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Chapter12 アンドリュー・ベインズという男
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閉店の灯りを消し、街灯の輪郭がガラスに淡く映る頃合い。店の中は、まだささやかな残響を抱えていた。
会話の余韻。コーヒーの微かな焦げた香り。椅子をきちんと畳む指先の音。そういった日常の断片が、その晩はいつもより少しだけ重たく感じられる。
外は冷え、空気が硬かった。ベインズは店の向かいの通りに佇み、古いコートの襟を立てていた。街灯が彼の横顔を白くなぞる。遠目には、ただの通りすがりの男にしか見えないだろう。だが、彼の視線は店の中の細部を吸い上げるように穏やかに動いていた。
──観察、記録、算段。
アンドリュー・ベインズの頭の中は、常にその三つの動詞で回る。元研究者としての癖は消えていない。
彼は慎重だった。慌てる必要はない。目の前にいるのは、結果の可能性を示す“素材”であり、時間の使い方は自分の都合で決められる。だが、悠長に構えている余裕もない。勝機はいつだって、状況が少しでも動いたときに握るものだ。
彼はポケットから薄いメモ紙を取り出し、ペン先で小さく走らせる。そこには簡潔に書かれていた
:「観察窓(外)→被験体、閉店後しばらく滞在。単独外出の傾向あり。アプローチは”治療”の口実で可。警戒:ストラウド兄妹。動きに注意。」
メモを折りたたみ、また胸ポケットに仕舞う。彼の唇が、わずかに歪む。後悔でも矜持でもない──計算の産物だ。彼が信じる論理は冷たいが、彼には正しいと映る。
閉店後、春人はカウンターの中で黙々と皿を拭いていた。耳には、二人分の小さな話し声がまだ引きずっている。店の外の気配など、気に留める余裕はない。
ベインズはその様子を見て、ゆっくりと歩みを進めた。迷い猫でも探すような足取りで、彼は店の前に戻る。扉に手をかける瞬間、彼の顔は最初に店に入った時と同じ穏やかさを取り戻している。
内側で鳴っている計算を、表情には決して漏らさない。必要なのは「安心」と「選択肢」。誰かに手を差し伸べさせ、相手に“選ばせる”ことだ。人は、自分で選んだと感じた時に最も協力的になる。
ベインズはノブを引き、小さな音を立てて扉を開けた。再び店内に入ると、明かりは落ちているがカウンターの上の一灯だけが淡く灯っていた。春人の影が灯の中で細く揺れている。彼は静かに、しかし確実に歩み寄った。
「また会いましたね」
声はまるで、近所の顔なじみのような調子だ。春人は振り向き、最初のときのような戸惑いが一瞬顔をよぎる。だが前回と違うのは、今はミカとニーナの目が傍らに宿っていないことだ。二人は奥で短く打ち合わせをしていた。状況は、ベインズにとって好都合だった。
「ちょっとだけ、あなたと話がしたくてね」
ベインズは言葉を落とす。
コートの内ポケットから、小さな白いカードを取り出し、春人の手元に置く。
「明日、外の診療所で短い検査をしてみませんか、治療の一環として。ただし協力が必要です」
カードの角には、見知った名前ではない、古い医療施設のロゴ。だが春人にとって重要なのはロゴではない。『治るかもしれない』という可能性だ。
ベインズは軽く頭を下げ、再び微笑む。誘い方は柔らかく、圧はない。同時に、彼の視線は一点だけ無意識にカウンター奥の棚を見た。そこに置かれた一袋のコーヒー豆、ミーが敷いた毛布、春人の使い慣れたマグカップ。すべては記録される。すべては、彼のデータベースに積まれていく。ベインズは立ち上がり、店を出る前に一言だけ残す。
「あなたが望むなら――私には、それを助ける手段があります。考えておいてください」
その声は優しく、救いを含んでいるようにも聞こえる。だが彼の背後で、夜の空気がもう一度冷たく引き締まるのを、彼は感じていた。
扉が閉まると、ベインズは通りに溶けるように消えた。遠くで、かすかな靴音が夜の舗道に消える。彼は逃げるつもりはない。次の機会を冷静に待ち、必要ならば“誘い”を重ねるだろう。科学者のように、彼は根気強く待つつもりだった。
カウンターの奥で春人はしばらくカードを眺めていた。紙の感触が手の間で揺れる。裏には、短く、ただ一文だけ書かれていた。
――「明日、聞かせてほしい。あなたのことを。」
