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祭りの後
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学園祭の二日目、綾音と美青は二人で協力して作業をし、シフトが終わったあとは吹奏楽部の公演を見に行ったり、話題になっている三年生のアトラクションに行ったりした。昨年の学園祭の綾音は働きづめで、休憩時間など無いに等しいものだったから、遊びに行くのは初めてのことである。あっという間に、学園祭は終わった。
終了時間の後は全員体育館に集まって、閉会式に参加することになっている。といってもかしこまったものではなく、学園祭実行委員会プロデュースのライブのようなものだ。部屋を暗くして、ペンライトを振りながらメーキングビデオを見たり軽音部やダンス部の出し物を見て盛り上がるのが通例である。
「お疲れ様」クラスごとに整列するとき、綾音は後ろからぽんと肩を叩かれた。振り返るともう後ろには誰もいなかったけれど、声で開だと分かった。身体が少し熱を持って仕方がなかった。開はきっと、学園祭実行委員の一員として裏方の作業をしに行くのだろう。クラスの列にはその姿が見当たらなかった。
投票の結果発表があって、綾音たちのクラスが二学年の優勝だった。喜びの勢いもそのまま、片付けが終わると幹事の指示で駅の近くの店へと向かう。幹事が手配した団体a客用の送迎バスが来て、次々と中に乗った。
店に着くまでの道中、いつ準備したのか幹事が店内での席順を決めるくじ引きを配った。店に着くと、席順が口頭で告げられる。
「あちゃー」
綾音の隣で、美青は苦笑した。
「君山かわいそ」
君山は、綾音とも、美青とも開とも同じ班にならなかった。クラスメイトのほとんどが君山が打ち上げに来ると予想していなかったらしく「どういう心境の変化!?」と大声で質問されていた。
普通にしていても機嫌が悪そうな君山は、もう疲れた、という顔をしてため息をつきたがっているように見える。綾音はついその様子を見て同情してしまった。せっかくなら美青と同じ班になるのは綾音ではなく、君山ならばよかったのにと思っていた。
「黒瀬とおんなじ班になればよかったのにね」
美青は綾音の耳元でいたずらっぽく笑いながら囁く。恋愛沙汰でからかわれるのは初めてのことで、綾音は肩をすくめた。なんだか高校生らしいことをしている、と思ってこそばゆかった。
互いの働きをねぎらい、談笑もほどほどに、打ち上げはお開きになった。店の外に行った後、スマートフォンで時刻を確認するともう夜9時になっていた。綾音は驚いて「あれ、もう9時」と思わずつぶやいた。クラスメイトたちは別れの挨拶をして次々と帰っていく。綾音は両親に連絡を取って、車で迎えに来てもらうことになった。バスがなく、自力では帰れないのだ。
店の前で立つ綾音を前に、美青と君山が立ち止まる。
「綾音ちゃん、打ち上げどうだった?」
暗闇の中、美青は綾音に笑いかけた。街灯に照らされた笑顔は無邪気で、かわいらしかった。
「と、とっても楽しかった」
すると、美青は嬉しそうに綾音のほほを触る。
「綾音ちゃん、みんなの前で笑ってたよ。気付いてた?」
美青が手を離すと同時に、綾音も片手で自らのほほに触れる。思い返すと、学園祭の間、何回か微笑んでいた気がする。笑顔を見られて「変だ」と思われてしまったら、なんてことは意識していなかった。
「全然意識してなかった‥‥」
綾音はかすれた声で返事をした。信じられなかった。思い通りに感情を周囲に伝えてくれない、言うことを聞いてくれなかったはずの顔がほころんだだなんて。
「綾音ちゃんはもう大丈夫だね!」
美青に元気よく両肩を叩かれる。あまりの勢いによろめいた後、綾音は力なくふにゃりと笑った。
「全然愛想悪くねえじゃん‥‥」
ずっと黙って二人を見ていた君山が、低い声でぼそりとつぶやく。目を丸くして綾音が見つめると、「なんだよ、見んなよ」と緑を含む切れ長の涼やかな瞳で睨まれた。直後、美青が君山のみぞおちあたりをどんと小突く。
「綾音ちゃん、電車あるから先行くね。私、今日で決着つけるから。またね」
美青はそう耳打ちして微笑んだ。その微笑みがとてつもなく美しい女性のそれに見えて、綾音は思わず見とれた。普段とは別人のようにきれいで、儚かった。何かを覚悟したような、そしてなぜか悲しげな表情だった。
二人が闇に消えていく後ろ姿を見て、綾音は遅れて美青の言葉の意味を知った。
───ただの幼馴染じゃなくなる覚悟ができたんだ。
やはり、美青は強い女性だ。店のドアが開くベルの音がして、綾音は音のなるほうを見た。ぼうっとした明かりに、二人の人物が見える。一人は幹事を務め、一人で会計を引き受けてくれた男子。そしてもう一人は、開だった。
