誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter8

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 ミカが二週間ほど店に来られないと告げてから、数日が過ぎた。

 その時間は、これまで規則的に回っていた歯車のひとつが抜け落ちたように、店内の音の流れを微かに変えていた。朝のコーヒーの香りも、木材の甘い匂いも、以前と同じように空気を満たしている。開店準備の手順も、身体が覚えたままの動きで進む。なのに、店の奥に差し込む光の色だけが、どこか薄くなったように見えた。ミカの「おはよう」という、あの軽いひと言。
 あれは、挨拶以上の役割を持っていたのだと、いなくなって初めて気づく。自分という存在が、今日もちゃんと“ここにいていい”のだと告げられているような、静かな確認の儀式だった。

 その欠落を、代わりに埋めるように――最近は、ニーナがよく店に姿を見せるようになった。彼女は扉を押し開けるだけで、店内の空気の密度を変えてしまう。
 軽やかで、風通しがよくて、けれど芯にどこか硬質なものを宿している。兄であるミカと共有している「よく笑う」雰囲気の奥に、ナイフのような鋭さがある。春人は、その気配にまだ慣れないでいた。
 


 昼前、窓際のテーブルでひとつの財布が取り残されているのに気づく。淡い日差しが斜めに差し、革の表面の古い傷が浮かび上がる。よく使われているのに、妙に中身が軽い。カード類もほとんどない。


「またか」


 以前にも似たようなことがあった様な。ひとりごとが揺れた瞬間、ドアベルが鳴った。ニーナが入ってきた。金の髪が光をすくって揺れ、店内の空気に別の温度が混ざる。彼女は真っ直ぐ財布を見てから、柔らかく口元を上げる。


「迷子の財布?」


 疑っているわけではなく、ただ状況を正しく言い当てただけの声音。春人が説明するより早く、彼女の指が財布を取っていた。指先が、異様に迷いなく動く。角の擦れを確かめ、金具の小傷を読み取り、革の匂いまでひと呼吸で判断している。世界の断片を、彼女の記憶は一度通過するだけで“保存”してしまうのだと、春人は見ていて思った。観察ではなく、吸収。意識しているのかどうかさえ分からない自然さで。


「昨日の午後、この席にいた女性のよ。コーヒーを持つ手が、少し震えてたでしょう?」 

「よく覚えてますね」

「覚えるんじゃなくて、忘れないの。放っておいても勝手に残っちゃうだけ」


 乾いたようでいて、どこか投げやりな言い方。その“当たり前”の重さを、彼女はもう長い間、当たり前として抱えてきたのだろう。

 忘れられる側の春人。忘れない側のニーナ。対極に位置する二人は、奇妙な静けさを間に置いた。



 財布の持ち主が戻ってきたとき、ニーナが口にした特徴はひとつも外れていなかった。しかし持ち物を返そうと手を差し出した時、春人に向けられた言葉はこうだった。


「あれ……店長さんって、男の人でしたっけ?」


 昨日も話したはずの客は、春人の存在をすっかり忘れていた。まだ二十四時間も経過していないというのに。
  
「あはは、また忘れられたわね」
 さほど驚くでもなく、ニーナは淡々と言う。

「これが普通です」

「でも平気ではないでしょ?慣れることと、平気でいることは別よ」


 ニーナの言葉は、痛みではなく事実だけを並べただけの温度だった。







 ──モデルの「日常」が、ふいに入り込む昼を少し過ぎたころだった。

 コーヒーの粉を量っている春人の耳に、店の外で小さなざわめきが起こる気配が届く。騒ぎというほどではない。けれど、普通の客が引き寄せる種類の視線とは違う――もっと、好奇と興味と、そしてスマートフォンのレンズが向けられる気配。
 春人がドア越しにそっと視線を向けたとき、ニーナはちょうど店に戻ろうとしていたところだった。黒いコートの裾を軽く揺らしながら歩く彼女の周囲に、数人の若い女性たちが距離を保ちながらついてくる。声はかけない。でも目が離れていない。撮られたくないのか、撮られてもいいのか分からない曖昧な距離。
 街中でしばしば見かける「有名人の空気」――
 ただし、それが無理なく馴染んでいる人間はそう多くない。ニーナは、その数少ない“馴染む側”だった。彼女はその視線を避けない。かといって媚びるわけでもない。ただ、自分の時間と歩幅のまま歩き続け、店の扉を押して入ってきた。


「ちょっと外、騒がしかったですね」


 春人が言うと、ニーナは靴を脱ぐような自然さで肩をすくめた。


「昼間はまだ平和なほうよ。夜のほうが、酔った人が話しかけてくるから面倒」

「そういうものなんですか?」

「なにその顔。知らなかったの? 私の仕事」

「あ、いや……モデルだとは聞いてましたけど、こういう“感じ方をされる”お仕事なんだなと」


 ニーナは小さく笑った。その笑いには、疲れと慣れと、そしてどこか皮肉が混ざっていた。


「見られるのは、仕事みたいなものだから。嫌いじゃないけど……好きだとも言いにくいわね」


 言葉とは裏腹に、彼女は慣れた手つきで髪を耳にかける。その動作のひとつひとつが、計算ではなく身体に染み付いた“見られるための所作”だった。春人はその様子を見ながら、思わず考えてしまう。
 ――そんな世界にいる人間が、毎日のようにこの店に来ている理由は何だろう。カメラに切り取られる世界と、この店のように、誰かの記憶からこぼれ落ちてしまう場所。その落差の中で、彼女は何を求めているのだろう。ニーナは春人の視線に気づいたのか、片眉を上げた。


