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第33話
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シルヴァニア帝国の皇后となってから、数週間が経ち、セリーヌの毎日は穏やかで幸せな時間が流れていた。皇帝である夫、ルドルフは、その圧倒的な存在感でセリーヌとクロエ、そして帝国のすべてを優しく包み込み、温かな毛布で守るかのように彼女たちを安心させていた。
その広くて強い腕の中で、セリーヌはただ幸せに浸り、何不自由ない日々を送っていた。しかし、そんな平穏な日々の中で、思いもよらぬ出来事が訪れるのではないかと、ふと心の奥で感じることがあった。セリーヌはその予感に、どこか不安を覚えながらも日々を大切に過ごしていた。
「どうしたんだい、セリーヌ。何か考えごとかい?」
昼下がりの穏やかなひととき、ローズガーデンを見渡せるテラスで紅茶を楽しんでいると、隣に座っているルドルフがふとセリーヌの顔を心配そうに覗き込み、優しくその表情を見つめた。
セリーヌがその視線に気づくと、彼は何も言わずに、ただ静かに彼女の手にそっと自分の手を重ねた。剣の腕前に優れた彼の手は大きく節くれだったが、セリーヌはその温もりに何とも言えない安心感を覚えた。どこか粗野なその手が彼女を優しく包み込むように感じられ、心の中に広がる安堵の気持ちを満たしていった。
「いいえ、何でもありませんわ、ルドルフ。ただ、今年の薔薇は一段と見事ですわね、と見とれていただけです」
セリーヌは微笑みながら、そう答えた。確かに嘘ではなかった。目の前に広がる色とりどりの薔薇たちは、どれも美しく夢のような景色を作り上げていた。しかし、その言葉には全ての真実が含まれていたわけではない。ほんの少し前、庭で蝶を追いかけて遊んでいたクロエが、ふと振り返った。
その瞬間、彼女の横顔が一瞬、あの男の面影と重なったような気がして、セリーヌの胸に急に痛みが走った。まるで心臓に小さな棘が刺さったかのような鋭い痛みが、彼女の胸の奥に広がり動けなくなった。
あの幼馴染であるエミリーにも振られ、そして自らの国もろとも堕ちていった哀れな元夫、ブラッドのことを思い返すと、彼の失墜はまさに自業自得だったと言わざるを得なかった。国民たちはその後、ブラッドがもたらした混乱と困難を乗り越え、属国となったものの何とか立ち直ることができたのは救いだった。
もう二度と会うことはないはずだし、思い出す必要もないはずの男なのに、なぜかその記憶が心に浮かんでは彼女の心をわずかに乱すことがあった。特にクロエの瞳の中に、あの男と同じ青い色を見つけるたびに、まるで時間を戻してしまったかのように、懐かしさとどうしようもない切なさが胸の奥から込み上げてきて、彼女はその感情に一瞬、息を飲むのだった。
「君は、優しすぎるからな。しかし、過去は過去だ。君はもう、誰にも心を痛める必要はない」
ルドルフは、すべてをお見通しであるかのように、穏やかな口調で静かに言った。その言葉には何の驚きも、また焦りも感じさせることなく、ただ優しさと理解が込められているようだった。
「ルドルフ……」
「君とクロエの幸せを守ること。それが、私の唯一の務めだ」
悪戯っぽく笑うルドルフの表情を見て、セリーヌも自然とその笑顔に引き寄せられるように微笑んだ。その瞬間、彼女の心に温かな感情が広がり、今の自分の状況を強く実感した。そうだ、私はもう一人ではないのだ。
これから先、どんな困難が待っていようとも、私のそばには、太陽のように明るく海のように深い愛情をくれるルドルフがいる。彼の存在が、セリーヌにとって何よりの支えであり、何も怖くないという安心感を与えてくれていることを改めて感じた。
「ルドルフ……ありがとう存じます」
セリーヌが彼の大きな手に、自分の細い指を絡めると、ルドルフはその優しい仕草に満足そうに頷いた。その瞬間、セリーヌは心からこの平穏な時間が、いつまでも続くことを願った。静かな午後のひととき、何事もないかのように感じられるその瞬間に、心の中で静かに祈りを捧げた。
