誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter16 ミカ・ニーナ幼少期

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 ガラス越しに見える白い部屋は、ふたりにとって“世界の中でいちばん静かな場所”だった。

 ミカは、椅子の端に腰かけながら、靴の先で床をとんとんと叩いている。彼の癖だ。不安や緊張を隠すとき、無意識にそうする。
 ニーナは兄の隣で、小さな手をぎゅっと握りしめていた。白い部屋の中に置かれた装置の音が、彼女の心臓の鼓動と不思議なほどよく似ていた。

 その向こうに、春人がいた。

 小さな体が大きな機械に囲まれ、額に貼られた金属片が光を反射している。ニーナは目を瞬かせる。その光は、まるで誰かが星の輪郭を削り落としたみたいだった。

「……はるひと、こわくないかな」

「多分、こわいと思うよ。でも、言わないだけだよ」

 ミカはため息混じりにそう言った。
 彼の声は年齢の割に落ち着いていて、空気の波が静かに広がる。
 窓の向こうで、春人がこちらを見た気がする。ニーナは瞬間的に手を振ろうとして、でも、春人の表情がすぐに曇るのを見て、手を止めた。

「……見えてるのに、届かないね」

 ニーナの小さな声が、観察室の明かりに吸い込まれていく。ミカは横目でニーナを見る。

「はるひとね、たぶん……自分が“薄くなる”の気づいてないよ」

「薄くなる?」

 ニーナは首をかしげる。
 ミカは言葉を探しながら、窓の向こうを見つめた。

「うまく言えないけど……見えてるのに、見逃したくなるっていうか…… 目を離すと、なんか……いた気がしなくなる」

「……それって、消えちゃうってこと?」

「違う。ちゃんといる。でも……曖昧になる」

 ミカの言葉は子どものものなのに、妙に精密だった。自分の中の記憶が異常に鮮明であるぶん、“春人にだけ起きている曖昧さ”が逆にはっきり分かるのだ。ニーナは不安げに窓に額を寄せた。

「ねえ、ミカ。はるひとの名前、わたし……ずっと忘れないよね?」

「うん。ぼくらは忘れない。だって全部覚えられるから」

 ミカの返事は自信に満ちていた。だが、その目にはわずかに影があった。

 ――覚えてしまうからこそ、気づいてしまう。春人が“薄れていく”特異性を。

 そのとき、白衣の大人がふたりを呼んだ。

「ミカ、ニーナ。次の検査に移るよ。」

 ニーナは窓から離れた。その瞬間、春人の姿が、まるで霞のように視界から遠ざかった気がした。
「あ……」思わず振り返ると、春人はまだそこにいる。でも“そこにいる”という実感が、さっきより少しだけ、弱かった。ミカがニーナの肩に手を置く。

「だいじょうぶ。ぼくらが見失わない限り……はるひとは、ちゃんと“いる”」

 それが、子どもだった二人なりの誓いだった。
 守れるかどうかも分からない、ただの祈りのような言葉。けれど、窓越しに見たあの日の春人の背中は二人の記憶に深く刻まれ、決して消えることはなかった。

 白い部屋は、三人の運命の中心として、静かに回り始めていた。
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