相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~

柊 千鶴

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35 完璧な虚構

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 物心ついた時から、既に私の心は冷めきっていた。

「亮介。常に冷静で、理性的な人間になりなさい」

 感情に流されることは愚かだと父に教えられ、心が荒れる度に目を瞑り、瞼の裏で衝動を殺して生きてきた。聞き分けのいい、自慢の息子を演じるために。
 削ってきたのは感情だけではない、欲もだ。

「お兄ちゃんのおもちゃが欲しい」
「譲ってあげなさい、亮くんは、お兄ちゃんでしょう?」

 何でも人の物を欲しがる弟に全てを譲ってきた。
 手に入れれば奪われるという繰り返しに疲れて、求めることを諦めてしまっても尚、喧嘩一つしなかった。弟の模範となる、出来た兄を演じるために。

 そうして自分を殺してきたものだから、感情のままに生きる同級生たちが幼く見えた。
 誰も自分とは釣り合わないと思っていた。
 実際、勉強も運動も、対等に競い合えるような人間はいなかった。自慢ではなく、ただ事実として、私は恵まれていた。家柄にも容姿にも才能にも。

 他人は、私を見て将来有望だと言った。
 けれども、私は、自分の人生に早々に見切りをつけていた。


「つまらない、人生だな」


 このままずっと、苦労も達成感も無く、渇望も満足もせず、機械の様に常に正しく平坦で安寧とした人生を送るのだろうと。
 そんな私を「羨ましい」と言う者もいた。

 本当にそうだろうか。
 いつしか頂点にいることが当たり前となり、一つの失敗で失望される恐怖を。
 完璧を求められ、一つの弱みも見せられない息苦しさを。
 隣で並び立つ人間が一人も居ない虚しさを感じても、そう言うのだろうか。

「嫌、だな」

 そんな自分を変えようと思ったこともある。
 冷え切った心の上に、人当たりのいい男の仮面を張り付けた私の姿を見抜いた、唯一の女性。彼女と付き合えば、自分も変われるかもしれないと、愚かな勘違いをした。
 当時は恋人らしいこともして、私なりに愛そうと努力していた。
 けれどもその試みは、一年と持たず失敗に終わる。

「私じゃ、駄目だったみたい。いつか月島君にも、本当に好きな人が出来るといいね」

 最後に彼女の涙を見て悟った。
 その涙に罪悪感は生まれても、終ぞ愛情は芽生えなかったことを。

 ……自分の冷血さにぞっとした。
 愛を囁かれ、共に過ごし、肌の熱を分かち合ったというのに、私の心は未だ冷え切ったままである。きっとこの身体では、心臓が脈打つ代わりに歯車が回っているのだと、ありもしない空想すら浮かべた。
 余計なものを削ぎ落し続けてきた結果、気付いた時には自分の中は空っぽになっていた。

 けれども。
 こんな欠落した人間を、他人は完璧と呼ぶ。

「うちの亮介は何でも出来るのよ」
「お前は何事にも動じない自慢の息子だ」
「兄貴は失敗なんてしないんだろうな」

 幼い頃から家族にかけられてきた期待という名の呪い。
 未だにそれに縛られて、自室で一人、ネクタイに苦戦しながら愚痴る。

「こんな不器用な男の、どこが完璧なのだろうな」

 ネクタイを結ぶのが苦手だと、そんなことも言い出せなかった。
 私にだって不得手なことがある。苦手なものがある。押し殺して生きてきただけだ。
 私は、何でも出来る息子で、将来有望な月島家の長男で、弟の模範となる正しい兄でなければならなかったから。
 本当の自分なんて、ただの見栄張りで空虚な男でしかないのに。

「……よし」

 鏡の前で、もう一度身支度を確認する。
 やっと真っ直ぐ結ぶことのできたネクタイを身に着けた鏡の中の男は、いつも通り自信たっぷりの薄ら笑いを浮かべた『月島亮介』だった。
 鏡に映る男に向かって頷いて、自室の外へと出る。
 既に両親は仕事に向かい、リビングには弟の玲二だけが残っていた。
 弟は、入ってきた私には目もくれず、怠けた格好でテレビを眺めている。

