誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter3

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 そして後日も男が本当に翌朝も店に現れたことで、春人の日常は少しずつ歪み、彩られ始めた。


 ミカ・ストラウドと男は名乗った。アメリカ人で、身長は182cm。金髪に見える髪は染めたもので地毛はもっと白いらしい。琥珀色のように見える瞳の色素もかなり薄い。アルビノだと彼は言っていた。少し離れた場所で小児医院を営む医者だとも。
 年齢は春人とそう変わらないらしく敬語でなくていいと言われたが、春人は今はまだ何となく遠慮しておくことにした。ふわりと笑う顔は、どこか軽やかで掴みどころがない。


 ミカが店に現れるペースは、それはもう自然なものになっていった。それは四日や五日といった短い期間ではなく、明確に週単位で続いた。  

 ある時は、

「春人、今日ちょっと寝不足気味でしょ」 
「どうしてそう思うんですか」

「昨日より目の下が落ち着いてない。あと、シャツに猫の毛ひっついてる」
「……ミーが朝から元気すぎて」 

「猫が全力で朝を迎えると、飼い主はだいたい敗北するよね」

 多少の体調不良を見抜かれたり。

 さらに別の日には、

「ねえ春人、この前の夜に本棚動かした?」 
「なんで知ってるんです?」

「床の傷の角度が違ってた」
「怖いこと言わないでもらえますか」 

 こんなことがしょっちゅう続いた。そのためか春人は、ミカの訪問を単なる「常連客」として処理することができず、「抗えない日常の異変」として、自らの日常の中にその異物を組み込むしかなかった。




 午前の店内は、外気より少しだけ温かく、焙煎豆と古びた木材の混じった匂いが静かに漂っていた。カウンターの向こうで豆を挽く音が、規則正しいリズムを刻んでいる。 

「春人~、今日もオリジナルブレンド、砂糖とミルク多めね」

 軽い口調の挨拶。春人の胸の奥で、これまで味わったことのないざわつきが走る。 


 ——忘れられない客が、ここにいる。
 

 世界の法則が、彼一人によって覆されている。春人は淡々とコーヒーを淹れる。その手つきは落ち着いているが、意識は常にミカに向けられていた。ミカはいつもの席で、持参した医学書のような分厚い本を開いていた。その表紙には、英語ではない見慣れない外国語が並んでいる。

「……毎日よく来ますね。暇なんですか?」

 春人はふとそんな疑問を口にした。彼の論理的な思考は、多忙な医者がこれほど高頻度でカフェに滞在するという事実を、うまく処理できなかったがゆえの問いかけだ。

 ミカは金色の髪をかき上げ、顔を上げる。皮肉とでも受け取ったのだろうか、じっと春人を見た。

「あのね、暇な医者なんているわけないでしょ?いたらたぶん病院がないよ。でも、俺は器用に時間を作るタイプだから」

 ミカは胸に手を当て、芝居がかった仕草で肩をすくめた。その行動は軽やかだが、言葉には確固たる自信が滲んでいる。

「言うなれば——診察と診察のすき間に滑り込む『優雅な一杯』ってやつだよ」
「自分で言いますか、それ」
「言うよ。だってカッコよく聞こえるじゃん」

 笑いながら、ミカは一転して真面目な顔で言う。

 春人は、この一瞬の表情の切り替わりを見ては彼は真面目なのだなと思った。  

「まあ、子ども相手の仕事は、神経を使うからね。一瞬でも気を抜くと、見逃してしまう。だから、ここでコーヒーを飲む時間は俺の記憶の棚を整理する時間でもあるんだよ~」

「小児科でしたっけ。大変じゃないですか」

 春人は問いを重ねた。子どもはすぐに症状が変わる。しかもミカの体質であれば、その子の病歴、親の不安、診察室での様子、全てを記憶し続けるはずだ。その情報の洪水を想像するだけで、春人の心は疲弊した。ミカはカップを両手で包み、窓の外を見た。遠く、彼の住む世界を眺めているようだった。

「それなりにね。特に小児科は子ども自身の記憶が曖昧だから、こっちが親の言葉や、ささいな表情の変化まで覚えておいてあげなきゃいけないし。でもね」

 ミカは春人に向き直った。彼の表情には、普段の陽気さとは違う、医師としての真摯な責任感が深く刻まれていた。その目は、春人と同じく、何かを「諦めている」のではなく、「受け入れている」者の静けさを宿していた。

「俺の体質は、この仕事に最適なんだよね。二度と繰り返せない生命の記録を、俺だけは完璧に覚えていられるでしょ?それが、俺がこの体質を持った唯一の救いだとも思ってる」

 春人は息を呑んだ。ミカの言葉は、まるで自分の孤独な運命を理解している者からの返答のように、胸に響いた。
 ——誰も覚えてくれない春人と、全てを覚えていられるミカ。それは、世界の真反対に立つ二人の、逆説的な均衡だった。


「二週間くらい前、ある子の予防接種の話ね。親御さんが『前回何を打ったか』を忘れてて……俺はすぐに半年前のカルテの内容と、母親が着ていた服の柄まで思い出せた。おかげで、打つべきワクチンを間違えずに済んだことがあった」

 ミカはさらりと言ったが、その記憶の異様さに、春人の胸の奥は強くざわついた。春人自身は、自分の過去の出来事を他人に忘れられ、事実の積み重ねができないという孤独を味わってきた。ミカは、その逆に、他人の事実を積み重ねていくことで生きている。

「……そんなところまで、覚えてるんですか」
「まあね。君が淹れたコーヒーの、二週間前の温度だって覚えてるよ」

 ミカはそこでいつもの冗談めいた調子に戻った。「なんてね」と笑ってはいるが、彼の「全てを記憶する」という異常性が、誰かの役に立っているという事実に、春人は自分の「全て忘れられる」という異常性に対する諦念を一瞬だけ揺るがされた気がした。

 ミカの存在は、春人の乾いた日常に、初めて意味のある「記憶」という名の痕跡を刻み込み始めた。
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