「春人、なに。変な顔してる」

「いや……ニーナさんって、見られる仕事なのに、人の視線を、なんていうか……怖がってないですよね」

「怖がってたら、この仕事向いてないわ。でも――」

 一瞬、彼女の表情が、わずかに陰を帯びた。

「“視線”そのものより、視線を向けてくる人の“目的”のほうが怖いのよ」


 春人はその言葉の裏に、彼女が触れてこなかった何年分かの経験を感じた。悪意を向けられたこと。興味本位で近づかれたこと。都合よく解釈され、勝手に期待され、勝手に幻滅されること。モデルという仕事は、彼女の華やかさとは裏腹に、常に“他人の期待”に囲まれた世界なのだと、春人はようやく理解しはじめていた。ニーナはカウンターに腰を掛け、天井を仰いだ。その横顔には、どこか解放されたような表情が宿っている。


「ここはいいわ。誰も私を“商品”として見ないから」

「そうですね、お客さんですから」


 春人がそう言うと、ニーナはふっと笑って肩を揺らす。


「そういう風に当たり前に言ってくれる人って、意外と少ないのよね」


 彼女の指先が、無意識にマグカップをひっくり返した跡をなぞっている。その仕草を見て、春人はふと、ミカの癖を思い出した。
 ――兄妹で、触れ方がほんの少し似ている。だが内側にあるものは、まるで違う。ミカの手つきが“穏やかに記憶を拾う”ものだとすれば、ニーナの指先は“世界の断片を確認する”ようだった。彼女の瞳の奥には、常に冷静な評価が宿っている。感情ではなく、事実を見抜く眼差し。
 だから気づいたのかもしれないと春人は思う。自分にまとわりつく“透明な薄膜”――記憶されない体質の気配を。ニーナのように、世界を残らず記憶する人間にとって、それはきっと違和感として強く映るのだろう。春人が軽く息をついたとき、ニーナはちらりと彼の横顔を見て、ただひとことだけ、独り言のように呟いた。


「……兄さんより、ずっと脆いのね。あなた」


 その声音には慰めも嘲りもなく、ただ“見えたことをそのまま言った”だけの透明さがあった。春人は言い返せなくなる。
 なぜなら、その言葉が図星すぎたからだ。








 日々はゆっくりと過ぎ去っていく。 小さな違和感というものはある日ふと突然に巨大化することがある。

 ある日、顔なじみの宅配員が、今日だけで三回「はじめまして」と頭を下げてきた。仕入れ先への支払いで並んでいる間、後ろの客の目が何度も自分を通り抜けるようにぼんやりする。名前を呼ばれない。視線がすり抜ける。声をかけても、一瞬だけ「誰?」という顔。体調不良ではない。むしろ最近は健康そのものだった。ただ、世界のほうが自分から遠ざかっている。そんな感覚だけが、日に日に強まっていた。

 ミカがいない。その空白が、余計にそれを鮮明に見せる。



 午後。入口のベルが鳴り、男性客が入ってきた。顔は見覚えのある常連だ。だが、その視線が春人を“通り過ぎた”。まるで透明な壁でもあるかのように。


「……あれ、すみません。今日は店長さんいらっしゃらないんです?」

「店長は俺ですよ」


 一瞬、客は「え?」と眉を寄せたが、次の瞬間にはもう気に留めていなかった。


「あ、そうなんですね。じゃ、カフェラテお願いします」


 ――“思い出せていない”という反応ではない。
“そこにいると認識できていない”に近い。春人は思わず背筋が冷えるのを感じた。偶然にもニーナはそのやり取りを黙って見ていた。
普段は鋭利な観察を隠すように振る舞う彼女だが、今は完全に春人の表情を追っている。客が離れた後、ニーナはぽつりと言った。


「……今日、特に薄いわね。あなた」

「薄いとは?」

「存在感。昨日よりずっと。店に入ってきた人、あなたを一度も“中心”として見ていなかった」

 彼女の声は淡々としているのに、刃物のように正確だった。春人はたじろぎ、視線を落とした。


「ここ最近おかしいわね」

「……何が、でしょうか」

「あなた、兄さんや私と会ってから少しずつ、でも確実に体質が変化してるんじゃない?」


 春人は言葉を返せなかった。心当たりがあったからだ。特に最近はよりミカがいないからなのか、何故か自分の影が薄くなっている実感が確かにあった。声をかけても反応されないことが増えてきた。ドアの前に立っていても、客は気づかずに春人の肩をかすめて通り抜ける。まるで――“世界の優先度”の一覧から、自分の名前だけが静かに削除されていくような。

 ニーナはゆっくりと手を組み、春人をまっすぐに見た。


「ねえ春人。あなたが消えたら、困るのよ」

「急に、そんな……大袈裟ではないですか」

「いいえ、急じゃないわ。……兄さんなんて、あなたのこと忘れたら泣くわ」


 彼女にしては珍しく、冗談ではない声音だった。春人の胸に、わずかに熱が宿る。

「……」

「もちろん、忘れないわ。忘れられない。だから、あなたの“薄れ具合”も全部見える。今日は特にひどい」


 それを言ったあと、ニーナは店内を一度、静かに見渡した。



「――だってここ、あなたがいない方が“自然”に見えるもの」



 春人は息を飲んだ。痛みではなく、ただ静かに恐ろしくなる。


 春人は、初めて自覚する。これは体調不良で片付けられるものではないと。
 自分という存在が、日常そのものから“削り落とされつつある”。それは、後にすべての真相へつながる警告だった。
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