「玲二、大学はどうした」
「……」
「また休みか? いい加減にしないと卒業できなくなるぞ」
「……」

 もう幾度目か分からなくなるほど繰り返した台詞だ。玲二の方もいつも通り、聞こえない振りをしている。
 まるで私の姿など見えていないかのように、視線すら寄越さない。

 溜息が零れる。
 玲二のことは、仕事で家を空けがちな両親に代わってよく見てきたつもりだった。それなのに、どうしてこんな関係になってしまったのだろうか。
 昔から、あまり仲の良い兄弟とは言い難かったが、私が高校を卒業する頃には、兄弟間の亀裂は修復不可能な域にまで至っていた。
 もう、ろくに口をきかなくなって久しい。
 最後に聞いた言葉は、「どうせ兄貴には俺の気持ちなんて分からない」だっただろうか。

「……行ってくる」
「……」

 結局、今日も言葉を交わすことはないまま、私は玄関の扉を開けた。
 入社式へと向かうために。

 ◆

「よう亮介、弊社にようこそ。これから同僚としてよろしくな」

 今日から勤め始める会社の門をくぐったところで、聞き慣れた声に迎えられた。
 少しくたびれたスーツに身を包んだ男は、柔和な笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 猫宮和樹。彼は、私が唯一弱さを見せられる旧友だ。友というよりは、兄と言った方が近いかもしれないが。
 実際、昔は「カズ兄」と呼んで彼のことを慕っていた。
 年の離れた幼馴染であるカズは面倒見がよく、誰にも頼れなかった私の話をよく聞いて、世話を焼いてくれた。
 当時、同年代の子ども達の中では浮いていた私も、カズの隣は心地よく感じていた。年上のカズになら、負けても、劣っても、縋っても許される。そんな身勝手な理由で。

「カズ兄……ごほん。カズ、わざわざ来てくれたのか」
「あれ、遠慮しないでカズ兄って呼んでくれていいんだぞ?」
「いや、以後絶対に口が滑らないよう気を付ける」
「寂しいなぁ」

 おどけて笑う姿は、昔から変わらない。
 釣られて笑みを浮かべながら、私はカズと共に入社式の会場へと向かった。

「お前も晴れて新社会人か、早いもんだな」
「それを言うならカズだって、来年には子どもが幼稚園に入るのだろう? 私としてはそちらの方が驚きだ」
「そうなんだよ、子どもの成長って早くてな。この歳になると涙腺が脆くて、すぐ泣きそうになっていけないな」

 本当に薄っすらと涙を浮かべているカズは、生暖かい目で私を見つめている。

「何故そんな目で私を……まさか、私まで『子ども』の一人として数えているのではあるまいな」
「似たようなもんだろ?」
「む……」

 ここまでしれっと子ども扱いされては立つ瀬がない。
 今まで散々世話を焼かれてきたのだから、仕方のないことかもしれないが。
 その後もしみじみと時の流れの速さを嘆いていたカズは、会議室の前に着いたところで最後に気になる話を残していった。

「それじゃあ、新人代表の挨拶頑張れよ!」
「? なんだ、それは」

 聞き覚えのない話に首を傾げると、カズは心底驚いた表情で肩を揺らした。
 そしてすぐに、気まずそうに視線を逸らす。
 無言で話を促すと、彼はやや縮こまりながら言った。

「いや……うちでは毎年、その年で最も優秀な新人が入社式で挨拶をする慣例があるんだよ。俺はてっきりお前が選ばれたと思っていたんだが」
「……!」

 カズの言葉に思わず目を丸くする。
 その話が本当なら、この扉の向こうには私よりも優秀な何者かが居るという訳だ。
 衝撃を隠し切れない私に、カズは慰めの言葉をかけるが、それは見当違いだった。

