誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter6

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 翌日の午後。
 いつものように店に現れたミカは、いつもの調子でコーヒーを注文した。春人は淡々と作業を進めながらも、ミカの存在と、彼の異常な記憶力が自分の体質の謎と深く関わっている可能性について考えていた。


 カウンターでスプーンを拭く春人の手は、いつもよりわずかに動きが硬かった。ミカに、腕の傷について尋ねることは、彼が長年築いてきた「諦めの均衡」を自ら崩す行為に他ならない。
 もしミカが何も知らず、ただの推測だと笑い飛ばしたら? あるいは、知っていたとしても自分の身勝手な好奇心に依存することへの恐怖が、春人の胸を締め付けた。しかし、その恐怖を凌駕したのは、「この謎を解くことができるとすれば、それは現時点でミカしかいない」という冷徹な論理と、「この孤独を終わらせることができるなら」という抑えきれない微かな希望だった。春人は深呼吸をし、意を決したように口を開いた。


「あの、」

 春人の声は低く真剣なトーンだった。ミカはカップをカウンターに置く。その表情には、いつもの陽気さの中に、一瞬だけ警戒の色が差す。

「なに?急に神妙な顔をしてるけど。この店のコーヒー豆の輸入が難しくなった? それとも、ミーがしゃべりだした?」

「そういうことじゃないです、ファンタジー過ぎますよ」
 春人は否定した。
 その後一息ついてから再び話を切り出す。

「……以前、俺が低血糖で意識を失いかけた時、あなたは俺の腕の傷を見て何か考えていましたよね」

 ミカの琥珀色の瞳が、わずかに揺れた。

「……ああ、あの傷ね。古い傷に見えたから、ちょっと気になっただけ。職業病ってやつ。君の体のデータを勝手に記録するのは、俺の趣味みたいなもんだからさ」

 ミカは軽く肩をすくめた。


「あなたが見ていたのは、『ただの古い傷』……ではないのでは?」

 春人は踏み込んだ。

「あなたなら、それが単なる生活でついた傷ではないことも、最近俺自身がその『痛み』を時折意識していることも、全て把握しているはずです」

 春人はカウンターの奥に飾ってある、古い木箱に視線を向けた。 

「あの木箱や俺の腕の傷。これらの『物』は、誰も俺のことを覚えていられなくても、時間を経ても消えない痕跡として、この世界に残っている。……あなたは、それらが何を意味するのか、何か知っているんじゃないですか」

 春人の問いは、ミカの異常な記憶力に対する明確な挑戦状だった。しかしミカはコーヒーを一口啜り、わざとらしく明るいトーンに戻した。

「うーん、君ってたまに本当に詩人だよね。『消えない痕跡』ってドラマみたいでいいね。でも残念。俺が覚えてるのは、君の店で使ってる洗剤の銘柄が先週と違うってことくらいかな。
 それに、もし俺が何か『とんでもない秘密』を知っていたとしても、そう簡単に教えると思う? それはジョークとしても成立しない」

 ミカはにっこり笑ったが、その笑顔の奥には確かな情報隠蔽の意図が感じられた。

「それに、仮にも俺は忙しい医者だよ?君の『詩的な謎』に付き合ってる時間は正直ない。
 それに来週から急にちょっとした遠征が入っちゃってさ、病院の提携プログラムで、地方の小児科に二週間出向かないといけない」

 春人は、ミカが核心をはぐらかしたことに小さく唇を噛んだ。

「……そう、ですか」

「うん。だから、君の謎解きは二週間ほどインターミッション。君も、もう一度考えてみたら?俺の記憶が無くても、君自身は覚えているんだから」

 ミカはそう言って、出口へ向かった。彼の背中には、これから行く仕事への医師としての責任感と春人への『また必ず戻る』という無言の保証が感じられた。

 扉のベルが鳴り、ミカの気配が店から消える。春人はカウンターの上の鍵を手に取った。二週間。ミカは核心を明かさなかったが、彼の存在が、春人に初めて『自ら謎に挑む』という動機を与えた。

 春人はミカの不在を、孤独ではなく、調査のための準備期間と捉えることにした。
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