病弱皇子と食欲おばけの女〜即位までのいばら道

日々妄想

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北の風、密約の夜

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 黎翔は夜明け前の空を仰いでいた。
 灰色の雲が北へ流れ、風は冷たく、山脈の向こうに北の国、長年、王国と緊張関係を続ける隣国の影が見えた。

「今日も、凍えるほど静かだな」
 誰にともなく呟いた息が白く散る。
 北境の砦を抜け、さらに奥へ。
 黎翔は十人の近衛だけを連れ、極秘の旅を続けていた。
 目的は一つ、北の国の第七王子と会うこと。

 今、南北両国の宮廷は腐りきっている。
 権力者は宴と金に溺れ、兄弟同士が玉座を奪い合う。
 黎翔はその腐敗の連鎖を断ち切るため、動き始めていた。

 北の第七王子・ユリウス。
 聡明で、民の信を集める人物だ。
 だが、第一王子には“目障りな理想主義者”と見なされ、策略で霧族の住む国境へ追放された。

 霧族。
 白い霧に包まれた山岳地帯に根を下ろす少数民族。
  彼らは王都から“野蛮”と蔑まれてきた。
  だが王家が軽んじないのには、確かな理由があった。

 ──彼らは、毒を使う。

 かつて、王都で統制の声が上がり、使節団を送り込んだことがある。
 結果、戻った者はいなかった。
 それでも王は諦めず、次に討伐軍を出した。
 五千の兵を霧族へと送り、山々に火を放ち、村を焼いた。
 だが、霧の中で見たのは許しを乞う姿ではなく、息を呑むほど静かな死だった。
 翌朝、王都に戻ったのは報告書ではなく――風に乗った臭気だけ。
 兵は全滅。残された野営地では、毒虫が人骨を喰い荒らしていたという。
 死体は蟲毒のえさに使われ、命ある者は“毒の器”として生かされた。

 それ以来、王都は霧族を避けた。
 誰も踏み込まない。
 そこは“帰らぬ地”と呼ばれるようになった。

 そんな地にユリウスは躊躇なく土足で踏み入れ、彼らに農作物と建築の知恵を渡した。
 彼の大胆な行動と誠実さは、やがて霧族の心を溶かしていった。

 黎翔はそんな彼と「互いの毒を除く」密約を交わすため、北の国の古城へ向かった。
 月光の滲む石壁の下、黎翔を迎えたのは銀髪に氷の瞳を持つ青年だった。

「久しいな、南の“病弱皇子”殿」
「久しいな、北の乞食王子殿」

 二人は微笑み合うが、その笑顔の奥には計算が潜んでいた。
 卓上に広げられた地図には、赤線で戦火の予兆が描かれている。

 ユリウスが静かに言った。
「第一王子は我が国の毒だ。民を犠牲にしてでも他国との開戦を望む。」
地図には、国境線近くの霧族の集落がいくつも記されていた。
 ユリウスはその一つを指でなぞりながら、重く息を吐く。

「霧族を……南の国、そちらにぶつけるつもりらしい。“人間兵器”としてな。」
「霧族は、決して侮れない。彼らは代々、毒を操り生きる民だ。王都は“野蛮”と呼んで軽んじてきたが、それでも誰も手を出さないのは理由がある。」

 彼の瞳には、かつての惨状が映るようだった。

「霧族は、いざという時、一族まるごと敵を道連れにする覚悟を持っている。」
「私は……戦を避けたい。刃を交えるより、畑を耕し、病を癒やし、明日を笑って生きる暮らしを与えたい。武力ではなく、心で結ばれた絆を作りたい。」

 一瞬、遠い夜風が吹き込む。
 揺れる燭火に、ユリウスの横顔が照らされた。

 黎翔は頷いた。
「我が国も同じだ。毒は“第一皇子”。……互いに除こう」
 盃が交わされた。
 中身は酒と硬い決意。

「北の軍を貸せ。代わりに、晩餐会で第一王子を葬る」
「取引成立だ。必ず、首を取ってこい」

 外では風が唸り、黎翔は馬に戻る。
 政権交代とはいつも血の儀式だ。悲しいが、変わらない歴史だ。
 杯をあおったとき、黎翔の胸に浮かんだのは一人の女の顔だった。

 梅。
 愚直で、まっすぐで、あまりにも人間らしい女。

 その夜、黎翔は北境にある野営地へ戻った。
 焚き火の光が幕舎の布を揺らしている。
 考え事をしていた彼のもとに、控えめな声がした。
「殿下、薬湯をお持ちしました」
 梅が入ってきた。
 指先はかじかみ、頬は赤い。木の器を両手で抱えている。
「お前、まだ寝てないのか」
「殿下、ご飯もお水も摂ってないって聞いたんです。体を壊したら困ります」
 黎翔はため息をつき、火のそばに彼女を座らせた。

