誰にも記憶されない男の話

LilN

文字の大きさ
13 / 21

Chapter12 アンドリュー・ベインズという男

しおりを挟む
 閉店の灯りを消し、街灯の輪郭がガラスに淡く映る頃合い。店の中は、まだささやかな残響を抱えていた。
 会話の余韻。コーヒーの微かな焦げた香り。椅子をきちんと畳む指先の音。そういった日常の断片が、その晩はいつもより少しだけ重たく感じられる。

 外は冷え、空気が硬かった。ベインズは店の向かいの通りに佇み、古いコートの襟を立てていた。街灯が彼の横顔を白くなぞる。遠目には、ただの通りすがりの男にしか見えないだろう。だが、彼の視線は店の中の細部を吸い上げるように穏やかに動いていた。

 ──観察、記録、算段。

 アンドリュー・ベインズの頭の中は、常にその三つの動詞で回る。元研究者としての癖は消えていない。

 彼は慎重だった。慌てる必要はない。目の前にいるのは、結果の可能性を示す“素材”であり、時間の使い方は自分の都合で決められる。だが、悠長に構えている余裕もない。勝機はいつだって、状況が少しでも動いたときに握るものだ。
 彼はポケットから薄いメモ紙を取り出し、ペン先で小さく走らせる。そこには簡潔に書かれていた

 :「観察窓(外)→被験体、閉店後しばらく滞在。単独外出の傾向あり。アプローチは”治療”の口実で可。警戒:ストラウド兄妹。動きに注意。」

 メモを折りたたみ、また胸ポケットに仕舞う。彼の唇が、わずかに歪む。後悔でも矜持きょうじでもない──計算の産物だ。彼が信じる論理は冷たいが、彼には正しいと映る。



 閉店後、春人はカウンターの中で黙々と皿を拭いていた。耳には、二人分の小さな話し声がまだ引きずっている。店の外の気配など、気に留める余裕はない。
 ベインズはその様子を見て、ゆっくりと歩みを進めた。迷い猫でも探すような足取りで、彼は店の前に戻る。扉に手をかける瞬間、彼の顔は最初に店に入った時と同じ穏やかさを取り戻している。

 内側で鳴っている計算を、表情には決して漏らさない。必要なのは「安心」と「選択肢」。誰かに手を差し伸べさせ、相手に“選ばせる”ことだ。人は、自分で選んだと感じた時に最も協力的になる。
 ベインズはノブを引き、小さな音を立てて扉を開けた。再び店内に入ると、明かりは落ちているがカウンターの上の一灯だけが淡く灯っていた。春人の影が灯の中で細く揺れている。彼は静かに、しかし確実に歩み寄った。


「また会いましたね」


 声はまるで、近所の顔なじみのような調子だ。春人は振り向き、最初のときのような戸惑いが一瞬顔をよぎる。だが前回と違うのは、今はミカとニーナの目が傍らに宿っていないことだ。二人は奥で短く打ち合わせをしていた。状況は、ベインズにとって好都合だった。

「ちょっとだけ、あなたと話がしたくてね」

 ベインズは言葉を落とす。
 コートの内ポケットから、小さな白いカードを取り出し、春人の手元に置く。

「明日、外の診療所で短い検査をしてみませんか、治療の一環として。ただし協力が必要です」

 カードの角には、見知った名前ではない、古い医療施設のロゴ。だが春人にとって重要なのはロゴではない。『治るかもしれない』という可能性だ。
 ベインズは軽く頭を下げ、再び微笑む。誘い方は柔らかく、圧はない。同時に、彼の視線は一点だけ無意識にカウンター奥の棚を見た。そこに置かれた一袋のコーヒー豆、ミーが敷いた毛布、春人の使い慣れたマグカップ。すべては記録される。すべては、彼のデータベースに積まれていく。ベインズは立ち上がり、店を出る前に一言だけ残す。

「あなたが望むなら――私には、それを助ける手段があります。考えておいてください」

 その声は優しく、救いを含んでいるようにも聞こえる。だが彼の背後で、夜の空気がもう一度冷たく引き締まるのを、彼は感じていた。




 扉が閉まると、ベインズは通りに溶けるように消えた。遠くで、かすかな靴音が夜の舗道に消える。彼は逃げるつもりはない。次の機会を冷静に待ち、必要ならば“誘い”を重ねるだろう。科学者のように、彼は根気強く待つつもりだった。

 カウンターの奥で春人はしばらくカードを眺めていた。紙の感触が手の間で揺れる。裏には、短く、ただ一文だけ書かれていた。

 ――「明日、聞かせてほしい。あなたのことを。」

 夜は深まり、店の外では車のライトが細く伸びる。だが、春人の胸の中で何かがまた動き始めていた。それは期待かもしれないし、あるいは危機の予感かもしれない。どちらにせよ、夜はもう、後戻りのできない時間の端に差しかかっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

処理中です...