(どうか、この平和な日々が続きますように)
しかし、その祈りがどれほど儚いものであり、またどれほど脆く崩れ去る運命にあるのかセリーヌは知る由もなかった。
その広くて強い腕の中で、セリーヌはただ幸せに浸り、何不自由ない日々を送っていた。しかし、そんな平穏な日々の中で、思いもよらぬ出来事が訪れるのではないかと、ふと心の奥で感じることがあった。セリーヌはその予感に、どこか不安を覚えながらも日々を大切に過ごしていた。
「どうしたんだい、セリーヌ。何か考えごとかい?」
昼下がりの穏やかなひととき、ローズガーデンを見渡せるテラスで紅茶を楽しんでいると、隣に座っているルドルフがふとセリーヌの顔を心配そうに覗き込み、優しくその表情を見つめた。
セリーヌがその視線に気づくと、彼は何も言わずに、ただ静かに彼女の手にそっと自分の手を重ねた。剣の腕前に優れた彼の手は大きく節くれだったが、セリーヌはその温もりに何とも言えない安心感を覚えた。どこか粗野なその手が彼女を優しく包み込むように感じられ、心の中に広がる安堵の気持ちを満たしていった。
「いいえ、何でもありませんわ、ルドルフ。ただ、今年の薔薇は一段と見事ですわね、と見とれていただけです」
セリーヌは微笑みながら、そう答えた。確かに嘘ではなかった。目の前に広がる色とりどりの薔薇たちは、どれも美しく夢のような景色を作り上げていた。しかし、その言葉には全ての真実が含まれていたわけではない。ほんの少し前、庭で蝶を追いかけて遊んでいたクロエが、ふと振り返った。
その瞬間、彼女の横顔が一瞬、あの男の面影と重なったような気がして、セリーヌの胸に急に痛みが走った。まるで心臓に小さな棘が刺さったかのような鋭い痛みが、彼女の胸の奥に広がり動けなくなった。
あの幼馴染であるエミリーにも振られ、そして自らの国もろとも堕ちていった哀れな元夫、ブラッドのことを思い返すと、彼の失墜はまさに自業自得だったと言わざるを得なかった。国民たちはその後、ブラッドがもたらした混乱と困難を乗り越え、属国となったものの何とか立ち直ることができたのは救いだった。
もう二度と会うことはないはずだし、思い出す必要もないはずの男なのに、なぜかその記憶が心に浮かんでは彼女の心をわずかに乱すことがあった。特にクロエの瞳の中に、あの男と同じ青い色を見つけるたびに、まるで時間を戻してしまったかのように、懐かしさとどうしようもない切なさが胸の奥から込み上げてきて、彼女はその感情に一瞬、息を飲むのだった。
「君は、優しすぎるからな。しかし、過去は過去だ。君はもう、誰にも心を痛める必要はない」
ルドルフは、すべてをお見通しであるかのように、穏やかな口調で静かに言った。その言葉には何の驚きも、また焦りも感じさせることなく、ただ優しさと理解が込められているようだった。
「ルドルフ……」
「君とクロエの幸せを守ること。それが、私の唯一の務めだ」
悪戯っぽく笑うルドルフの表情を見て、セリーヌも自然とその笑顔に引き寄せられるように微笑んだ。その瞬間、彼女の心に温かな感情が広がり、今の自分の状況を強く実感した。そうだ、私はもう一人ではないのだ。
これから先、どんな困難が待っていようとも、私のそばには、太陽のように明るく海のように深い愛情をくれるルドルフがいる。彼の存在が、セリーヌにとって何よりの支えであり、何も怖くないという安心感を与えてくれていることを改めて感じた。
「ルドルフ……ありがとう存じます」
セリーヌが彼の大きな手に、自分の細い指を絡めると、ルドルフはその優しい仕草に満足そうに頷いた。その瞬間、セリーヌは心からこの平穏な時間が、いつまでも続くことを願った。静かな午後のひととき、何事もないかのように感じられるその瞬間に、心の中で静かに祈りを捧げた。
(どうか、この平和な日々が続きますように)
しかし、その祈りがどれほど儚いものであり、またどれほど脆く崩れ去る運命にあるのかセリーヌは知る由もなかった。
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