「戦争が始まったら、怖いと思うか?」
「…戦争が始まったら、きっと孤児が増えます。」

 梅は焚き火の光を見つめながら、ぽつりと言った。
「殿下、知ってますか?」
「わたし、殿下に会って初めて、“お腹いっぱいに食べられる幸せ”ってものを知ったんです」

 黎翔は静かに顔を上げる。
 梅は笑っていた。けれど、その笑みの奥には、どこか切ない影があった。
「ほら、私ってよく食べるじゃないですか!最初はそれが可愛いって言われて、ちやほやされるんです。でも結局は、最後には“ごくつぶし”って言われて、捨てられるんです。」
 声は明るいのに、焚き火の音がやけに寂しく響いた。
「捨てられないように我慢してても、お腹は空くんです。」

「でも……殿下は違いました」
 梅はそっと顔を上げる。揺れる火の明かりが、その瞳に宿った。
「殿下は、私の救世主です。あのとき、拾ってくれて、本当にありがとうございます」

 その言葉に、黎翔は何も言えなかった。
 焚き火の火がはぜ、夜風がふたりの間をすり抜けていく。

「でもね……」
「みんなが、私みたいに運良く殿下みたいな人に出会えるわけじゃないんです。」
「だから、孤児が増えるのは悲しい。」
「戦争で誰かが泣くのは、もっと怖いんです」
 黎翔の胸の奥が、静かに軋んだ。
 言葉の一つひとつが、まるで矢のように刺さってくる。

 梅は薬湯を差し出した。
 黎翔はそれを受け取り、口をつけた。苦味が広がる。
 そして静かに呟いた。

「民のために、父上を見殺しにして、兄上を失脚させる」

 梅の手が止まる。
「どういう意味ですか」
 黎翔は答えず、火を見つめた。

 やがて淡々と語り出す。
「父上は、王なんかじゃない。ただの女好きの怠け者だ。」
「若い頃から女と賭博に溺れ、皇位に興味がないと噂されていた。だが、運は皮肉だ。兄弟の誰もが滅びるような争いの中で、漁夫の利のように帝位を得てしまった。以来、彼の頭の中にあるのは、国の方策でも正義でもなく、『次に何人の側室を抱えられるか』ばかりだ。人妻をどんな手段で奪うか、どうやって税をむしり取るか。民の声など、そもそも聞いてはいない。」

 焚き火の光が頬を撫で、彼の影が長く伸びた。

「母上は違う意味で執着している。権力そのものに。側室たちを監視し、芽が出ぬよう弾圧するのが日課だ。この代に皇子が三人しか生まれなかったのは、偶然ではない。皇女は十五人にのぼるというのに、美しい側室は早々に“確実に子を産めぬよう”毒を盛られる。もし身ごもったら──女なら猶予があるが、男なら母子ともに消される。そうやって、余計な血筋を徹底的に潰すのだ。」
 言葉は淡々としているが、その一つ一つが空気を冷たくする。

 黎翔は目を細め、どこか遠くを見つめるように続けた。
「第二皇子の母も、そんな犠牲者の一人だ。聡明で美しく、父上に最も寵愛されていた。だからこそ、母上の目の敵になった。」
 黎翔の瞳が、炎の奥で揺れた。
「彼女は身ごもったとき、医師を買収して“女子を産む”と偽っていた。男子を産めば殺されるとわかっていたからだ。けれど――実際に生まれたのは、男子だった。」
 その瞬間、空気がぴんと張りつめた。

「母上はすぐに嗅ぎつけた。第二皇子の誕生を祝う宴で、第二皇子の母は突然体調を崩し、部屋に戻った。後で気付くと、寝室のドア近くに大勢が集まっていて、まるで“偶然”を装うように、裸の彼女と隣の半裸の男を見ていたらしい。」

「もちろん、そんなものは仕組まれていた。あの部屋に入れたのも、眠らされたのも。全て母上の命だ。結果、第二皇子は“血が濁った”と疑われ、陵墓へ追放された。」

「ちなみに俺は予備の子として生まれた。」

 黎翔は手元の盃を静かに置いた。
 響く小さな音が、まるで終わりの刻のように感じられる。

「この国は、もう腐っている。誰かが、終わらせねばならない。」
 黎翔は一度目を閉じると、また顔を上げた。
 その目には、もう迷いがなかった。

 梅は息を呑んだ。
 初めて、この人の「闇」を真正面から見た気がした。

「王を殺したら、そのあと、民はどうなるんですか?」
 黎翔の瞳が、ほんの少し柔らかくなった。
「考えるんだ。どうしたら孤児が減って、お腹いっぱい食べられるようになるか」
「お前が“あのときこうできたら”と思ったことを、全部実行していけばいい」

 黎翔は梅の手を包み込む。
 その掌は、驚くほど温かかった。

「俺は本当の市井を知らない。だから、梅の感じたことを全部教えてくれ」
 梅は小さく頷いた。
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