誰にも記憶されない男の話

LilN

文字の大きさ
19 / 21

Chapter18

しおりを挟む
 白い天井が、遠くから手招きするように揺れていた。
 
 春人はゆっくりと瞼を上げる。視界の輪郭がぼやけ、白い部屋の残像だけがしつこく張り付いて離れない。あの回想は、夢ではなかった。どこか奥深くに沈んでいたはずの記憶が、急激に浮上した痛みに似ている。
 喉がひどく乾いていた。呼吸が浅く、胸の奥で何かがまだ機械のリズムを刻んでいるような気がする。

 目を横に向けると、ミカがこちらを覗き込み、眉間に微かな皺を寄せているのが見えた。ニーナはミカのすぐ隣に座り、両手を膝に強く握りしめていた。

「……春人、戻ってきた?」

 ミカの声は、子どものころと変わらない穏やかさを帯びていた。しかしその柔らかさの裏に、明らかな緊張の線が走っていた。春人はすぐに返答ができなかった。舌の上に、金属の味のような記憶が残っている。

「……今の、全部……俺、何見て」

 言葉が途中で途切れた。だが、ミカとニーナには十分に伝わったらしい。 二人は短い視線を交わす。沈黙が一度落ちる。まるで部屋の温度がほんの少し下がったような気配だった。ミカが小さく息を吸う。

「思い出したんだね。あの場所のこと」

 春人はゆっくり頷く。頷いた瞬間、胸の奥がずきりと痛む。あの白い部屋の匂い。ベインズの低い声、機械の波形。春人は自分の手を握り、まだ残る震えを押さえようとした。



 ミカは一度深く息を吸い、言葉を探すように視線を落とした。 その仕草はいつもの柔らかい話し方とは違う。 語るべきものが重すぎて、言葉の重さを均衡させようとしているのだと春人には分かった。

「春人。君の体質が“周囲に記憶されない”
 ――あれは、偶然の産物じゃない」

 春人は黙って聞く。何を言われても、今は逃げないと決めたからだ。ミカが続ける。

「俺とニーナは、あの研究室で育てられた。“完全記憶保持者を作る”なんて名目で、幼い子どもを集めてね。対象のほとんどは何の変化も示さなかった。でも……」

 ミカは一度、春人を見る。その視線には、言葉以上のものがこもっている。

「……君だけが、“違う反応”を示した」 

 ニーナが続けた。彼女の声はいつものように明るく軽くはない。ただ、事実を正確に運ぶための声音だった。

「脳の一部が過剰に反応して、“記憶の残留を消す”方向に作用してしまったの。誰かの脳に焼き付くべき“あなた”の存在情報が、薄れてしまう。
 覚えられないのではなく――認識として定着しないの」

 春人は静かに息を吐いた。 その説明は今まで曖昧に感じていた違和感を一気に形にしていく。

 “俺は、存在がその人の中に留まらないのか。”

 その事実の残酷さに、胸の奥がひどく痛んだ。ミカは少しだけ目を伏せる。

「その反応を見たとき、ベインズは……君に興味を持った。“完全記憶”よりも、“消去”の方が軍事的価値があるからね。そんなふざけた理由で、君は特別扱いされた」

 春人は喉の奥がつまるのを感じる。あの白い部屋の冷気がまた少し戻ってきた気がした。

「でも」

 ミカはかすかに微笑む。
 それは誰かを慰めるためではなく、自分を鼓舞するための微笑みだった。

「俺たちは……君をあの中に置いておきたくなかった。君が“記憶されない子”として扱われるのをこれ以上見ていたくなかった」 

 ニーナが春人の方へ身体を向け、まっすぐに言う。

「だから、逃がしたの。当時の君は覚えていないでしょうけど――あなたを研究室の外に出したのは、私とミカよ。危険だと分かっていても、そうするしかなかった」

 春人は息を呑んだ。胸の奥がゆっくりと、しかし確かに熱を帯びていく。

「……なんで、そこまで」

 自分でも驚くほど弱々しい声だった。しかしミカとニーナは、その問いに迷いなく答えた。

「……助けたかったから」

 ミカは静かに言う。

「君が、ただの“失敗例”として扱われるのが許せなかった。君は誰より優しくて、誰より孤独だった。
あんな場所で壊されるために生まれたわけじゃないでしょ」

 ニーナも言葉を重ねる。

「それに……あなたの“消える体質”は、外で生きる方が安全だと私たちは信じた。人の目に生まれつき残りづらいなら、その分、逃げる時間は稼げる。そう考えたのよ」

 春人は目を閉じる。胸の奥で、誰かが長く凍らせていたものが溶けはじめる音がした。逃がされていた。研究対象ではなく、人間として扱われるために。ミカがそっと春人の隣に座る。椅子がかすかに軋む音が奇妙にあたたかかった。

「でも……ごめん。結果的に、君を一人にした。記憶されない世界で、どれだけ不安だったか――本当は、想像したくもない」

 春人は首を振り薄く笑った。涙が滲みそうになり、慌てて目を逸らした。

「……違いますよ。俺は、一人じゃなかったです。
あなたたちが覚えてくれていたから」

 ミカはゆっくりと春人を見つめ、そして初めてその顔に明らかな安堵が浮かんだ。ニーナも、ふっと息をつき、肩の力を抜いた。



 静かな時間が流れる。その沈黙は、痛みを含んだままでもどこか優しかった。ミカがぽつりと言った。

「――ねえ、これからどうしたい?」

 その問いは重く、そして自由だった。春人はすぐには答えられなかった。けれど胸の奥で、明確にひとつのものが形を取り始める。

 “このままでいたくない”
 “存在を薄められるまま、過去に縛られていたくない”

 春人は目を閉じ、深く息を吸い込む。胸の奥にずっと眠っていた痛みが、ゆっくりと溶けていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

処理中です...