夜は深まり、店の外では車のライトが細く伸びる。だが、春人の胸の中で何かがまた動き始めていた。それは期待かもしれないし、あるいは危機の予感かもしれない。どちらにせよ、夜はもう、後戻りのできない時間の端に差しかかっていた。
会話の余韻。コーヒーの微かな焦げた香り。椅子をきちんと畳む指先の音。そういった日常の断片が、その晩はいつもより少しだけ重たく感じられる。
外は冷え、空気が硬かった。ベインズは店の向かいの通りに佇み、古いコートの襟を立てていた。街灯が彼の横顔を白くなぞる。遠目には、ただの通りすがりの男にしか見えないだろう。だが、彼の視線は店の中の細部を吸い上げるように穏やかに動いていた。
──観察、記録、算段。
アンドリュー・ベインズの頭の中は、常にその三つの動詞で回る。元研究者としての癖は消えていない。
彼は慎重だった。慌てる必要はない。目の前にいるのは、結果の可能性を示す“素材”であり、時間の使い方は自分の都合で決められる。だが、悠長に構えている余裕もない。勝機はいつだって、状況が少しでも動いたときに握るものだ。
彼はポケットから薄いメモ紙を取り出し、ペン先で小さく走らせる。そこには簡潔に書かれていた
:「観察窓(外)→被験体、閉店後しばらく滞在。単独外出の傾向あり。アプローチは”治療”の口実で可。警戒:ストラウド兄妹。動きに注意。」
メモを折りたたみ、また胸ポケットに仕舞う。彼の唇が、わずかに歪む。後悔でも矜持でもない──計算の産物だ。彼が信じる論理は冷たいが、彼には正しいと映る。
閉店後、春人はカウンターの中で黙々と皿を拭いていた。耳には、二人分の小さな話し声がまだ引きずっている。店の外の気配など、気に留める余裕はない。
ベインズはその様子を見て、ゆっくりと歩みを進めた。迷い猫でも探すような足取りで、彼は店の前に戻る。扉に手をかける瞬間、彼の顔は最初に店に入った時と同じ穏やかさを取り戻している。
内側で鳴っている計算を、表情には決して漏らさない。必要なのは「安心」と「選択肢」。誰かに手を差し伸べさせ、相手に“選ばせる”ことだ。人は、自分で選んだと感じた時に最も協力的になる。
ベインズはノブを引き、小さな音を立てて扉を開けた。再び店内に入ると、明かりは落ちているがカウンターの上の一灯だけが淡く灯っていた。春人の影が灯の中で細く揺れている。彼は静かに、しかし確実に歩み寄った。
「また会いましたね」
声はまるで、近所の顔なじみのような調子だ。春人は振り向き、最初のときのような戸惑いが一瞬顔をよぎる。だが前回と違うのは、今はミカとニーナの目が傍らに宿っていないことだ。二人は奥で短く打ち合わせをしていた。状況は、ベインズにとって好都合だった。
「ちょっとだけ、あなたと話がしたくてね」
ベインズは言葉を落とす。
コートの内ポケットから、小さな白いカードを取り出し、春人の手元に置く。
「明日、外の診療所で短い検査をしてみませんか、治療の一環として。ただし協力が必要です」
カードの角には、見知った名前ではない、古い医療施設のロゴ。だが春人にとって重要なのはロゴではない。『治るかもしれない』という可能性だ。
ベインズは軽く頭を下げ、再び微笑む。誘い方は柔らかく、圧はない。同時に、彼の視線は一点だけ無意識にカウンター奥の棚を見た。そこに置かれた一袋のコーヒー豆、ミーが敷いた毛布、春人の使い慣れたマグカップ。すべては記録される。すべては、彼のデータベースに積まれていく。ベインズは立ち上がり、店を出る前に一言だけ残す。
「あなたが望むなら――私には、それを助ける手段があります。考えておいてください」
その声は優しく、救いを含んでいるようにも聞こえる。だが彼の背後で、夜の空気がもう一度冷たく引き締まるのを、彼は感じていた。
扉が閉まると、ベインズは通りに溶けるように消えた。遠くで、かすかな靴音が夜の舗道に消える。彼は逃げるつもりはない。次の機会を冷静に待ち、必要ならば“誘い”を重ねるだろう。科学者のように、彼は根気強く待つつもりだった。
カウンターの奥で春人はしばらくカードを眺めていた。紙の感触が手の間で揺れる。裏には、短く、ただ一文だけ書かれていた。
――「明日、聞かせてほしい。あなたのことを。」
夜は深まり、店の外では車のライトが細く伸びる。だが、春人の胸の中で何かがまた動き始めていた。それは期待かもしれないし、あるいは危機の予感かもしれない。どちらにせよ、夜はもう、後戻りのできない時間の端に差しかかっていた。
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