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恋愛未満の恋

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 シュリ・アルスターは白衣をはためかせ、研究棟の最南にある温室を目指していた。白衣は研究員に支給された仕事着だ。
 シュリは高等部を卒業してすぐ、この王立研究所に就職した。
 配属は植物再生研究室。いわゆる園芸作物について、最先端技術による品種改良などを行う部署だ。
 この国では珍しい赤髪はゆるく三つ編みにして、研究の邪魔にならないように背中に流している。暗いところでの本の読み過ぎで落ちた視力は、度数の高い眼鏡でカバーしている。
 グレーのセーターと白いロングスカートは最先端のおしゃれとはほど遠い、流行遅れのスタイルだ。それもそのはず、彼女が身に付けている衣類は、母親が昔愛用していた服なのだから。
 古いデザインは野暮ったい印象さえ与えるが、古着というよりは新品に近い。
 季節ごとに目まぐるしくデザインが変わる衣服業界が、安価で量産できる製品スタイルに変わって以降、ワンシーズンが過ぎれば生地のほつれや毛玉が目立っていく。
 その点、昔の服は一流の職人が手がけたため、物持ちがいいのだ。
 何年たっても着心地も申し分なく、シュリは周りに「他の服にすれば、もっと見栄えもよくなるのに……」と小言を言われても、親の服を手放すつもりはない。さすがに下着は自分用を買っているが、まだ着られるものを捨てる気にはどうしてもなれないのだ。

(節約できるところは節約しないとね!)

 母一人、子一人で育ったシュリは、節約に対する情熱は人並み以上のものがある。高等部卒業と同時に就職したのは、少しでも親孝行がしたい一心からだった。
 恋よりお金に生きる、その信念のもと、今日も仕事に精を出すのだ。
 人気のない道を黙々と歩いていると、不意に横の茂みが左右に揺れ、視線を向ける。
 猫かタヌキでも紛れ込んだのかな、と思いながら様子を見守っていると、飛び出てきたのは人だった。

「シュリさん、おはようございます!」

 元気よく挨拶をするのは、ここの温室に通う男の子。
 目元まで伸びた前髪は、本当に前が見えているのかも怪しく、ボサボサの頭や服に葉っぱがついている。初等部と推定される身長よりも大きく、だぶついた服。生地や質はよさそうだが、いかせん袖の部分を何度も折り込んでいるため、服の価値が下がって見える。
 おしゃれに無関心のシュリでさえ、ちょっと目を覆いたくなる装いだ。

「……お、おはよう……」
「今日もお仕事がんばってくださいね!」

 言うやいなや、彼はそのまま走り去っていった。
 研究室は部外者が立ち入ることは禁止されているが、併設された温室は一部、民間人にも公開されている。温室にはここでしか栽培できない貴重な種子を保存しているため、珍しい花も数多く咲いている。その花を観賞する目的で、温室に来る人も多い。
 嵐のように去っていった彼もその一人だ。

(うーん。……今日も名前、聞きそびれちゃった)

 研究員は自分の身分を証明するため、所属とフルネームが書かれた名札を白衣の上からぶら下げている。シュリの名前は名札で知ったのだと思うが、彼の名前はいまだ謎のままだ。
 そして、どうしてシュリにだけ挨拶をしてくれるのかも。
 同じ研究室の同僚は、温室にしゃがみこむ彼を見かけ、声をかけたが無言のまま走り去ってしまったという。
 おそらく、彼は人付き合いが苦手なタイプなのだろう。シュリもただ同調するだけの無駄な付き合いは好まない性格なので、少しは気持ちも理解できるつもりだが、彼に好意をもたれる理由がまるで思い当たらない。

 実は、先ほどのやり取りは一ヶ月ほど前から続く。

 週に何度か、偶然出会った彼と挨拶だけ交わす、という妙な関係になっている。ただ困ったことに、気配なしに背後に立っていたり、物陰からいきなり顔を出したりと、神出鬼没なので毎回驚かされている。
 現れるなら、せめて普通に登場してほしい。最近の切実な悩みだ。

      ***

 朝のミーティングには見慣れぬ顔の男がいた。
 所長とともに現れた若い男は銀の短髪で、おとなしい研究員が多い部署に似合わず、ハキハキと喋る。

「本日より、植物再生研究室に配属されました。ブライアン・ガラントっていいます。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
「教育係はシュリが担当よ」
「……わかりました」