 私は、僅かにではあるが――高揚していた。
 同年代の人間に負かされるなんてこれが初めてだったからだ。
 久しく忘れていた感情……悔しさが、微かに心を揺らす。

「それは……早く、会ってみたいものだな。その代表を務める人物に」
「……なんだ、珍しく楽しそうじゃないか」

 喜色が滲む私の声に、カズが意外そうな顔つきになる。
 私は待ちきれない思いで会議室の扉を見つめながら呟いた。

「柄にもなく、少しだけ……ほんの少しだけ、期待している」
「そう、か。じゃあ、また入社式でな」
「ああ」

 軽く片手を上げてカズと別れ、私は会議室へと足を踏み入れた。
 中には既に数名の男女が集まっており、皆一様に硬い表情を浮かべている。これから、新社会人として全く新しい環境に身を置くのだ、緊張するのも無理はないだろう。

 どこか他人事のように考えながら、自分の名前が書かれた席につく。
 配布された資料に目を通すと。今日はほとんど事前説明や入社手続きだけで一日が終わるようだ。
 やがて始業を告げる鐘の音が鳴り、次第通りオリエンテーションが進行され、同期となる仲間たちの自己紹介が始まる。  
 それを聞きながら、私は何の感慨も湧かない自分の心を俯瞰していた。
 緊張も恐れもない、凪いだ心境だった。
 彼の姿を見るまでは。

 「人材育成担当、篠崎聡です。よろしくお願いします」

 愛想の欠片もない声が響き、少し興味を惹かれて顔を上げる。
 やや離れた位置に立っていた男は、紺色のスーツに身を包み刺々しい雰囲気を纏っていた。
 それが、初めて彼――篠崎聡の姿を見た瞬間である。

 その時、私は根拠もなく直感した。この男は、私の脅威になると。

 一瞬早まった鼓動は、彼が席に着いたことですぐに落ち着きを取り戻していく。
 彼は悠然と腕を組んで、興味なさげに他の同期の自己紹介を聞き流していた。
 何でもない仕草だ。
 けれども、その尊大な態度も、荒々しい所作も、孤高を貫こうとする有り様も、何もかもが私の心を刺激してささくれ立たせていった。

「経営企画担当、月島亮介です。至らぬ点も多いと思いますが、これからよろしくお願いします」

 やっと回ってきた自分の番に立ち上がり、愛想笑いを浮かべながら全体を見渡す。
 最後に彼の方へ目をやると、こちらをきつく睨みつけていた釣り目と鉢合わせた。
 私の顔を見た篠崎が、綺麗な顔をごく僅かに歪ませてすぐに視線を外す。

 どうやら向こうも、こちらと同じ感想を抱いたようである。
 一言も交わさないうちに互いを『天敵』と認識した私たちは、いずれ遠くないうちに自分の認識が正しかったことを思い知るのだが……この時の私は知る由も無かった。

「それでは、これから入社式の会場に移動しますのでついてきて下さい」

 やがて、入社式が始まる時刻が迫り、人事の引率で講堂へと移った私たちは、先輩職員の視線に晒されながら式が始まるのを待っていた。
 間もなく壇上のライトが強まり、司会進行役が入社式の開始を告げる。
 代表取締役を始めとする数人の挨拶が終わると、一人の男の名前が呼ばれ、その者が新人職員の列から抜け出して会場の視線を一身に集めた。
 紺色のスーツを纏った男は、しっかりと背筋を伸ばしてマイクに歩み寄り、凛とした声を会場中に響かせた。

(まさか彼が、新人代表だったとは)

 先ほど気にかかった男。
 篠崎は、大衆の視線に臆することなく弁舌をふるっていた。
 上役を含む大勢の職員が、彼の一挙手一投足に注目している。そんな状況で、つい先日まで学生だった人間がこれほど堂々と振舞えるとは素直に驚きだった。
 さすがは新人代表と、そう言うべきなのだろうか。

 ……悔しい。
 そう思う自分に驚きだった。
 すっかり競争意識なんて失くしたと思っていたが、それは間違いだったようだ。競い合える好敵手がおらず、忘れていただけだった。

 彼と、競い合ってみたい。
 そう強く願いを抱いて、続く新人研修ではディベートの代表者として立候補した。
 与えられた議題を元に彼と意見を戦わせた結果は――


 僅差で、私の負けだった。
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