ポーカーフェイスとキラースマイル

五月雨 雫

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わがまま

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「‥‥彼氏?」

運転しながら、笑い交じりで蝶子が綾音に訊いてきた。

「違うよ、聞こえたら失礼でしょ」

小声で言いながら、この母親は、と恥ずかしくなる。
開に聞こえないような小さな声で耳打ちしてくれたけれど、できるなら茶化すのはやめてほしかった。蝶子は普段はとても忙しくしているけれど、一緒にいられるときはとことん綾音に尽くす母だった。飾ったところがなく、無駄なプライドもなく、友だちのように接してくれる。だから綾音は蝶子のことが大好きなのだが、その分何かにつけてからかってくるのには困ってしまう。

「黒瀬さんも綾音と同じクラスでしょ?」

蝶子は綾音の渾身の抗議をものともせずに開に話を振る。綾音がミラーから懸命に開の様子を見てみると、特に困っていそうではなくて安心した。

「はい。同じクラスの隣の席です。‥‥あ、俺、黒瀬開って言います」

「それはお世話になってます。学園祭もお疲れ様。お化け屋敷をやったんだって?」

「はい。俺はほとんど何も役に立ってないですけど。役に立ったのは小松さんの方です。放課後の準備とか、クラス委員の穴埋めやってくれてたので」

「え、そうなの?」

「‥‥うん」

「ごめん小松さん、言ったらまずかった?」

「いや、大丈夫」

あまりに開が自然に蝶子と会話するので、綾音は誰が蝶子の家族なのか分からないと思ってしまった。開は小松家の雰囲気に妙に溶け込んでいる。人と関わるときに物怖じしない開の強さがそうしているのか、単に蝶子と開の相性がいいのかは分からないが、気まずく思っているのは綾音一人だけのようで、なんだか複雑な気分だ。

「高校生楽しそうでいいねー。おばさんが通ってた高校は制服も酷いし校則も無駄に厳しかったからさ、楽しい高校に行けたみたいでよかったよ。だいぶ昔の話になっちゃうけどね」

「ねえ、ちょっと‥‥」

車が多いのをいいことに長い昔話でも始まったらどうしよう、と綾音が蝶子に声をかけると、開は「仲がいいんだな」と言った。振り返ると、なんだか安心したように、けれど力なく座っている開が見えた。
これ以上この開の表情を見てはいけない気がして、綾音は目を背けた。
開が遠い目をしているところを見ると、ずっと見ていたいような吸い込まれるような気分になるときがある。けれど同時に、踏み込んではいけないような所を覗いているような気もしてしまって、心が迷子になる。

「そろそろ駅に着くよ。黒瀬さんみたいな落ち着いた子が知り合いにいて安心。わざわざありがとね」

赤信号でブレーキを踏んだ後、蝶子はちらりと開を見て微笑んだ。

「知り合いじゃありません。友達です」

開は静かに、透き通った声でそう言った。

「あの、お名前を教えてくださいませんか」

「え?おばさんでいいよ?」

「‥‥いえ。教えてほしいんです」

そしてなぜだか綾音の母親の名前を知りたがる。いつになく強い口調で、引き下がらなかった。

小松こまつ蝶子ちょうこ。あとね、旧姓は青砥あおと。珍しいでしょ?」

蝶子は多少戸惑いながらも明るく答えてみせた。車内に少し緊張感が漂ったように思えて、綾音は思わず息を止めていた。

「今車停めるね」

蝶子が北口に車を止めようとする中、開が口を開いた。

「‥‥、わざわざありがとうございました。『お母さん』とか『おばさん』って役割名じゃないですか。お礼を言うのに失礼な気がしちゃって。面倒な奴ですみません。じゃあ小松さん、またな!」

ドアを丁寧に開けた後、開ははねるように車から降りた。
暖色の駅の街灯の光に照らされた開は、小松家の車が見えなくなるまで小さく手を振っていた。

「なかなかに曲者だね、あの子」

開が見えなくなった辺りで、蝶子は小さく呟いた。綾音は真っ直ぐ前を向いたまま、黙ってそれを聞いている。暖色のライトが綺麗だった。


「‥‥はっきりしなさい。好きなんでしょ」


「なんでそういうこと言うの!違うって言ったじゃん!」

決定的な蝶子の一言を、綾音は大声で否定した。
もしかしたら「釣り合わない」とか、「あんたが?」とか、そういう言葉でからかわれるのではないかと不安になったのだ。たとえ冗談でも、信頼している母親からそんな言葉が出てくるのは聞きたくなかった。怖かった。

