誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter11

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 夜の風が店のガラスを薄く震わせていた。

 さっきまで店内にあった微かな温度が、今になって急速に消えていく。ベインズの足音が遠ざかって以来、ずっと胸の奥が騒がしい。



 “治せるかもしれない”



 その言葉だけが、やけに鮮明だった。音だけ切り取って机の上に置かれたみたいに、どんな感情より先に思考だけが触れてしまう。

 ミカとニーナは、裏口の方で短く話していた。何かを押し殺すような声で。
 あれは――自分に聞かせられない類いの会話だ。
 春人はカウンターの椅子にゆっくり腰を下ろす。座面がわずかに軋む音が、妙に大きく聞こえた。意識したくなくても、思い出してしまう。ベインズのあの笑みだ。優しそうに形作られているのに、どこにも温度がなかった。

 それでも、あのとき自分は――惹かれた。

 ほんの少し。治るかもしれないという甘い響きに。



 自嘲が胸の中で小さく鳴る。だってミカは、ニーナは、自分のためにあんな必死な表情をしたというのに。振り返ると、店の中は何も変わらない。磨き上げたカウンター。閉店後の静かな空気。壁に掛かった影が、ゆっくり伸びる。ただ、自分だけが変わってしまったような気がする。


 自分は過去を知りたいのだろうか。問いを投げると、返事を渋る自分がいる。もしその先にある“真実”が、自分の想像よりずっと苦いものだったらどうする?けれど同時に、ずっと胸の奥で滲んでいた不安の正体に触れてしまえるかもしれないとも思ってしまう。正直言って彼らに「大丈夫」と笑って見せるのは、もう限界だった。ただ流されてきた日常の裏で、自分はずっと無音で崩れ続けていたのだ。


 気づけば、両手の指先が冷えている。普段の低血糖の兆しではない。もっと別の、落ち込んだ水底みたいな冷たさ。春人は深く息を吸う。ためらいが喉にひっかかり呼吸が少しだけ軋んだ。そのとき、カウンターの向こうで小さな音がした。振り返るとミカがこちらを見ていた。さっきよりもずっと静かな目で。



「春人」


 ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥で張りつめていた何かがふっと緩んだ。逃げても、もう意味はない。真実を聞きたい。ただその言葉を口にするだけで震える。それでも――言わなければ、何も変わらないままだ。春人は椅子の背にもたれず、まっすぐにミカを見た。喉の奥がひどく乾く。それでも声を押し出す。


「……教えてくれませんか、過去について」

 その瞬間、ミカの表情に影が差した。ニーナも、ゆっくりとこちらに歩いてくる。二人とも何かを覚悟した人の顔をしていた。

 静かな店内で、カップが触れ合うような小さな沈黙が落ちる。春人は気づいていた。二人の沈黙の重さに。――自分が知ろうとしているものは、きっと「ただの記憶」なんかじゃない。そう思っただけで、背筋がひやりとした。
 けれど同時に、逃げる理由ももうなかった。











 春人が「過去を教えてください」と言った後、店内の空気は、まるで水底に沈んだように静まった。ミカの胸の奥で、ずっと閉じていたはずの記憶が軋みはじめる。

 ――その言葉を、いつかは彼が言うと思っていた。

 でも、それが今日だとは思いたくなかった。ミカは、ほんの短い間だけ視線を落とす。春人が見てしまわない位置で。

「ミカ」

 隣で、ニーナが低く呼んだ。声は普段よりもずっと冷静で、けれどその眼差しにはわずかに揺れが宿っていた。

「もう、隠せないわ」

「わかってるよ、」


 二人の間に流れる沈黙は、兄妹だけが知っている温度だった。過去の傷がまた口を開ける予感があり、それでも逃げるわけにはいかないという覚悟の色があった。ミカは深く息を吐き、自分の記憶の中に沈んでいく。


 白い部屋、青白い照明、機械の音。あのころの“自分たち”の息遣い。

 ――春人も、あそこにいた。

 けれど彼は覚えていない。覚えられなかった。いや、忘れたのではなく――“奪われた”。

 ミカの胸に重たい痛みが落ちる。春人を守るために沈黙してきたはずなのに、その沈黙が、逆に彼を追い詰めているのかもしれない。その事実が、ミカの心を誰よりも強く締めつけていた。