朝が早かったのだろう。またも眼鏡をかけているようだ。遠くからでも細部まで気にかかってしまって、自らの想いが心の深いところまで侵食していることを思い知らされる。
開たちも一人で立つ綾音に気付いたようで、二人で駆け寄って来た。
「小松さん、どうしたの」
幹事が心配そうに話しかけてくる。いつの間にやらクラスに溶け込めているようで、なんだか胸が熱くなった。
「バス民だもんな。うちの人に迎えに来てもらうの?」
綾音が答える前に、開が幹事の言葉を引き継ぐ。綾音がゆっくり頷くと、幹事は「俺も車だから」とだけ言って、走っていなくなってしまった。
開のほうを見ると、少し困ったように頭を掻いている。見慣れない黒縁眼鏡のレンズが街灯の光を反射していた。
「こっちのほうがいいんだよな」
開はなぜか、綾音を前に眼鏡を外す。
「いえ、どちらでも」
戸惑いながら綾音が答えると、「興味なしかよ」といつになくぶっきらぼうに開が言い返した。
なんだか開の様子がおかしい気がした。いつもの落ち着いた優しい雰囲気が崩れて、年相応の男子の粗野な要素が加わっている気がする。また、開の知らないところを見たようで、綾音の鼓動は早まっていた。
「黒瀬くん、帰らなくていいの?」
迎えが来るまでの間とはいえ、こんな暗い夜に二人きりなんて、綾音はどうにも落ち着かなかった。
「小松さん一人で置いていけないよ。俺は一人でも平気だから」
開はいつも通りのやわらかく少し儚い笑みに戻っていた。
歯の浮くような台詞を簡単に言ってのけるから、この人は恋愛事に疎い自分にも好かれてしまうのだ、と綾音は思う。「ありがとう」とだけ返すと、開は頭の後ろで手を組んで空を見上げた。
「小松さん、蒸し返して悪いんだけど、初日のあれ、誰?」
「中学の同級生の人だよ。私、愛想が悪くて嫌われてたからね。『真顔星人』だったの。私にも落ち度があったから、ああいうのは仕方ないと思う。でも、助けてくれてありがとう」
開のさりげない言い方につられて、綾音は思いを吐露していた。気付いたら教えるつもりのないことまで言ってしまっていて、恥ずかしさがこみあげてくる。
開は一瞬だけ綾音のほうを見て、また目を逸らした。瞳には確かに街灯の光が反射しているのに、なぜか光がないような、濁った瞳に見える。顔は綾音のほうに向いているはずなのに、ぼうっと空を見つめているようで、綾音は少し怖くなった。夏の夜を知らせる冷ややかな風が余計に得体のしれない怖さを演出している。
「‥‥泣いて怒って困らせてやればよかったのにな」
お願いだから何か喋ってほしい、と思い始めたところで、開は口を開いた。声が、いつになく弱々しい。か細くて、震えていて、まるで凍えている人のようだ。
───どうしてそんな顔をするの。
「小松さんは悪くないと思う。中学生のときの小松さんは知らないけど、でも、きっと悪くないよ」
開は再び眼鏡をかけた。
「顔見えないから、やっぱかけさせて。目の前にいるのに顔見えないとか悲しいわ」
今度は真っ直ぐに綾音を見つめた。矢のように真っ直ぐな視線だ。君山と違ってやわらかさのある視線だけれど、綾音は思わず少し目を背けた。
「『真顔星人』ねえ‥‥」と開がゆっくりと言う様子が艶っぽくて、どきりとしてしまう。目の前に、得体の知れない何かがいるような気がした。もちろん、間違いなく黒瀬開その人なのだけれど、底が知れない。
───好きだ。どうしようもなく、好きだ。
『好き』の二文字が、綾音の脳内を支配していた。
『手に負えない』『大丈夫だよ』
幼いころからの開を知る君山と美青の矛盾した意見も、脳内にこだましている。もう、どうしたらいいのか分からない。
『手に負えない』その通りだ。たしかに、開は手に負えない。なぜか綾音の心のうちを除くようにして、綾音自身が心のどこかで欲していた種類の優しさを簡単に持って来て、突然いなくなってしまう。
人気者で、勉強もできるのに、どこか寂しそうな、油断したら簡単に消えてしまいそうな雰囲気もあって、心のうちに何を抱えているのだろうかと考えるときもある。それでも、近づきたいと思ってしまう。綾音は、もう無理だと思った。
「小松さん、どうしたの?」
綾音の異変に気付いたのか、開は心配そうに見つめてくる。
「やっぱ疲れた?今日はシフトそんなに入ってなかったはずだけど‥‥。まさか他の人のを引き受けたとかないよな。それか打ち上げで人酔いした?楽しいと疲れるもんな」
シフトの結果まで気にかけていたの、と余計に心が重たくなった。優しさをもらいすぎて、もう、抱えきれない。一年前の学園祭からもらい始めたのだ。それに気づいてから余計に苦しくなってしまった。誰かと関わって、自分の心を受け入れるというのは、こんなにも難しいのか。
綾音は開をそっと見つめた。
「黒瀬くん、ごめんなさい。私───」
「あ、車だ」
想いを零しそうになったところで、耳慣れたエンジン音が聞こえた。見てみれば、綾音の母親の車である。シルバーの大きな車体が素早く駐車し、勢いよくドアが開いた。
