4 / 21
Chapter3
しおりを挟むそして後日も男が本当に翌朝も店に現れたことで、春人の日常は少しずつ歪み、彩られ始めた。
ミカ・ストラウドと男は名乗った。アメリカ人で、身長は182cm。金髪に見える髪は染めたもので地毛はもっと白いらしい。琥珀色のように見える瞳の色素もかなり薄い。アルビノだと彼は言っていた。少し離れた場所で小児医院を営む医者だとも。
年齢は春人とそう変わらないらしく敬語でなくていいと言われたが、春人は今はまだ何となく遠慮しておくことにした。ふわりと笑う顔は、どこか軽やかで掴みどころがない。
ミカが店に現れるペースは、それはもう自然なものになっていった。それは四日や五日といった短い期間ではなく、明確に週単位で続いた。
ある時は、
「春人、今日ちょっと寝不足気味でしょ」
「どうしてそう思うんですか」
「昨日より目の下が落ち着いてない。あと、シャツに猫の毛ひっついてる」
「……ミーが朝から元気すぎて」
「猫が全力で朝を迎えると、飼い主はだいたい敗北するよね」
多少の体調不良を見抜かれたり。
さらに別の日には、
「ねえ春人、この前の夜に本棚動かした?」
「なんで知ってるんです?」
「床の傷の角度が違ってた」
「怖いこと言わないでもらえますか」
こんなことがしょっちゅう続いた。そのためか春人は、ミカの訪問を単なる「常連客」として処理することができず、「抗えない日常の異変」として、自らの日常の中にその異物を組み込むしかなかった。
午前の店内は、外気より少しだけ温かく、焙煎豆と古びた木材の混じった匂いが静かに漂っていた。カウンターの向こうで豆を挽く音が、規則正しいリズムを刻んでいる。
「春人~、今日もオリジナルブレンド、砂糖とミルク多めね」
軽い口調の挨拶。春人の胸の奥で、これまで味わったことのないざわつきが走る。
——忘れられない客が、ここにいる。
世界の法則が、彼一人によって覆されている。春人は淡々とコーヒーを淹れる。その手つきは落ち着いているが、意識は常にミカに向けられていた。ミカはいつもの席で、持参した医学書のような分厚い本を開いていた。その表紙には、英語ではない見慣れない外国語が並んでいる。
「……毎日よく来ますね。暇なんですか?」
春人はふとそんな疑問を口にした。彼の論理的な思考は、多忙な医者がこれほど高頻度でカフェに滞在するという事実を、うまく処理できなかったがゆえの問いかけだ。
ミカは金色の髪をかき上げ、顔を上げる。皮肉とでも受け取ったのだろうか、じっと春人を見た。
「あのね、暇な医者なんているわけないでしょ?いたらたぶん病院がないよ。でも、俺は器用に時間を作るタイプだから」
ミカは胸に手を当て、芝居がかった仕草で肩をすくめた。その行動は軽やかだが、言葉には確固たる自信が滲んでいる。
「言うなれば——診察と診察のすき間に滑り込む『優雅な一杯』ってやつだよ」
「自分で言いますか、それ」
「言うよ。だってカッコよく聞こえるじゃん」
笑いながら、ミカは一転して真面目な顔で言う。
春人は、この一瞬の表情の切り替わりを見ては彼は真面目なのだなと思った。
「まあ、子ども相手の仕事は、神経を使うからね。一瞬でも気を抜くと、見逃してしまう。だから、ここでコーヒーを飲む時間は俺の記憶の棚を整理する時間でもあるんだよ~」
「小児科でしたっけ。大変じゃないですか」
春人は問いを重ねた。子どもはすぐに症状が変わる。しかもミカの体質であれば、その子の病歴、親の不安、診察室での様子、全てを記憶し続けるはずだ。その情報の洪水を想像するだけで、春人の心は疲弊した。ミカはカップを両手で包み、窓の外を見た。遠く、彼の住む世界を眺めているようだった。
「それなりにね。特に小児科は子ども自身の記憶が曖昧だから、こっちが親の言葉や、ささいな表情の変化まで覚えておいてあげなきゃいけないし。でもね」
ミカは春人に向き直った。彼の表情には、普段の陽気さとは違う、医師としての真摯な責任感が深く刻まれていた。その目は、春人と同じく、何かを「諦めている」のではなく、「受け入れている」者の静けさを宿していた。
「俺の体質は、この仕事に最適なんだよね。二度と繰り返せない生命の記録を、俺だけは完璧に覚えていられるでしょ?それが、俺がこの体質を持った唯一の救いだとも思ってる」
春人は息を呑んだ。ミカの言葉は、まるで自分の孤独な運命を理解している者からの返答のように、胸に響いた。
——誰も覚えてくれない春人と、全てを覚えていられるミカ。それは、世界の真反対に立つ二人の、逆説的な均衡だった。
「二週間くらい前、ある子の予防接種の話ね。親御さんが『前回何を打ったか』を忘れてて……俺はすぐに半年前のカルテの内容と、母親が着ていた服の柄まで思い出せた。おかげで、打つべきワクチンを間違えずに済んだことがあった」
ミカはさらりと言ったが、その記憶の異様さに、春人の胸の奥は強くざわついた。春人自身は、自分の過去の出来事を他人に忘れられ、事実の積み重ねができないという孤独を味わってきた。ミカは、その逆に、他人の事実を積み重ねていくことで生きている。
「……そんなところまで、覚えてるんですか」
「まあね。君が淹れたコーヒーの、二週間前の温度だって覚えてるよ」
ミカはそこでいつもの冗談めいた調子に戻った。「なんてね」と笑ってはいるが、彼の「全てを記憶する」という異常性が、誰かの役に立っているという事実に、春人は自分の「全て忘れられる」という異常性に対する諦念を一瞬だけ揺るがされた気がした。
ミカの存在は、春人の乾いた日常に、初めて意味のある「記憶」という名の痕跡を刻み込み始めた。
0
あなたにおすすめの小説
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~
水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。
アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。
氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。
「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」
辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。
これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる