誰にも記憶されない男の話

LilN

文字の大きさ
18 / 21

Chapter17 幼少期

しおりを挟む
 測定室の奥に、さらに小さな部屋があった。

 扉には南京錠の痕が残り、覗き窓には曇り止めのような白い膜が貼られている。そこへ入ることを許されるのは、記号で言えば「核」に近しい者だけだった。
 技師たちはその前を通ると微かに礼をする習慣があった。礼と言っても、それは儀礼的なもので、祈りのようなものではない。ただ、何かに触れる前の慎重さという名のしぐさだ。

 ベインズはその部屋のドアを開けるとき、いつも少しだけ息を吸い、肩の力を抜いた。外から見ると、彼は落ち着いた研究者の輪郭をしている。だが、扉を閉めるとき、その背中には常に計算と孤独が貼りついている。彼は自分の手を嫌ってはいなかった。手はデータを取り、手はモノを触り、手は結果を掴む。だがその手で愛情を測ることはできないと、どこかで知っていた。
  

 春人は幼く、ベッドの白い布に腕を伸ばすときに、いつもその部屋の外の音と内の無音の差をわずかに感じていた。外側では技師たちが囁き合い、紙をめくる音がする。内側では、機械が規則正しく呼吸している。
 ベインズは春人を前にして、機械のディスプレイに映る波形を静かに眺め、鉛筆で何かを書き留める。彼の眉の動きは小さいが、瞬間の判断を示すちょうど良い振幅を持っていた。

「Hは、目の前の形を『覚える』より先に、それを『変形』してしまう」

 ベインズは、自分のノートにそう走り書きする。
 彼の文字は実験ノートにおいては厳格で、無駄がなかった。だが紙の端には鉛筆の圧痕が二重に残り、読み取れるもの以上の緊張がそこに残る。

 春人の額に当てられた金属片が冷たく光る。ベインズは、サンプルを取るふりで春人の手首に触れ、指先の微かな震えを確かめた。震えは、恐怖だけではない。倦怠や、見えない世界への拒絶、そして時折現れる「空白の目」への耐性の現れかもしれない。
 彼は測定機のログを開き、波形の微細なズレを探る。データは数字であり、数字は言い訳をしない。 


 観察室の窓越しに映る幼いミカの顔は、まだあどけない。彼は何度もメモを取り、春人の顔の輪郭を目に焼きつけるように見つめていた。ニーナは手を組み、小さな体を硬くしている。
 二人は“全部を覚える”器を持っているからこそ、春人の揺らぎを他人事にはできなかった。彼らの視線は、ただの同情ではなく“記録の保全者”としての厳しさを含んでいる。


 ベインズは、子どもたちを見つめる自分の役割をよく分かっていた。彼の言葉はいつもソフトだ。軟化した言葉であれば、協力は取り付けやすい。だがその柔らかさの裏側には常に計画がある。
 彼は「治療」と「実験」の境界を曖昧にしながら歩いてきた。倫理という言葉は、研究という名の地図の上に彼が引いた小さな脚注に過ぎなかった。


 ある午後、ベインズは春人の波形をじっと見つめた後、観察室の技師に小さな指示を出した。モニター上の数値が急に跳ねる。技師が眉を寄せる。ベインズの口元に薄い笑みが浮かぶ。

「興味深いね。Hは他と違う反応を示す。揺らぎの幅が大きい。記録しておけ。」

「先生、これは……」

 若い技師が言いかける。彼の声には緊張が滲んでいた。

「仮説はある」ベインズが答える。声は安定しているが、内面は熱を帯びていた。

「だが、まだ言葉にするには早い。データを積め。時間が示すはずだ。」

 彼は春人の額のプローブを外し、軽く頭を撫でるように見せかけた。その手つきは確かに優しい。ただし、その優しさは結果を生むための予備行為に近い。春人の皮膚に残る冷たさを感じながら、ベインズの目は僅かに細まる。そこに後悔はない。あるのは計算の確信だ。


 日々の測定と、その後に続く夜のノート書き。
 ベインズは孤独に向き合い、孤独を友とした。彼は被験体を「材料」ではなく「現象」と呼んだ。材料に情が移れば結果は狂う。しかし、現象には美がある。彼は美を求めるように、データの波形を追った。