「ごめんね待たせちゃって」
綾音の母親の蝶子が小走りでやってくる。さっぱりとしたショートカットと黒髪が印象的な、綺麗な女性だ。目元と身長が綾音と瓜二つだが、髪色や、乱暴に扱ったら折れてしまいそうなほどの細身の体型はあまり似ていなかった。ぱっと開のほうを見ると、蝶子は何も言わずに笑って軽く一礼した。
開も一切動じずに人のよさそうな笑みを浮かべる。
「来てくれてありがとう。黒瀬くん、待っててくれてありがとう。私帰るね」
綾音が手を振りながら言うと、開も「うん、気を付けて」と応じる。すると蝶子は、二人の様子を変わる変わる見て、遠慮がちに口を開いた。
「‥‥黒瀬さん?電車通学なのかな」
「ああ、はい」と驚いたように開が答えると、蝶子は「じゃあ、おばさんの車に乗って。駅まで送っていくから」と言った。
「ちょっと」と綾音が蝶子の手を握ると、開はけらけらとおかしそうに笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
開のいたずらっぽい笑みを見て、綾音は肝を冷やした。先ほどまでとは、また違う苦しさが襲ってくる。
車内に、母と、その娘と、娘が勝手に想いを寄せているクラスメイトの男子の3人でいるなんて、気まずくて耐えきれない。
「綾、助手席乗って」
蝶子に導かれるようにして、綾音はしぶしぶ助手席に乗った。開のほうを見ると、蝶子に助けられながら、けろりとした顔をして後ろの席に座っていた。シートベルトももう付けている。
「すみません。お世話かけます」
笑って挨拶する開は、この状況が平気なのだろうか。
綾音は駅までの道のりを三人で過ごすことになった。好きな人といるはずなのに、「母」という存在が大きすぎて、気が重かった。
終了時間の後は全員体育館に集まって、閉会式に参加することになっている。といってもかしこまったものではなく、学園祭実行委員会プロデュースのライブのようなものだ。部屋を暗くして、ペンライトを振りながらメーキングビデオを見たり軽音部やダンス部の出し物を見て盛り上がるのが通例である。
「お疲れ様」クラスごとに整列するとき、綾音は後ろからぽんと肩を叩かれた。振り返るともう後ろには誰もいなかったけれど、声で開だと分かった。身体が少し熱を持って仕方がなかった。開はきっと、学園祭実行委員の一員として裏方の作業をしに行くのだろう。クラスの列にはその姿が見当たらなかった。
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店に着くまでの道中、いつ準備したのか幹事が店内での席順を決めるくじ引きを配った。店に着くと、席順が口頭で告げられる。
「あちゃー」
綾音の隣で、美青は苦笑した。
「君山かわいそ」
君山は、綾音とも、美青とも開とも同じ班にならなかった。クラスメイトのほとんどが君山が打ち上げに来ると予想していなかったらしく「どういう心境の変化!?」と大声で質問されていた。
普通にしていても機嫌が悪そうな君山は、もう疲れた、という顔をしてため息をつきたがっているように見える。綾音はついその様子を見て同情してしまった。せっかくなら美青と同じ班になるのは綾音ではなく、君山ならばよかったのにと思っていた。
「黒瀬とおんなじ班になればよかったのにね」
美青は綾音の耳元でいたずらっぽく笑いながら囁く。恋愛沙汰でからかわれるのは初めてのことで、綾音は肩をすくめた。なんだか高校生らしいことをしている、と思ってこそばゆかった。
互いの働きをねぎらい、談笑もほどほどに、打ち上げはお開きになった。店の外に行った後、スマートフォンで時刻を確認するともう夜9時になっていた。綾音は驚いて「あれ、もう9時」と思わずつぶやいた。クラスメイトたちは別れの挨拶をして次々と帰っていく。綾音は両親に連絡を取って、車で迎えに来てもらうことになった。バスがなく、自力では帰れないのだ。
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「綾音ちゃん、打ち上げどうだった?」
暗闇の中、美青は綾音に笑いかけた。街灯に照らされた笑顔は無邪気で、かわいらしかった。
「と、とっても楽しかった」
すると、美青は嬉しそうに綾音のほほを触る。
「綾音ちゃん、みんなの前で笑ってたよ。気付いてた?」
美青が手を離すと同時に、綾音も片手で自らのほほに触れる。思い返すと、学園祭の間、何回か微笑んでいた気がする。笑顔を見られて「変だ」と思われてしまったら、なんてことは意識していなかった。
「全然意識してなかった‥‥」
綾音はかすれた声で返事をした。信じられなかった。思い通りに感情を周囲に伝えてくれない、言うことを聞いてくれなかったはずの顔がほころんだだなんて。
「綾音ちゃんはもう大丈夫だね!」
美青に元気よく両肩を叩かれる。あまりの勢いによろめいた後、綾音は力なくふにゃりと笑った。
