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Chapter9
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ミカが店に来られなくなってから、今日でちょうど二週間になる。
二週間──言葉にすればただそれだけなのに、春人の体感ではもっと長く、そして妙に短い時間だった。ミカがいない直後の数日は、胸の奥にぽっかりと空洞が開いたみたいだった。店の空気が少し冷えて見え、客の顔も以前より遠く、薄い膜越しに見ているようだった。
朝、店の準備を進めていると、カウンターに肘をつきながらスマートフォンをいじっているニーナの姿が視界に入る。ミカと同じ琥珀色の瞳が、時折こちらに向く。日々観察されるうちに、春人は自分の存在が彼女の視線の中だけ、いつもよりはっきりしているような錯覚を抱くようになっていた。足もとではミーがニーナにまとわりつき、尻尾をゆるやかに揺らしている。にぎやかではないが、静かでもない。そのほどよい気配が、二週間の朝をかたちづくっていた。
「そんなに見つめて、何かある?」
ふいに視線を絡め取られ、春人は慌てて言葉を返す。
「いえ……ただ、ぼーっとしてただけで」
ニーナはため息混じりに小さく首を振った。
「別に怒ってないわよ。二週間もいれば、あなたの“ぼーっと”は見慣れたし」
その言い方が妙に柔らかくて、春人は吐き出す息を少し軽くした。
「今日で二週間ね。兄さんが戻ってくる」
胸が静かに鳴った。そうだ。ミカがプロジェクトを終えて戻ってくる日だった。
「兄さんが帰ったら、私はまた忙しくなるのよ。ほら、感謝しなさい。休みを削って来てあげたんだから」
「だから、頼んでませんよ」
「まったく、可愛くないわ」
こうしたやりとりも、この二週間の朝の一部になっていた。そのとき、店のドアベルが軽やかに鳴る。春人が「いらっしゃいませ」と言いかけた瞬間。
「俺がいなくても寂しくなかった? 春人」
二週間ぶりの声。聞き覚えのある落ち着いた温度。春人の胸が一度締まり、次いでじんわり解けた。
「……寂しくは、なかったですね」
「嘘はよくないな」
「嘘じゃないです」
まるで空白の時間など存在しなかったように、会話が自然に戻る。春人が不安に思っていた“間”は、そこにはなかった。
「ただいま」「おかえりなさい」短い言葉が、二週間前の空気を連れ戻す。
「……私もいるんだけど」
ニーナが口を挟む。だがミカは、妹の存在に気づきながらも違和感に眉を寄せた。そして、春人のほうへ視線を戻す。一瞬、その琥珀の瞳がわずかに見開かれた。
「待って……なんか、変わった?」
春人には意味が分からなかった。だがミカは続ける。
「前より……輪郭がぼやけて見えてる気がする、なんで」
ニーナが腕を組む。
「気づくわよね、やっぱり」
「……ニーナ、何かした?」
「何も。観察しただけ。勝手に変わったの」
その言い方は、冗談めかしながらもどこか真剣だった。ミカは再び春人を見る。その目は医者としての冷静さと、兄としての心配を半々に抱えていた。
「ねえ春人……、この二週間で何か変なこと、あった?客の反応が悪くなったなとか、そういう感覚」
胸に触れられたような感覚が走る。──あった。日々わずかに気になって、ある日突然大きく形を持った“それ”。
「……はい、確かに」
ミカは目を細めた。驚きと慎重さの入り混じった表情。
「困ったことになったね、」
「何がですか?」と聞く前に、ニーナが軽く指先を弾く。
「ストップ。本人にまだ言うなって言ったのは兄さんでしょ」
ミカは言葉を呑みこんだ。そして、ゆっくりと春人の肩に手を置く。
「……今はまだ言えないけど、必ず話すから」
春人にさえ理解できない“変化”。けれどミカの声は、いつもより少しだけ真剣だった。
春人の体質が“変わり始めている”。それだけは、ミカもニーナも――そして春人自身も、うすうす気づいていた。
ミカが戻ってきて、日常は元に戻るはずだった。だがその日常のすぐ近くで、黒い靄が静かに形を持ちはじめていた。
二週間──言葉にすればただそれだけなのに、春人の体感ではもっと長く、そして妙に短い時間だった。ミカがいない直後の数日は、胸の奥にぽっかりと空洞が開いたみたいだった。店の空気が少し冷えて見え、客の顔も以前より遠く、薄い膜越しに見ているようだった。
朝、店の準備を進めていると、カウンターに肘をつきながらスマートフォンをいじっているニーナの姿が視界に入る。ミカと同じ琥珀色の瞳が、時折こちらに向く。日々観察されるうちに、春人は自分の存在が彼女の視線の中だけ、いつもよりはっきりしているような錯覚を抱くようになっていた。足もとではミーがニーナにまとわりつき、尻尾をゆるやかに揺らしている。にぎやかではないが、静かでもない。そのほどよい気配が、二週間の朝をかたちづくっていた。
「そんなに見つめて、何かある?」
ふいに視線を絡め取られ、春人は慌てて言葉を返す。
「いえ……ただ、ぼーっとしてただけで」
ニーナはため息混じりに小さく首を振った。
「別に怒ってないわよ。二週間もいれば、あなたの“ぼーっと”は見慣れたし」
その言い方が妙に柔らかくて、春人は吐き出す息を少し軽くした。
「今日で二週間ね。兄さんが戻ってくる」
胸が静かに鳴った。そうだ。ミカがプロジェクトを終えて戻ってくる日だった。
「兄さんが帰ったら、私はまた忙しくなるのよ。ほら、感謝しなさい。休みを削って来てあげたんだから」
「だから、頼んでませんよ」
「まったく、可愛くないわ」
こうしたやりとりも、この二週間の朝の一部になっていた。そのとき、店のドアベルが軽やかに鳴る。春人が「いらっしゃいませ」と言いかけた瞬間。
「俺がいなくても寂しくなかった? 春人」
二週間ぶりの声。聞き覚えのある落ち着いた温度。春人の胸が一度締まり、次いでじんわり解けた。
「……寂しくは、なかったですね」
「嘘はよくないな」
「嘘じゃないです」
まるで空白の時間など存在しなかったように、会話が自然に戻る。春人が不安に思っていた“間”は、そこにはなかった。
「ただいま」「おかえりなさい」短い言葉が、二週間前の空気を連れ戻す。
「……私もいるんだけど」
ニーナが口を挟む。だがミカは、妹の存在に気づきながらも違和感に眉を寄せた。そして、春人のほうへ視線を戻す。一瞬、その琥珀の瞳がわずかに見開かれた。
「待って……なんか、変わった?」
春人には意味が分からなかった。だがミカは続ける。
「前より……輪郭がぼやけて見えてる気がする、なんで」
ニーナが腕を組む。
「気づくわよね、やっぱり」
「……ニーナ、何かした?」
「何も。観察しただけ。勝手に変わったの」
その言い方は、冗談めかしながらもどこか真剣だった。ミカは再び春人を見る。その目は医者としての冷静さと、兄としての心配を半々に抱えていた。
「ねえ春人……、この二週間で何か変なこと、あった?客の反応が悪くなったなとか、そういう感覚」
胸に触れられたような感覚が走る。──あった。日々わずかに気になって、ある日突然大きく形を持った“それ”。
「……はい、確かに」
ミカは目を細めた。驚きと慎重さの入り混じった表情。
「困ったことになったね、」
「何がですか?」と聞く前に、ニーナが軽く指先を弾く。
「ストップ。本人にまだ言うなって言ったのは兄さんでしょ」
ミカは言葉を呑みこんだ。そして、ゆっくりと春人の肩に手を置く。
「……今はまだ言えないけど、必ず話すから」
春人にさえ理解できない“変化”。けれどミカの声は、いつもより少しだけ真剣だった。
春人の体質が“変わり始めている”。それだけは、ミカもニーナも――そして春人自身も、うすうす気づいていた。
ミカが戻ってきて、日常は元に戻るはずだった。だがその日常のすぐ近くで、黒い靄が静かに形を持ちはじめていた。
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