誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter5

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 忘れ物の出来事から、さらに二週間ほどが経過した。ミカの来店は完全に日常となり、春人にとって、その異質な記憶力もまた店の風景の一部と化していた。彼がいることで、春人の世界には確かな「昨日」が持ち込まれるようになった。



 ある日の夕方。店内の照明は暖かく、窓の外の街路灯がオレンジ色に灯り始めている。春人はカウンター内のエスプレッソマシンを分解し、洗浄する作業に取り掛かっていた。これは閉店作業の中でも最も集中を要する工程だ。コーヒーの匂いが薄くなり、代わりに金属と洗剤の清潔な匂いが漂い始める。
客足はとうに途絶え、春人が閉店作業を始めるのをミカはいつもの席で静かに見守っていた。ミカは読書を終え、カップに残った冷めたコーヒーを回している。

「春人はさ~、たまに本当に何も考えてない時があるよね」

 ミカが唐突に言った。春人は布巾を絞っていた手を止める。スチームノズルに付着したミルクを丁寧に拭き取っていた。

「何も考えてない、とは」

「コーヒーを淹れてる時じゃなくて、こう……ミーを撫でてる時とか、本を読んでる時。誰にも覚えてもらえないことに疲れて、意識的に頭の中を空っぽにしてる感じ?」

 春人の胸に、小さな波紋が広がる。自分の特異体質の裏側にある、心が疲弊しきっている部分まで、ミカは軽々と見抜いてくる。それは、誰にも見破られたことのない、彼自身の心の防衛策だった。

「そうですかね。論理的な思考は常に怠っていません。じゃないと、この日常は続けられので」

 春人は感情を込めず、さっぱりとした口調で返す。
 ミカは「ふーん」と笑い、椅子を軋ませながら立ち上がった。彼はカウンターに寄りかかり、春人の手元、光に照らされたノズルの金属部分を覗き込む。

「でも、論理だけが君じゃないでしょ?本当は割と明るい性格の持ち主だけど、諦めが先立つから、今は感情の表面が凍ってるだけ。早く暖めないと、俺の冗談が滑るんだよ」

 彼の言葉は、春人の人物設定そのものだった。なぜ、四週間前に出会ったばかりの人間が彼の本質をここまで深く言い当てられるのだろうか。

「あなたには、俺の全ての情報が見えるからでしょう。俺の過去の喜びや、一瞬の笑みが、今朝にはリセットされてるのを、あなたは知っている」

 春人の声に、わずかに苛立ちが混じった。誰にも触れさせたくない、彼の最も孤独な部分をミカは最も無防備な調子で触れてくる。

「いや、違うよ?」

 ミカは否定した。その声は、普段の陽気さとは違い、信頼を勝ち取るための真面目さを含んでいた。

「俺が覚えているのは、今、目の前にいる君の感情だよ。君がコーヒーの味を確かめた時に目を細める癖、ミーが鳴いた時にだけ一瞬緩む口元。それは、記憶が消えても、君という存在の確かな場所にある」

 ミカはカウンターの角を、指先で軽く叩いた。彼の瞳は、春人の真摯な作業を見つめている。


「俺は、君さえも忘れてしまう『君の楽しかったこと』を、代わりに全部覚えててあげる。だから、安心して、時々頭を空っぽにしてもいいんだよ」

 それは甘い言葉ではなく、二人の間で交わされる、最も論理的で、最も異質な信頼契約のようだった。春人の心を覆っていた「諦め」の氷に、ミカの言葉が確かな熱を帯びて届いた。

「……それは、あなたにとって、重荷になるのでは」

 春人は、どうにかして言葉を絞り出す。彼は人に期待しないが、ミカの能力に依存することへの恐怖を覚えた。ミカはくすりと笑う。その笑顔は、いつものおちゃらけに戻っていたが、先ほどの真剣さが残響のように残っている。

「重荷? 全然。だって、穂積春人という観測者が毎日新しくなってくれるんだよ?俺にとって、こんなに楽しいことはないね。一生飽きないと思う」

 ミカはそう言い、カウンターから離れ、自身の空になったカップを置いた。

「じゃあね、春人。また明日~」 
「……お気をつけて」

 春人は彼が扉を閉める音を聞くまで、微動だにできなかった。ミカの存在は、すでに春人の世界の「引力」になっていた。
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