「兄さん」

 ニーナが囁くように言った。

「あなたが言わないなら、私が全部話す。――でも、それは違うでしょ?」

 ミカは顔を上げる。妹の琥珀色の瞳がじっと自分を見つめていた。


「春人は兄さんを信頼してるのよ。だから、兄さんの口から言わなきゃ意味がない」

「うん、」

 ミカの声はかすかに震えた。ニーナはそれ以上言わなかった。兄が今どれだけ苦しんでいるのか、目を見ればわかるからだ。


 店の奥から、春人がこちらを見ている気配がした。ミカは拳をそっと握り、二週間ぶりに戻ってきた胸の奥の“居場所”に触れるように、静かに心を整えた。


「ニーナ、ちょっとお願い聞いて」

「なに?」

「俺ひとりじゃ、全部話し切れないから……一緒に言って」


 妹はため息をついた。呆れたように見せかけた、やさしいため息だった。


「最初からそのつもりよ。こういうの……兄さんだけだと、どうせ途中で泣くでしょ」

「泣かない」

「泣くわ」


 言い合いは短く、けれどそのやりとりの中で、二人はいつもの距離を取り戻していく。ニーナは軽く顎を上げ、春人のいるカウンターを指す。


「行きましょ、――終わらせるんじゃなくて。“始める”ためにね」


 ミカは一度、瞼を閉じた。そしてゆっくりと歩き出す。店の奥で春人が待っている。彼がこれから知ることは、“救い”にも“呪い”にもなり得る真実だ。

 それでも――もう逃げる理由は、誰にもなかった。











 ミカとニーナが並んで戻ってくると、春人はカウンターの向こうで静かに待っていた。まるで、ふたりの足音を数えるように。

 夕方の光が傾き、店内には柔らかな影が落ちていた。昼と夜の境目にある、その曖昧な光は、過去と現在が触れ合う瞬間のようにどこか不安定で、息を吸うたびに胸の奥がきしむ。ミカはゆっくりと春人の前に立つ。その仕草一つにさえ、“これから語るものの重さ”が滲んでいた。


「春人」


 声は静かで、いつもの軽やかさとは違う響きを持っていた。春人は姿勢を正した。緊張というより、ようやく辿りついた場所を確かめるような真剣さだった。

 ミカは一度だけ、ニーナと視線を交わす。“ここから先は二人で”そんな言葉を交わさずとも読めるやり取りだった。そしてミカは口を開いた。


「まず、謝らせて。……本当はもっと早く、言わなきゃいけなかったことだった」

 春人は何も言わず、ただ耳を傾ける。ミカの指先がわずかに震えた。それに気づいたのは、妹のニーナだけだった。


「春人。君が時々見ると言っていた“白い部屋の夢”は、あれは夢じゃない」

 春人の胸がひくりと揺れた。息をのむ音が、店の静寂に溶けていく。

「……夢じゃない?」

「記憶だよ。幼い頃に実際にあったことの」


 言ったあと、ミカは苦しそうに目を伏せた。春人が受ける衝撃を考えれば、それをまっすぐ見る勇気が、今だけは少し足りなかった。ニーナが続ける。感情を抑えるような、しかし鋭い声で。


「あなたも、私たちも……“あの場所”にいた。記憶に関する実験をしていた研究施設。そこで、同じように育てられていたの」


 春人の中で、記憶の断片が小さく鳴り始める。白い壁、冷たい金属。誰のものか分からない声。あの“冷たい光”。ずっと夢の名残だと思っていたものが、ゆっくり、形を取り戻していく。


「でも……俺は、何も覚えてないんですよ」

 辛うじて絞り出したその声は自分のものではないように震えていた。ミカが、春人の正面にそっと立った。逃げもしない、誤魔化しもしない、正面から向き合うための距離だった。


「覚えてないんじゃないよ。……覚えられなかったんだ」

 その言葉は静かで、けれど刃のように正確に心へ触れた。

「君は、実験の適性が出なかったんだ。本来ならそこで終わるはずだった。なのに――」


 言いかけて、ミカは言葉を止めた。喉がきつく詰まり、息の仕方さえ忘れそうになる。ニーナがそっと肩に手を置く。兄の背中へ触れるその手には、迷いのない力がこもっていた。

「――あなただけ、副作用が出たの。“記憶されない”という、逆のものがね」

 春人はゆっくりと瞼を閉じた。胸の奥に重たい何かが沈んでいく。無音のまま沈んでいく。
 ミカは続けようとして、一瞬ためらい、けれど覚悟を固めて口を開く。

「でも……副作用だけじゃない」

 春人は顔を上げた。ミカの瞳は深く揺れていた。その揺れは、恐れや後悔ではない。“愛着”に近い色だった。


「君はね――俺たちとは違う形で、適性があった」

「違う形……」

「実験が終わった後に出たデータだけど……君の脳は、“記憶が他者へ紐づかない”代わりに、“感情の残滓だけが相手に強く残る”って」

 ニーナが静かに補足する。

「つまり、あなたの存在は“薄い”んじゃない。記憶には残りにくいけど、“心には確実に残る”のよ」


 春人は言葉を失った。そんなふうに考えたことは一度もなかった。春人の胸が不思議な熱で満たされていく。痛みでも恐怖でもない、もっと柔らかい、名前をつけづらい熱だった。

 だが、ミカの表情はそこで一変する。静かに曇りを帯びる。

「――そして、たぶん。君の体質に最も興味を持っている人間がいる」

 春人の背筋に、冷たいものが下りた。

「例の“教授”ですか」

 ミカはうなずいた。

「アンドリュー・ベインズ。逃亡した元研究者で、今君を連れ戻そうとしている男だよ」



 夕暮れの光が完全に消え、店内に灯った照明が、三人の影を静かに揺らした。

 ここからすべてが始まった。そのことを、誰もが悟っていた。
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