誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter15 幼少期

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 白い部屋の中でも、さらに奥まった区画があった。廊下を曲がった先、ガラス越しに別の白が広がっている。そこは「測定室」と呼ばれていたが、幼い春人にとっては、ただ冷たくて、静かすぎる場所だった。

 床の白は、廊下よりもわずかに青みがかっていた。壁には機械の影が整列し、細い金属の腕がいくつもたたまれている。春人が踏み入れるたび、空気の粒子が震えた。機械が彼の体温を確かめるように、微かにモーター音を立てて身じろぎする。

「H、こちらへ。」

 淡々とした声。アンドリュー・ベインズ教授の声だった。
 春人は、まだその名前の重さを知らない。ただ「白い部屋の中で、いちばん落ち着いた声の大人」という印象だけが残っていた。彼は優しげな眉の形をしていた。だが、瞳の奥には光がなかった。光がないのに、反射だけはある。不思議な目だった。

 教授は春人を見おろし、データシートに視線を滑らせた。

「記憶保持率……今日も変動が大きい。面白いね。昨日の刺激を覚えているかな?」

 春人は言葉に詰まった。

「……たぶん」

 教授は笑う。声だけが柔らかいが、笑みは目に届いていない。

「いい。忘れるのが君の特性だからね。だが、その“忘却の速度”自体が記録されていく。今日はそれを測る。」

 その言い回しを春人はまだ理解できない。ただ、教授の目の奥で小さな数字が並ぶような気配だけを感じた。



 春人は椅子に座らされ、額に冷たい金属片を貼り付けられた。粘着のあるジェルが肌の上に広がり、薄い膜となって冷える。機械が立ち上がると、静かな空気に淡い振動が走った。

「では、昨日と同じ図形を見せるよ。三角形、四角形、星形……順番を覚えてね。」

 教授がタブレットを操作する。画面上に図形が点滅し、白い光が春人の目の裏側まで染み込んでくる。

 ――三角
 ――四角
 ――星

 単純なはずなのに、春人は光の後ろ側から何かが削れていく感覚を覚えた。図形そのものの輪郭が、頭の中でゆっくりと崩れていくのだ。まるで砂でできた形が誰かの手によって崩されていくように。形は残る。だが、どこまでが本当の形だったかが曖昧になる。教授の声が響く。

「では答えてみよう。最初に見たのは?」

 春人は口を開きかけ、言い淀む。三角だったはずだ。確かに三角だった。しかし、その形が急にぼんやりと溶けていく。

「……さんかく……?」

 教授の筆記が止まる。

「いいね。まだ保持されている。では最後に見た形は?」

 春人の喉が詰まる。星。輝いていたはずなのに、光がほどけて、ただ丸い光点に変わっていく。

「……まる?」

 教授はメガネを軽く押し上げる。

「――なるほど。やはり“保持”と“変形”が同時に起きる。君の脳は、記憶の輪郭を急速に“丸める”傾向がある。これは……実に興味深い。」

 その“興味”の意味を、春人はまだ知らない。



 測定室の壁には、ガラスの小窓があった。外の観察室がそこから見える。技師が三人、ペンを走らせ、モニターの波形を確認している。その中に、幼いミカとニーナの姿が映り込む瞬間があった。二人は別室の検査の合間に連れてこられ、ガラスの向こうから春人を見ていたのだ。ミカが幼い眉を寄せ、ニーナが不安げに口元を押さえている。
 春人はその視線に気づくと、思わず笑おうとした。だが、自分が笑ったかどうかすら、数秒後には曖昧になった。ミカが窓越しに何か言った気がする。

「はるひと、大丈夫だよ」と。

 小さな声。ガラスに阻まれた子どもらしい声。

 だがその声は、春人の中ですぐに薄くなり、残像だけが揺れる。教授はその様子を見て、不思議そうに眉を動かした。

「君は人の表情を覚えるのも苦手なのかな?
……いや、違うな。覚えられないのではなく、覚えたそばから削れていくんだ。実験記録にはこう記すべきかもしれない――“選択的忘却”。」

 春人の胸の奥でその言葉が鈍い音を立てた。



 測定が終わると、教授は白衣の袖を整え、機械のログを確認した。その背中からは疲労も喜びも感じられない。ただ、淡々と記録へと還元するようにデータを扱っている。観察室にいた技師がひそひそと囁く。

「特異点……だな、やっぱり」
「他の子とは反応が違いすぎる。脳波の揺れが……」
「それに、昨日の血液検査。変異マーカーが――」

 教授が一度だけ振り返り、静かに囁く。

「……口外するな。Hはプロジェクトの“核”だ。扱いを誤るなよ。」

 核。その言葉は、子どもの胸に意味を持たないまま沈み、やがて大人になった春人の中で黒い影を落とすことになる。

 春人は小さく息を吸い、消毒液の匂いと、金属の冷たい残り香を喉の奥にしまった。世界は白いのに、胸の内だけが、なぜか黒く濁っていく。
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