「全然愛想悪くねえじゃん‥‥」
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二人が闇に消えていく後ろ姿を見て、綾音は遅れて美青の言葉の意味を知った。
───ただの幼馴染じゃなくなる覚悟ができたんだ。
やはり、美青は強い女性だ。店のドアが開くベルの音がして、綾音は音のなるほうを見た。ぼうっとした明かりに、二人の人物が見える。一人は幹事を務め、一人で会計を引き受けてくれた男子。そしてもう一人は、開だった。
朝が早かったのだろう。またも眼鏡をかけているようだ。遠くからでも細部まで気にかかってしまって、自らの想いが心の深いところまで侵食していることを思い知らされる。
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「小松さん、どうしたの」
幹事が心配そうに話しかけてくる。いつの間にやらクラスに溶け込めているようで、なんだか胸が熱くなった。
「バス民だもんな。うちの人に迎えに来てもらうの?」
綾音が答える前に、開が幹事の言葉を引き継ぐ。綾音がゆっくり頷くと、幹事は「俺も車だから」とだけ言って、走っていなくなってしまった。
開のほうを見ると、少し困ったように頭を掻いている。見慣れない黒縁眼鏡のレンズが街灯の光を反射していた。
「こっちのほうがいいんだよな」
開はなぜか、綾音を前に眼鏡を外す。
「いえ、どちらでも」
戸惑いながら綾音が答えると、「興味なしかよ」といつになくぶっきらぼうに開が言い返した。
なんだか開の様子がおかしい気がした。いつもの落ち着いた優しい雰囲気が崩れて、年相応の男子の粗野な要素が加わっている気がする。また、開の知らないところを見たようで、綾音の鼓動は早まっていた。
「黒瀬くん、帰らなくていいの?」
迎えが来るまでの間とはいえ、こんな暗い夜に二人きりなんて、綾音はどうにも落ち着かなかった。
「小松さん一人で置いていけないよ。俺は一人でも平気だから」
開はいつも通りのやわらかく少し儚い笑みに戻っていた。
歯の浮くような台詞を簡単に言ってのけるから、この人は恋愛事に疎い自分にも好かれてしまうのだ、と綾音は思う。「ありがとう」とだけ返すと、開は頭の後ろで手を組んで空を見上げた。
「小松さん、蒸し返して悪いんだけど、初日のあれ、誰?」
「中学の同級生の人だよ。私、愛想が悪くて嫌われてたからね。『真顔星人』だったの。私にも落ち度があったから、ああいうのは仕方ないと思う。でも、助けてくれてありがとう」
開のさりげない言い方につられて、綾音は思いを吐露していた。気付いたら教えるつもりのないことまで言ってしまっていて、恥ずかしさがこみあげてくる。
開は一瞬だけ綾音のほうを見て、また目を逸らした。瞳には確かに街灯の光が反射しているのに、なぜか光がないような、濁った瞳に見える。顔は綾音のほうに向いているはずなのに、ぼうっと空を見つめているようで、綾音は少し怖くなった。夏の夜を知らせる冷ややかな風が余計に得体のしれない怖さを演出している。
「‥‥泣いて怒って困らせてやればよかったのにな」
お願いだから何か喋ってほしい、と思い始めたところで、開は口を開いた。声が、いつになく弱々しい。か細くて、震えていて、まるで凍えている人のようだ。
───どうしてそんな顔をするの。
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「小松さん、どうしたの?」
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「あ、車だ」
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綾音が手を振りながら言うと、開も「うん、気を付けて」と応じる。すると蝶子は、二人の様子を変わる変わる見て、遠慮がちに口を開いた。
「‥‥黒瀬さん?電車通学なのかな」
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「ちょっと」と綾音が蝶子の手を握ると、開はけらけらとおかしそうに笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
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車内に、母と、その娘と、娘が勝手に想いを寄せているクラスメイトの男子の3人でいるなんて、気まずくて耐えきれない。
「綾、助手席乗って」
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「すみません。お世話かけます」
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