 しぶしぶ承諾すると、ブライアンが勢いよく頭を下げる。運動部特有の熱血気質に気後れしながらも口を開く。

「私がシュリよ。何かわからないことがあったら、遠慮なく聞いてね」

 初日では何がわからないかもわからないだろう、と思っていたら、ブライアンは待ってましたとばかりに瞳を光らせた。

「あ、じゃあ……ここって幽霊研究員がいるって聞いたんですけど……本当ですか?」

 幽霊というキーワードにびくりと肩が震えた。
 ホラー全般苦手なシュリは、それを悟られまいとゴホンと咳払いして背筋を伸ばす。
 虚勢も社会人のたしなみだ。

「……どこで聞いたの、そんな話。まあ、私も一度も会ったことがない研究員もいるけど……」

 言葉を濁すと、ブライアンは灰色の瞳を細めた。

「シュリ先輩って、ここに勤めて何年になるんですか?」
「……三年目になるけど」
「三年も働いていて会ったことがないって、普通あり得ませんよ。その人、実在している人なんですか?」

 興味津々といった風に顔をのぞき込まれ、シュリは及び腰になる。

「顔を見たことがないのは事実だけど、彼はちゃんと毎日来ているわよ」

 助け船を出したのは室長だ。
 その手元には勤務表の用紙が掲げられている。室長のすぐ下に書かれたフルネームには平日勤務のシフトが記載されている。
 植物の世話に休みはないため、シュリは土日に出る代わりに、平日に休みをもらっている。ちなみに名札の裏に入っている個人カードを読み込ませると、勤務時間が自動計算される仕組みだ。
 勤務時間の記録は室長のパソコンに自動転送されるので、彼女が来ていると言ったらそうなのだろう。

「室長も顔を知らないんですか?」
「ええ。私も名前だけしか知らないわ」
「それで、どうやって仕事をするんです? ここの研究員なんですよね?」

 彼の疑問はもっともだ。
 シュリも初めて勤務したときは疑問に思っていたが、彼が仕事をしている痕跡はあるので、見えないところで研究をしているのだろうと結論づけていた。

「彼は特別なの。夜中もこもって研究しているし、成果は上げているから。一人のほうがはかどるタイプなんじゃない? まあ、天才型ってやつかしら」
「へえ。世の中には知らないことがたくさんあるんですね」

 しみじみとつぶやくブライアンに、室長が神妙に頷く。

「まあ、そういうこと。この研究室に入ったのは、本人たっての希望だって聞いてはいるし。いつも気がついたら、机に成果物が提出されているのよね」
「えー! それって怖くありません?」
「……ブライアン。この世には知らないほうが幸せなこともあるのよ」

 暗にこの話題に触れてはいけないと諭して、室長は会話を締めくくった。

(私も会ってみたいけど、一度も会えていないのよね……)

 幽霊研究員と噂されているのは、ミハイル研究員のことだ。
 ミハイル・ヴェルディーク。ヴェルディーク伯爵家の三男坊で、数々の賞を総なめにした若き逸材。研究所の所長が熱心に勧誘して研究室入りをしたらしい。
 シュリが知っている情報はここまでだ。
 彼は複数の部署に籍を置いており、植物再生研究室の椅子に座った姿を見た者はいない。
 噂では、超がつくほどの美青年だとか、神経質そうな眼鏡男だとか、眼光が鋭い強面だとか、さまざまな憶測がされている。なぜなら、彼は人前には絶対に姿をさらさないからだ。授賞式でさえ、代理人が出席していた。
 言わば、彼の存在は、例外中の例外。ミーティングへの欠席も免除されているし、慰労会や送別会、大掃除にも顔を出さない。
 それなのに、彼の功績は毎年増え続けている。
 王立研究所の七不思議のひとつである。 

      ***

「元気になってよかったね……」

 シュリは温室の奥にひっそり咲いている、青い花を指先でつつく。小さな花びらは澄み切った空のように青々とし、ほのかにフルーティーな香りが漂う。
 この花は絶滅危惧種に指定されている太古の花で、平和の象徴にもされている。
 調査隊が山岳地帯に咲いていたのを採取してきたもので、温度管理されたガラスケースの中で栽培しているのだ。
 ガラスケースの上部にある空洞から吹き出た霧吹きにあてられ、花びらがさわさわと揺れる。
 その様子を見ながら、シュリは改めて安堵した。

 今から遡ること一ヶ月前、この花は一度枯れかけたことがある。

 室長に見てもらったけど、もう手遅れだと言われた。でも、どうしても諦められなくて。
 同じ研究室に籍を置くミハイル・ヴェルディークに助けを求めたのだった。
 ミーティングの後、シュリは彼のデスクに手紙を残した。
 いつ見るかもわからない。中身を確認せずに、捨てられるかもしれない。

 でも、もしかしたら。

 天才の手にかかれば、不可能なことでさえ可能になるかもしれない。
 そんな淡い期待と不安を抱えながら、お昼休みにお弁当箱を取りにロッカーの前に立つと、そこに手紙が挟まっていた。水色の手紙には、教科書のようにきれいな文字で「三日、時間がほしい」とだけ書かれていた。

 そして、三日後。奇跡は起きなかった。

 しかし、その数週間後、土だけになったガラスケースの中に小さな芽がひょっこり出ていた。調べると、止めたはずの灌水のローテーションがオンになっていた。
 じれったい数日を乗りこえた先には、あのときの花が小さく咲いていた。
 ミハイルにお礼の手紙を認めたけど、結局、今も返事は来ていない。

      ***

 朝の出勤時間、銀杏並木を通り過ぎたところで、くせっ毛が目立つ黒髪が見えた。地面に手をついてしゃがみこんだり、草木をかきわけたりしている小さな背に声をかける。

「……おはよう」
「わっ!」
「何か探し物? よかったら手伝うけど」

 協力を申し出ると、黒髪の少年は気まずそうに視線をそらした。

「で、でも悪いから……」
「気にしないで。出勤時間まで、まだ時間はあるし。二人で探したほうが早く見つかるかもしれないよ」
「えっと……名札を探していて。この温室に入る前に猫とじゃれていたら落としたみたいで」

 小さい指で、このくらいのサイズと教えてくれる。
 シュリの名札と同じくらいだ。
 彼の髪についた葉っぱを取りながら、うんうんと頷く。

「わかった。一緒に探そう」

 シュリが屈んで言うと、少年はお願いします、と小さい声で返した。
 それからまだ見ていないというエリアの庭木をシュリが担当し、木の枝に挟まっていないか注意深く見ていく。しばらくして、枝の中から太陽の光に反射した名札らしきものが目に入る。
 手を伸ばすと、そこには見慣れた名前が書かれていた。

(ミハイル先輩の名札……さすがに、これをあの子が落としたわけないだろうし)

 だけど、大事なものだから、きっと今ごろ困っているだろう。
 後で届けようと紐を名札にくくりつける。すると、後ろからはしゃいだ声がかかる。

「あ、見つけてくれたんだね。ありがとう!」

 無邪気な笑顔に、手にしたものをおずおずと見せる。

「もしかして、探し物ってこれ?」

 まさかと思いながら名前の欄を確認してもらうが、少年は笑顔のままだ。

「うん。これだよ!」
「……はい。どうぞ」
「いやーこれがないと、入れないドアが多くて困ってたんだよね」

 しみじみという声は本当に困っていたような響きがあり、シュリは内心首を傾げる。

「それは……君のお兄さんの持ち物?」
「え? 僕のだけど」
「で、でも。名札に書かれている名前は、ミハイル・ヴェルディークでしょ? ミハイル先輩は私の研究室に在籍していて……会ったことはないけど、年齢がもっと上のはずよ」

 身振り手振りで説明すると、少年はぱちくりと目を瞬かせる。
 悩むような間を置いて、ああ、と納得したよう声がもれた。

「そっか、そういうことか」
「……えっと?」

 一人で頷く彼に不可解な視線を送ると、少年は自分の胸に手を置く。

「僕が正真正銘、ミハイルだよ。大人に見えないって思ってる? それは当然だよ、僕はまだ子どもだもん。……見た目だけはね」
「どういうこと?」
「シュリさんは、僕の研究論文を読んだことはある?」
「ミハイル先輩の? 何度かあるけど……」
「みんな、子どもが書いたと知っていたら、きっと感想は違っていたんじゃないかな」

 すらすらと説明する様子に嘘をついている素振りはない。
 だけど、理解が追いつかない。

(今、この子はなんて言った……?)

 そんなことあるはずがない、と頭で否定するが、目の前の少年は大人びた笑みを浮かべる。今話したことが事実だとでも言うように。

「僕のプロフィールはほとんど公表していないんだ。なぜかわかる?」
「……わ、わからないわ……」
「それが世間のためだから」
「…………」

 いまだ事実を受け入れられない一方で、彼の言葉に納得してしまう自分もいた。
 新しい研究成果を発表する場合、まず誰が書いたか、が注目される。これまでの実績がある人ならば当然、皆がこぞって熟読する。反対に、無名の新人の場合、どうせ大したことがないだろうという先入観から見向きもされないことも多い。
 仮に、その研究者が子どもだったとしたら言語道断だ。
 義務教育を受けるべき子どもの研究結果など、たとえどんなに素晴らしくて簡単に受け入れられるわけがない。
 研究者はプライドを持って、この仕事に取り組んでいる。自分より年下の子どもが、自分では考えもつかない研究をして歴史を覆す結果を残すなんてこと、プライドが許さないのだ。
 もちろん、中には年齢にこだわらず、研究結果が素晴らしかったら認める人もいるだろう。けれど、そんなのは一握りだ。

「シュリさん、探してくれてありがとう」

 石像のようにフリーズしたシュリをその場において、ミハイルは軽やかな足取りで研究室の棟の入り口をくぐった。

      ***

「はあ。一体何がどうなっているのよ。あの子がミハイル先輩? 何の冗談なの……」

 大きな独り言をつきながら、定規を片手に温室の中を順番に見ていく。そして、測った長さを記録ボードに書き込んでいく。
 ブライアンにはデータの集計を頼んである。今ごろ、パソコンの前でグラフデータと格闘しているはずだ。

「ねえねえ」
「……うわぁ! はっ!?」
「よかった、やっと気づいてくれた」

 白衣を着たミハイルが白い歯を見せて笑う。
 子ども特有の笑みに一瞬呆けて、驚きや戸惑いが薄れる。

「……って、どこから来たの!?」
「種明かしはこれだよ」
「布……?」

 肘にかけてある灰色の布は毛布ぐらいの大きさで、子どもの体には少し大きい。ミハイルは慣れた様子でそれを両手で広げ、よいしょ、と肩に羽織る。

「これを被ると……ほら」
「!??」

 毛布が頭を覆ったと思ったら、彼の姿が消えた。
 目をゴシゴシとこするが、さっきまであったミハイルの姿形がない。
 一体どこに……と思ったところで、毛布を脱いだ彼の姿が目の前に現れる。

「……えええええ!」
「どう? 驚いた?」
「……驚き……ました……」

 幻覚の一種だろうか。呆然と答えると、悪戯が成功したみたいな笑顔と目が合う。

「そう? よかった」
「……いや、よくないから! なにあれ? 一体何が起きたのっ」

 興奮して詰め寄ると、ミハイルはわずかに後退した。

「お、落ち着いて。はい、息をいっぱい吸って、吐いて。また吸って、吐いてー」
「…………」
「落ち着いた?」
「……さっきのは夢?」
「いや、現実」

 ばっさりと切り捨てられて、うらみがましく見つめてしまう。
 ミハイルは悪気のない笑顔で言葉を続ける。

「僕、実は毎朝ミーティングに出ていたんだよね。シュリさんの後に部屋に入っていってたんだけど、気づいてなかった?」
「いやいや、気づくわけがないでしょ! 見えないように隠れていたんじゃ!」
「……そっか」

 心なしか残念そうに言われて、気づかなかった自分が悪いのか?と疑問に思ってくる。一方のミハイルはすぐに立ち直ったらしく、毛布を折りたたみながら説明を始めた。

「あ、ちなみにこの『隠れ蓑』については、室長は知っているよ。もちろん、僕がミーティングに出席していたこともね」
「……どうして、室長は教えてくれなかったの……」
「それは僕が口止めしてたからだよ。これが知られたら、身動きが取りにくくなっちゃうし」

 どういうことだ、と視線で問うと、ミハイルは肩をすくめてみせる。

「実はさ。これを使うことを承諾する代わりに、研究所の所長と取り引きを交わしていてね」
「……取り引き? 所長と?」
「うん。最先端の研究のため、研究所には莫大な国家予算が組まれている。だけどね、中には、それを私利私欲に使う人もいるわけだよ。僕が複数の部署に籍を置いている理由には、それも含まれている。内部告発用の諜報員って感じかな?」
「……そうだったの……」

 上層部がすでに認識して許可しているのであれば、シュリがとやかく言う権利はない。
 知らず落ち込んでいると、ミハイルが焦ったように言葉を足した。

「まあ、最近は君を専ら観察していたわけだけど」
「……は?」
「シュリさんを一ヶ月間観察していて、気づいたことがあるんだけど。発表してもいい?」
「いやいや。ちょっと待って!? 観察ってどういうこと!? 一ヶ月間!?」
「そこに反応するんだ……」

 目を細められ、取り乱した自分が恥ずかしくなってくる。

(私のほうが大人なんだから、ここは落ち着いて……大人らしさを見せつけないと)

 意気込むシュリをからかうように、ミハイルが一歩近づく。

「そもそも、僕は他人に興味がないし、興味も持たれたくないんだよね。人並みにコミュニケーションはできるけど、わずらわしい人間関係に振り回されるのは真っ平だから、会話が苦手なフリをしていたんだ」

 思い当たる節があるので黙ると、ミハイルがさらに一歩距離を縮めてくる。
 ルビーのような赤い瞳に見上げられ、シュリはどこかに身を隠したくなった。このまま聞いていると逃げられない予感がしたから。

「でも、シュリさんは違った」
「……どういうこと?」
「僕の肩書きなんてどうでもよくて。植物のことが、仕事が、好きな人間だよね。シュリさんみたいなタイプは初めてだった。だから逆に興味を持った。……君に頼まれた青い花を生き返らせた後、僕の机をしきりに気にしていたよね」
「あ、あれは……」

 目線を上げると、いつの間にか、間近まで距離が縮まっていた。
 その事実に息をのむと、ミハイルがたたみかけるように言う。

「返事を待ってくれていたんだよね?」
「…………気づいてて、ずっと放っておくのはどうかと思います」
「ごめんね。今まで、女性から好意をもらうのは面倒事に巻き込まれるだけだったから、警戒していたんだ。だから君の意図を推し量るためにも観察していたんだ」

 ミハイルはこの王立研究所の期待の星だ。
 一時、彼を巡って誰が彼のハートを射止められるか、熱烈な競争があった。自分より大人の女性の醜い争いを見て、恋愛事に辟易するのは自然なことだと思う。

「というか、シュリさんは僕を同じ研究員だと思っていなかったでしょ? 僕も朝は挨拶するので精一杯だったし。スマートに挨拶しようと練習していたのに、いつもシュリさんが現れると予行練習なんて全部頭から吹き飛んでしまうし……」

 ミハイルは恥ずかしそうに視線をそらし、どことなく耳の上部も赤く見える。
 年相応の反応に、なぜかシュリまで気恥ずかしくなる。
 気まずい沈黙が漂ったが、ミハイルは開き直ったようにシュリと視線を合わせる。

「挨拶した後、いつも呆気にとられていたみたいだけど、そんな姿も魅力的だと思ったんだ。……シュリさん、僕は君が好きみたいだ」
「…………え?」
「僕が観察するに、シュリさんも『ミハイル先輩』が気になっていたようだけど。幸運なことに、僕がそのミハイルだし。つまり、僕たちは両思いってことだよね」
「いやいやいや、ちょっと待とう!」

 熱弁にストップをかけられたことで、ミハイルは不服そうに口を尖らせた。

「何か反論意見が?」
「確かに、私はミハイル先輩に会ってみたいと思っていました。でも恋の対象としてではなく、職場の先輩に対する単なる憧れです!」
「……うん? 僕の聞き間違いかな……」

 こめかみを押さえ、ミハイルは信じられない様子でよろめいた。
 これはもう一息だと、シュリは拳を握った。過ちは正さなければならない。

「憧れと恋は別物なので! つまり、先輩の一方的な片思いってことです!」
「……なんだって……?」
「私たちは両思いでも何でもありません。ただの先輩と後輩です」
「……両思いでは……ない?」
「そうです」
「本当の本当に?」
「だから、さっきからそう言って……」

 言い終わる前に左手を取られる。必死な顔で、両手で握りしめられた。

「わかった。じゃあ、共同研究はどう!? 今、取りかかっている研究を共同名義で発表しよう。そうしたら、君の名前も一躍有名に……」
「ばかにしないでください! 人の手柄を自分のものにするなんて、研究者の風上に置けない真似、できるわけないでしょう!」
「え、え、でも……」

 なおも言い募ろうとする気配に、シュリの堪忍袋の緒が切れた。

「やだもう、信じらんない! あなたなんか、好きじゃありません!」
「えっ……!?」
「好きだったのかもしれないけど、たった今、嫌いになりました!」
「……え、これ、何の冗談?」

 呆然としたつぶやきに意識を現実に戻し、シュリは早口でまくしたてる。

「も、もう関わらないでください!」

 顔から火が噴きそうになり、くるりと踵を返す。
 ショックを受けた顔がかわいいと思ってしまうなんて、自分はどうしてしまったのだろう。

(こんな、あどけない顔で立ち尽くす子ども相手に? あり得ない……あり得ないから!)

 これ以上の会話なんて無理だ。そう悟ったシュリは脱兎のごとく、その場から逃げ出した。

「シュリさんってば、待ってよ!」

 後ろから追いかけてくる気配がするが、走るスピードをさらに速くした。
 いくら精神年齢が高かろうと、彼の身長はシュリよりだいぶ低い。しかも根っからの研究者ということもあり、ミハイルは体力がないはずだ。
 案の定、食堂裏を通り過ぎたときには、その影は完全に見えなくなっていた。
 けれども、つかまる危険性がなくなったのに、シュリの足は止まらない。目的もなく、ただ突っ走る。

(もうもうもう……! どこの世界に、無自覚だった恋心を暴かれて喜ぶ女性がいるの……!?)

 この憤りは簡単に収まるはずがない。
 それに何より、自分より年下の男の子に心の鐘を鳴らされたことに、気持ちが追いつかなかった。

      ***

 翌日の朝、ミハイルと出会うことはなかった。誰ともすれ違うことなく、研究棟に入る。

(ひょっとしなくとも、避けられているのかな……)

 そう思うと、足取りが自然と重くなった。
 温室の植物に異常がないかをチェックして、植物再生研究室に向かう。

「おはようございます」

 ドアノブを開けると、室長と目が合った。

「おはよう、シュリ。今日は疲れた顔ね。ちゃんと寝てるの?」
「……ええ、まあ」
「睡眠はお肌の天敵よー?」

 室長のアドバイスに曖昧に頷きながら、自分のデスクに向かう。
 ちらりと自分の横のデスクを見るが、いつもと同じく、そこには誰もいない。

(避けられているってことは……ミーティングも欠席……なのかな)

 どのみち、シュリには姿は見えないので確認のしようもないのだが。
 パソコンの電源をつけて起動するのを待っている間、筆記用具を取り出そうと、デスクの一番上の引き出しを開ける。
 そこには、半分に折りたたまれた手紙が一枚、ペンの上に置かれていた。
 シュリは震える手で手紙を取り出し、中身を開く。罫線の上には、手本のような几帳面な文字が並んでいた。

 昨日は怒らせるようなことをしてごめんなさい。もうしません。改めて、シュリさんが好きです。返事を待っています。――ミハイル・ヴェルディーク

(……もう。仕方ないなぁ)

 駆け引きもない、素直な文面にシュリは頬をゆるませた。
 デスクの引き出しを開き、ひまわりが描かれたメッセージカードを出す。ポイントカードと同じサイズなので、書ける文字数は限られている。
 手紙の相手は職場の先輩であり、年下の男の子。
 年齢の差はどうしたって埋められない。長期戦も覚悟の上だ。彼が大人になるまで待てばいい。
 むしろ、この暴れる心臓の平穏を取り戻すには、数年ぐらい待つほうがちょうどいい。適度な距離を保ちながら、この恋心をゆっくり育んでいこう。

 だって、この恋は始まったばかりなのだから。
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