誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter4

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別日。
春人は開店準備をひと通り終え、まだ客のいない店内に視線を滑らせる。その目はすぐ、ひとつの違和感で止まった。小さなテーブルに置き去りにされた財布。薄い茶色の革製で、持ち主の手の癖がそのまま残っているような、柔らかい折れ目がある。

「……変な落とし物」

 カードも、メモも、連絡先になるような紙片も入っていない。こんな自分の痕跡を消すかのような忘れ方をする客がいただろうか。春人はその財布から、自分と同じ「空白」の気配を感じた。春人の特異体質を知っているミカなら、この奇妙な遺失物の意味を即座に理解するだろう、という考えが、今では自然と頭をよぎるようになった。

 そう考えていたタイミングで、扉が軽快なベルの音を立てて開いた。

「おはよ~、春人」

 まるで空気の一部であるかのように自然に馴染んだ声。ミカが、いつもの陽気な温度を携えて店に入ってきた。

「これ、昨日の午後に窓際に座ってた人のだよね」

 開口一番、ミカはテーブル上の財布を指した。問いかけるのではなく、ただ事実を述べるような口調。

「こんなことまで覚えてるんですか」

 春人は反射的にそう返したが、ミカは特別な能力を発揮したつもりがないようだった。その琥珀色の瞳は、ただ当然のように春人を見つめ返している。

「財布の角が擦れてるでしょ。昨日のあの人、バッグのストラップが結構ほつれてたんだよ。あれと摩擦の跡が同じだったから」

 まるで今日の天気を話すように、コーヒーの香りくらいの軽さで説明して、そのままいつもの席に着くミカ。春人には、その記憶量がやはり異質に映る。彼の日常では、二度と再現されないはずの連鎖が、ミカの中でだけは完璧に保たれている。
その事実は、春人の論理的な心を刺激し、同時に、長く渇いていた心を満たしつつあった。そして昼過ぎ、財布の主が本当に戻ってきた。ミカの言った特徴は、服装も、バッグのストラップのほつれも、一つ残らずそのままの人物だった。

「すごいですね、相変わらず」
「でしょ?」

 ミカは得意げというより、「事実なんだから当然」とでも言いたげな、屈託のない顔で笑う。彼の笑顔は、この異様な状況を無害な日常として包み込む力を持っていた。春人はその横顔を見ながら、胸の奥に小さなざらつきが沈んでいくのを感じた。それは違和感なのに、不思議と怖くはない。むしろ、まただという、遠い過去の記憶に触れるような、甘い疲労感があった。春人の疲弊した心は、ミカの記憶力という強固な庇護を、無意識のうちに求め始めていた。

 ——自分は、昔からこうだった。
 ——春人として認識されないこと。
 ——誰もが彼を、曖昧に扱う日常。

 ミカと関わる時間が増えて、それが一時的に薄れていただけだ。それを思い出すと、ほんの少しだけ「覚えていることへの依存」にも似た感覚が胸をかすめた。




 午後に入り、店の空気はさらに緩やかになる。窓から射し込む光はやや傾き、店内をオレンジ色に染め始めた。春人は豆の補充をしながら、どこか体が重いことに気づいていた。脳の裏側に薄い膜が張ったような、倦怠感。ミカは広げた書類を軽く叩いてから、ちらりと春人を見て言った。

「春人、今日ちょっと目が疲れてるね」
「……そうですかね」

「うん。午前より目の下の色が濃いよ。動きも少し燃費の良い省エネモード。昨日の夕方、特に疲れてた時の君と似てる」

 淡々としているが、春人の内側には踏み込みすぎない声。その絶妙な距離感が、春人にはありがたかった。

「大丈夫ですよ。寝不足なだけです」

 そう言った瞬間、棚の上の豆袋に手を伸ばしたときだった。視界が、やわらかく沈む。世界から音が消え、急に遠ざかったような感覚。

「あれ、」

 重力が急に増したように、足元がぐらりと揺れる。反射的に棚に手をついたが、踏ん張りがきかなかった。


「危ない」

 ミカの手が驚くほど迅速に春人の体をすっと支える。驚きより先に、その反応の速さと、支える手の強さが春人の意識に届いた。

「低血糖だね。朝ごはん、軽かったでしょ」
「確かにそうですけど……でも、なんで」

「さっきから声の高さが少し落ちてたし、豆を計る時の手の震えが細かかった。サインは出てるんだよ」

 言われて気づく。確かに、少し前から手先が冷え、思考が鈍っていた。その時、春人を支えていたミカの視線がふと彼の腕に落ちた。

「……これ、」

 春人の腕に並ぶ、細く均等な痕。どれも生活でできる傷ではない。

「あぁ、それ、たぶん昔の傷だと思うんですけど、自分でもよくわからなくて」

 春人は何だったかと思考を巡らせるが思い当たることがなかった。その様子を見たミカは短く息を吸ったが、すぐその表情をいつもの軽い調子に戻した。傷を確認していた時の感情が抜け落ちたようにも見えた真顔は、一瞬で引っ込められた。

「……まあ、今急ぐ話じゃないか」

 ただ、その「間」は、いつもより確実に深く何かを意図的に隠したような沈黙だった。言葉を続けようとしたミカの視線は、春人の腕から、棚の上の古い木箱へすべった。ミカは何気なく触れたふうを装って、軽く言う。

「春人の店ってさ、妙に『記憶の残り香』みたいなのが多いよね。この箱とか、鍵とか。誰も忘れない物ばかり——」

 軽い調子なのに、そこだけ妙に裏側を覗かせたような言い方だった。そしてミカはさらりと話題を切った。

「――じゃなくて、糖分とって。倒れると、君を覚えてる人間が一人減るからね」

「理由そこですか」
「他にあると思う?」
「……ありますよね?」

「さあね~」

 とぼけたような、冗談めいた笑み。普段の距離のまま深くは踏み込んできてくれない。ただ、その軽さの奥で、ミカだけが別の「確信」に触れたようだった。

     春人はまだ知らない。自分の体の傷が、ミカの持つ「記憶の異常性」と、どこかで繋がりうるということを。
そして店の日常は、いつもと変わらないコーヒーの香りのまま続いていく。ただ、その底で、二人の特異な運命が静かに輪郭を帯び始めていた。
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