるとは、感心いたしませんわね」
努めて冷たく、事務的な声で言うセリーヌ。その言葉に、ブラッドは一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに気を取り直し、冷静さを取り戻してセリーヌに歩み寄ってきた。
彼の金色の髪が光り、青い瞳が輝いていた。それらは以前は、セリーヌの胸を高鳴らせ、彼女を夢中にさせたものだった。しかし、今、目の前に立つ彼の姿は、もう彼女の心を揺さぶることはなかった。その瞳に何を見ても、何の感情も動かされることはない。ただ、過去の記憶が薄れていくように感じるだけだった。
「そんな他人行儀な言い方はやめてくれ。俺たちは、夫婦だろう」
「いいえ、夫婦〝でした〟過去形です」
セリーヌがぴしゃりと、決定的な言葉を言い放った瞬間、それまでなんとか取り繕っていたブラッドの顔が、音を立てて崩れ落ちた。彼の表情は、まるで内側からこみ上げる痛みによって、押し潰されるかのように苦しげに歪んでいった。
ブラッドは、最後の望みをつかむかのように、必死でセリーヌの細い腕を取ろうと手を伸ばした。しかし、セリーヌは彼の切羽詰まった意図を、指先が触れるよりも早く察したのだろう。
まるで風に舞う木の葉のように、するりと身をかわす。あまりにも自然で流れるような動きで、ブラッドの手は空を切り、目の前に残されたのは届かぬ思いだけだった。
「手紙を読んでくれたか? 俺の、悲しみと、君への想いを」
「さあ、どうでしょう。暖炉の薪にするには、少し上等すぎる紙だったかもしれませんわね」
「す、捨てたのか? 俺が、あの手紙をどんな思いで……こんなにも心がすり減ってるのに……」
セリーヌが静かに告げた。手紙を暖炉に入れたと。その言葉が部屋に響いた瞬間、ブラッドは突然膝をつき悲痛な声をあげた。まるで心の底から絞り出したかのように、痛みと後悔を込めたその声は、彼が命を奪われたかのような迫力でセリーヌの耳に届いた。しかし、セリーヌはその姿を見て、心の中でため息をついた。
「エミリー様とは、もうお会いになっていないのですか?」
核心を突く質問を、わざと無邪気な声で尋ねてみた。ブラッドの表情が凍りつく。
1,133
あなたにおすすめの小説
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
【完結】姉の婚約者を奪った私は悪女と呼ばれています
春野オカリナ
恋愛
エミリー・ブラウンは、姉の婚約者だった。アルフレッド・スタンレー伯爵子息と結婚した。
社交界では、彼女は「姉の婚約者を奪った悪女」と呼ばれていた。
4人の女
猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。
うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。
このご婦人方には共通点がある。
かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。
『氷の貴公子』の異名を持つ男。
ジルベール・タレーラン公爵令息。
絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。
しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。
この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。
こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。
あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
【完結】順序を守り過ぎる婚約者から、婚約破棄されました。〜幼馴染と先に婚約してたって……五歳のおままごとで誓った婚約も有効なんですか?〜
よどら文鳥
恋愛
「本当に申し訳ないんだが、私はやはり順序は守らなければいけないと思うんだ。婚約破棄してほしい」
いきなり婚約破棄を告げられました。
実は婚約者の幼馴染と昔、私よりも先に婚約をしていたそうです。
ただ、小さい頃に国外へ行ってしまったらしく、婚約も無くなってしまったのだとか。
しかし、最近になって幼馴染さんは婚約の約束を守るために(?)王都へ帰ってきたそうです。
私との婚約は政略的なもので、愛も特に芽生えませんでした。悔しさもなければ後悔もありません。
婚約者をこれで嫌いになったというわけではありませんから、今後の活躍と幸せを期待するとしましょうか。
しかし、後に先に婚約した内容を聞く機会があって、驚いてしまいました。
どうやら私の元婚約者は、五歳のときにおままごとで結婚を誓った約束を、しっかりと守ろうとしているようです。
【完結】婚約破棄?勘当?私を嘲笑う人達は私が不幸になる事を望んでいましたが、残念ながら不幸になるのは貴方達ですよ♪
山葵
恋愛
「シンシア、君との婚約は破棄させてもらう。君の代わりにマリアーナと婚約する。これはジラルダ侯爵も了承している。姉妹での婚約者の交代、慰謝料は無しだ。」
「マリアーナとランバルド殿下が婚約するのだ。お前は不要、勘当とする。」
「国王陛下は承諾されているのですか?本当に良いのですか?」
「別に姉から妹に婚約者が変わっただけでジラルダ侯爵家との縁が切れたわけではない。父上も承諾するさっ。」
「お前がジラルダ侯爵家に居る事が、婿入りされるランバルド殿下を不快にするのだ。」
そう言うとお父様、いえジラルダ侯爵は、除籍届けと婚約解消届け、そしてマリアーナとランバルド殿下の婚約届けにサインした。
私を嘲笑って喜んでいる4人の声が可笑しくて笑いを堪えた。
さぁて貴方達はいつまで笑っていられるのかしらね♪
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる