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挿話 神原奏太の災難

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 篠崎先輩がよたよたと店の外に出ていくのを見送りながら、僕は機嫌よくトングを打ち鳴らしていた。

 これは、「今からお前を食ってやる」という肉たちへの威嚇である。
 頃合いを見て食材を裏返していると、ばさりと暖簾がめくられる音がした。

「ああ、おかえりなさ……」

 顔を上げて硬直する。絶対ここにいてはいけない人が目の前に立っていたからだ。

「おやおや、そこにいるのは私の誘いを断った神原君じゃないか」
「え⁉︎ つ、月島さん、どうしてここに!」

 制止する間もなく、月島さんは篠崎先輩が座っていた席へと腰かける。
 その上、当然のように日本酒まで注文し始めた。このまま居座るつもりなのだろうか。申し訳ないけれど、頼むから篠崎先輩が戻ってくる前にどこかへ行って欲しかった。

「月島さん、その節は悪かったんですけど……それより、今日は篠崎先輩と一緒に来てるんですよ」

 だからさっさと隠れてくれ、そう続くはずだった言葉はしれっと流された。。

「知っているよ。だから来たんだ」
「ど、どうしてですか……!」

 とんでもない答えに声が裏返る。なんで仲が悪いのにわざわざ近付いてくるのだろうか。喧嘩を売りに来たとしても、僕のいない時にやって欲しかった。

「どうしても君に聞いておきたいことがあってね」
「何ですか?」
「君は、篠崎君のことをどう思っている?」

 とても抽象的な質問だ。
 しばし悩んで、とりあえず当たり障りない回答をすることに決める。

「どうって……一番お世話になってる先輩ですし、感謝してますけど」
「他には?」
「あー、仕事が出来て尊敬してますし、憧れてもいますね」
「それから?」
「えっ……あとは、意外と優しいのに誤解されてるとか、素直じゃない人だな、とかですかね……?」

 思わぬ食い下がりように驚きつつも答えを捻り出すが、月島さんは僕の答えに満足していない様子だった。更に悩んでいると、日本酒のグラスが届けられる。

 月島さんはそれを一瞥してから少し目を閉じると、硬い声で問いを重ねた。

「……単刀直入に聞こうか。篠崎君のことは好きかね?」
「そりゃもちろん、好きか嫌いかで言えば好きですよ。ですから、月島さんに付くつもりはありませんからね」

 やや敵意を込めて月島さんを見据えるが、どうにも話が食い違っているような気がしてならなかった。一体何が聞きたいのだろう。
 悶々と一人で悩んでいると、静かに爆弾が投げ込まれた。


「そこに恋愛感情は、あるかね?」


 言われた言葉の意味が理解出来ず、一瞬固まる。
 恋愛感情? 僕と、篠崎先輩の間に?
 思わず篠崎先輩と付き合った未来を想像してしまい恐ろしくなる。
 満面の笑みで僕と手を繋いで歩く篠崎先輩。……絶対に何か企んでいるとしか思えない光景である。

「いやいやいや、ある訳ないじゃないですか。僕は可愛くて守ってあげたくなるような女の子が好みなんです。殺しても死ななさそうな恐ろしい男性は守備範囲外ですよ! それ以上に、篠崎先輩はそういう意味で好きになるにはやや人間性に問題があるよう、な……」

 はた、と。そこまで言ってから固まる。あり得ない想像が頭に浮かんで仕方がなかった。

「……も、もしかして」
「その、まさかだ。私はね、篠崎君のことを好いているのだよ」
「いや、考え直した方がいいんじゃないですか」

 驚きよりも心配が上回り、思わず真面目に諭してしまった。『あばたもえくぼ』という言葉もあるが、篠崎先輩はそんなに可愛いものじゃないと思う。
 月島さん自身も、「そうなんだが……」と頭を抱えているところを見ると、思い当る節はあるらしい。

 恋に盲目になっていると言うのなら、一発殴って目を覚まさせてあげるのが優しさだろうか。早く正気に返った方がみんな幸せになれると思うのだけれども。

「それで、なんで僕にそんな話をするんですか」
「君にはこちらの事情を正確に伝えた上で、改めて協力を求めたいと思ってね」
「協力とは、具体的にどのような?」
「些細なことだ。篠崎君がよく行くところや、好物なんかを教えてくれると助かる」
「うーん、それくらいなら……いやでも、篠崎先輩を売ってる気分になるしなぁ」

 別に悪くないような気もしたが、篠崎先輩があれだけ月島さんを嫌っている手前、月島さんと友好関係を結ぶことは憚られた。それに、うっかり話した内容が原因で、篠崎先輩が不利益を被るようなことは絶対に避けたい。
 そんな僕の葛藤が月島さんにも伝わったのだろう、ふっと軽い笑い声が上がった。

「随分疑われているようだが、悪用のしようもない情報じゃないか。考えておいてくれると助かる。そういえば、彼はこの酒が好きらしいね。そんな取り留めも無いことだよ、私が知りたいのは」

 月島さんは開きっぱなしのメニュー表に目を止めると、一番でかでかと取り上げられている酒を指差した。よく聞く銘柄だが、篠崎先輩が頼んでいた記憶は無い。不思議に思いつつも、何の気なしに訂正する。

「いいえ? 先輩が愛飲してるのはこっちの辛口のヤツですよ」
「……そうだったか」

 僕が指摘すると、月島さんは少しばかり声のトーンを落として呟いた。メニュー表を指でなぞりながら、心なしか落ち込んでいるように見える。

「やはり、一番篠崎君のことを知っているのは君のようだ。私も、ただ彼の傍にあれたらいいのだが……随分嫌われているみたいだからね」
「月島さん……」

 長い睫毛をそっと伏せた月島さんの目は、微かに潤んでいた。まさか『天敵』の片割れが、こんなに切ない思いを秘めていたとは。

「せめて、彼のことが知りたいんだ。好かれなくてもいい、でも、嫌われるのは辛い。ほんの少し、君の気が向いた時で構わない、助力してはもらえないか?」
「僕、は……」

 心が揺れ動くのを感じる。
 それでも僕には、どうしても篠崎先輩を裏切る真似はできなかった。

「僕には、やっぱりできません!」
「——ふむ、そうか残念だ。君は泣き落としに弱いタイプだと思ったのだがね」
「はい……?」

 断りを述べた瞬間、月島さんの雰囲気がガラッと変わった。先ほどまでのしおらしさは何処へかなぐり捨てたのか、いつもの悠々とした微笑を浮かべている。

 騙された——そう気づくのにさほど時間は要らなかった。

 一体どこからが嘘だったのだろう。開いた口が塞がらないままでいる僕を余所に、月島さんは店員を呼びつける。

「すいませんが、こちらの銘柄を瓶でいただけますか?」

 それは、先ほど僕が漏らした篠崎先輩の好きな日本酒だった。

「まさか……」
「ああ、そういえば礼が遅れていたね。有益な情報をありがとう、神原君」

 悪びれもせず礼を述べる月島さんを見て、いつか篠崎先輩が言った言葉を思い出す。議論でもすればすぐに性根の悪さが分かると。なるほど、今はその言葉に同意しかない。

 遠い目になる僕を肴に、月島さんはグラスを傾けていた。
 それは月島さんが頼んでいた日本酒ではなく、篠崎先輩が飲み残していった梅酒の方ではないかと思ったが、指摘するだけの気力は残されていなかった。

「月島さん……案外、篠崎先輩とイイ線いくかもしれませんね」
「ほう、どうしてそう思う?」
「絶対同族ですもん。性根の曲がり方が一緒です」

 月島さんは嫌味を受けて楽しそうに笑うと、それこそ篠崎先輩そっくりな不敵な笑みを浮かべた。

「それは光栄だ」

 もうどうにでもなってくれ。
 僕は心の中で匙を投げると、これから起きるだろう嵐を思って溜息を吐いた。
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