「分からないとでも思ってんのか。舐めんなよ、アタシはあんたより30年は長く生きてる」

蝶子は何の動揺も見せずに、淡々とハンドルを切っていた。

「‥‥大事な一人娘の気持ちを馬鹿にするとでも思ってんの。一体母親を何だと思ってんだか。ま、仕事ばっかで母親らしいこと何もやってあげられなかったけどね」

『母親らしいことをやってあげられなかった』は、蝶子の口癖だった。いつも乾いた口調でそう言うのだ。
それを聞く度、絶対に違う、と綾音は思う。
綾音はお団子縛りも三つ編みもポニーテールも、女の子が好む髪型のほとんどを自力では作ることができない。かわいらしい装いに興味があった保育園生の頃、蝶子が毎朝綺麗に綾音の髪を梳かして、結んでくれていたからだ。
物心がついた後は、クラスの女子に『似合わない』と言われるのが怖くて一本縛りしかしなくなったけれど、あの頃の蝶子の手の優しさを、鮮明に覚えている。
それに「行儀がいい」とか「しっかりしている」と言われるのもすべて、両親の教育のおかげだ。生まれつき身体の弱い蝶子が毎日家事をして、綾音の面倒を見ていたことの大変さが、年を重ねるたびに理解できるようになっていた。

「私が左利きでも悪く言われないのは、ママのおかげだよ」

「それもね、ママはちょっとだけ後悔してんの。行儀の良い子にはなったけど、小っちゃいうちに『左利きは馬鹿にされる』って言って厳しく育てたから、綾は人目を気にして周りに気を遣いすぎる子になっちゃったのね。5歳のあんたにちゃんと箸を持たせるのに、手を叩いて怒鳴りまくったし。こんなヒステリ婆、あんたはよく母親だと思ってくれるね‥‥。いい娘」

家に着いて、玄関の鍵を開けた。綾音はすぐに風呂に入って、寝る支度を整えて寝室に向かう。蝶子がマンガを読みながらベットに腰かけていた。含みのある、優しい笑みを浮かべている。
蝶子は病弱そうな身体で、ぎゅっと綾音を抱きしめた。

「綾、全部あんたの好きにしていいよ。でもね、本当に欲しいものは諦めちゃだめ。色々我慢させて育てちゃったけど、いい加減、我儘になりなさい」

抱きしめられたのは久しぶりで、綾音は身体が熱くなっていくのを感じた。ああ、母親だ、と思う。絶対に、綾音は蝶子には敵わない。蝶子の痩せた身体は、信じられないほどの包容力を持っている。それは母性によるものだ。

「誰かが手綱を握ってないと、黒瀬さんはどっか行っちゃうよ。不思議な子だね。たぶん天性の人たらしなんだと思うんだけど、なんだか寂しそう」

年を重ねているからだろうか、蝶子の目利きはいつも簡単に真理を突く。

「ママが来なきゃ、ちゃんと『好き』って言ってたよ‥‥」

観念して、綾音はため息交じりの小声で言った。

「あれ、あんたそんなことできる子だったっけ」

蝶子は綾音を腕の中から解放しながら、目を丸くしている。

「‥‥黒瀬くんなら、ちゃんと聞いてくれそうなんだもん」

「とんでもないタイミングで着いちゃったのね。急いで下りなきゃよかった。折角頑張ってたのに悪かったねえ‥‥」

こういう時、蝶子は本当に申し訳なさそうにする。責めるつもりはなかったのに、と綾音は少し後悔した。あまりに蝶子がバツが悪そうにしているので何と言っていいか分からなくなってしまう。
綾音が布団に入ると、蝶子は電気を消した。二人並んで横になる。

「ねえ綾。黒瀬さんが寂しそうってママが言ったの、なんとなく解った?」

「‥‥うん。分かる」

「もし黒瀬さんが寂しそうにしてなくても、好きになってた?」

「‥‥なってない」

「そう。なら大丈夫だよ」

なにが大丈夫なんだろうと思ったけれど、蝶子に訊くのはやめておいた。

「おやすみ、ママ」

「おやすみ」

それだけ言って、綾音は目を閉じた。
母親のことを「ママ」と呼んでいることを知っても開は驚かないでいられるだろうか、と不意に思った。
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