 春人のデータは、他のどれとも異なる波形を描いた。鋭く、しかしすぐに反復が途切れる。ある種の「消失」の様相を示している。その“消失”を補足するために、ある日ベインズは少し違った刺激を用意した。
 視覚ではなく、匂いだ。子供の記憶は匂いに反応しやすい。彼は、春人の枕元に小さな布片を置いた。布には古い紙の匂い、鉄の匂い、そして誰かが笑うときに残る甘い匂いをほんのわずかに混ぜた。匂いが脳のどの回路を刺激するかを知りたかったのだ。実験というより、確証のための遊びに近かった。

 春人は布を胸に抱いた。目を閉じる。顔がふっと緩んだ瞬間、観察室のモニターが小さな閾値を超えた。ベインズはノートに速記する。

「嗅覚トリガーで一時的保持増加。持続性は短い」。

 技師たちは興奮を隠せない。ミカは窓越しに固まる。彼らにはこの“短い持続”が何を意味するか、おおよそ察しがついていた――それは、春人の記憶が外部の手段で僅かに引き出せる一方で、独自に定着しない性質を示していた。


 ある夜、ベインズは実験ノートを閉じ、窓の外の街灯を眺めた。
 彼の表情は疲れているが、その背後には淡い満足がある。彼は心のどこかで、春人の「消失」に対して責任があると微かに感じていたかもしれない。責任感と執着は紙一重だ。彼は自らの手で“救済”を演出できるという幻想を捨てられなかった。そうして彼は、自分が設計した問いに縛られていった。
 しかしベインズは同時に知っていた。科学は慈悲ではない。誰かを“治す”ための施策が、別の誰かの犠牲を生む可能性は常に存在する。彼はそのリスクを承知のうえで、実験の継続を選んだ。研究者とはそういう存在だと、彼は自分に言い訳をする。だが誰もその言い訳を完全に正当化できはしない。
 彼のノートの端には、たびたび赤いペンで小さな斜線が引かれていた。それは倫理委員会の警告ではなく、彼自身の胸の小さな痛みを示す記号だった。



 春人はある夜目を覚ますと、見知らぬ形をした機械が枕元で微かに動いているのに気づく。白粉の匂い、冷えた空気、そして機械の小さな光。ベインズが近寄り、低い声で囁く。

「大丈夫だ。これは君が安全であるための検査だよ。」

 春人はベインズの声に反応し、頷いた。信頼は直線的に育つものではなく、短い光の断片で積み重なっていく。春人が抱いた安心もまた、その積み重ねの一つだった。
 だが記録が示すのは違った真実だった。ベインズの治療的手つきは、春人の脳のある回路を刺激する一方で、別の回路を摩耗させるようだった。それは意図した結果なのか偶然の副作用なのか。ベインズですら最初は判別できなかった。
 しかし彼は、いつしか「この子は私の問いの答えそのものだ。」と言い切るようになっていた。


 幼い日の終わり、夜の蛍光灯がいつものように点滅を繰り返す中、ベインズは独りでノートをめくる。そこには数字と「H : 変異」という文字が、静かに並んでいた。
 彼はその文字を、ただの記録の一部として扱うことはできなかった。そこには希望も、恐怖も、そして不可逆の決断の予兆が含まれているように思えた。



 春人は眠りに落ちる前に、遠くの窓の向こうで小さな人影が揺れているのを見た。ミカとニーナだ。二人の影は子どもの線を保ちながら、やがて夜の中に溶けていった。
 春人はそれを見て、いつか誰かが声をかけてくれるなら、きっとそこに戻れるだろうと、ぼんやりと信じた。だが白い部屋は、そう容易に返事をしない。


 ベインズの記録は残った。音も、匂いも、光も、機械の波形も。データはどこまでも冷たく、測定の先にある倫理をやわらかく覆い隠してしまう。だがいくら数字が整っても、結果が人間の痛みを消すわけではない。ベインズは知っていた。それでも、彼はページをめくり続ける。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

処理中です...