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Chapter18
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白い天井が、遠くから手招きするように揺れていた。
春人はゆっくりと瞼を上げる。視界の輪郭がぼやけ、白い部屋の残像だけがしつこく張り付いて離れない。あの回想は、夢ではなかった。どこか奥深くに沈んでいたはずの記憶が、急激に浮上した痛みに似ている。
喉がひどく乾いていた。呼吸が浅く、胸の奥で何かがまだ機械のリズムを刻んでいるような気がする。
目を横に向けると、ミカがこちらを覗き込み、眉間に微かな皺を寄せているのが見えた。ニーナはミカのすぐ隣に座り、両手を膝に強く握りしめていた。
「……春人、戻ってきた?」
ミカの声は、子どものころと変わらない穏やかさを帯びていた。しかしその柔らかさの裏に、明らかな緊張の線が走っていた。春人はすぐに返答ができなかった。舌の上に、金属の味のような記憶が残っている。
「……今の、全部……俺、何見て」
言葉が途中で途切れた。だが、ミカとニーナには十分に伝わったらしい。 二人は短い視線を交わす。沈黙が一度落ちる。まるで部屋の温度がほんの少し下がったような気配だった。ミカが小さく息を吸う。
「思い出したんだね。あの場所のこと」
春人はゆっくり頷く。頷いた瞬間、胸の奥がずきりと痛む。あの白い部屋の匂い。ベインズの低い声、機械の波形。春人は自分の手を握り、まだ残る震えを押さえようとした。
ミカは一度深く息を吸い、言葉を探すように視線を落とした。 その仕草はいつもの柔らかい話し方とは違う。 語るべきものが重すぎて、言葉の重さを均衡させようとしているのだと春人には分かった。
「春人。君の体質が“周囲に記憶されない”
――あれは、偶然の産物じゃない」
春人は黙って聞く。何を言われても、今は逃げないと決めたからだ。ミカが続ける。
「俺とニーナは、あの研究室で育てられた。“完全記憶保持者を作る”なんて名目で、幼い子どもを集めてね。対象のほとんどは何の変化も示さなかった。でも……」
ミカは一度、春人を見る。その視線には、言葉以上のものがこもっている。
「……君だけが、“違う反応”を示した」
ニーナが続けた。彼女の声はいつものように明るく軽くはない。ただ、事実を正確に運ぶための声音だった。
「脳の一部が過剰に反応して、“記憶の残留を消す”方向に作用してしまったの。誰かの脳に焼き付くべき“あなた”の存在情報が、薄れてしまう。
覚えられないのではなく――認識として定着しないの」
春人は静かに息を吐いた。 その説明は今まで曖昧に感じていた違和感を一気に形にしていく。
“俺は、存在がその人の中に留まらないのか。”
その事実の残酷さに、胸の奥がひどく痛んだ。ミカは少しだけ目を伏せる。
「その反応を見たとき、ベインズは……君に興味を持った。“完全記憶”よりも、“消去”の方が軍事的価値があるからね。そんなふざけた理由で、君は特別扱いされた」
春人は喉の奥がつまるのを感じる。あの白い部屋の冷気がまた少し戻ってきた気がした。
「でも」
ミカはかすかに微笑む。
それは誰かを慰めるためではなく、自分を鼓舞するための微笑みだった。
「俺たちは……君をあの中に置いておきたくなかった。君が“記憶されない子”として扱われるのをこれ以上見ていたくなかった」
ニーナが春人の方へ身体を向け、まっすぐに言う。
「だから、逃がしたの。当時の君は覚えていないでしょうけど――あなたを研究室の外に出したのは、私とミカよ。危険だと分かっていても、そうするしかなかった」
春人は息を呑んだ。胸の奥がゆっくりと、しかし確かに熱を帯びていく。
「……なんで、そこまで」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。しかしミカとニーナは、その問いに迷いなく答えた。
「……助けたかったから」
ミカは静かに言う。
「君が、ただの“失敗例”として扱われるのが許せなかった。君は誰より優しくて、誰より孤独だった。
あんな場所で壊されるために生まれたわけじゃないでしょ」
ニーナも言葉を重ねる。
「それに……あなたの“消える体質”は、外で生きる方が安全だと私たちは信じた。人の目に生まれつき残りづらいなら、その分、逃げる時間は稼げる。そう考えたのよ」
春人は目を閉じる。胸の奥で、誰かが長く凍らせていたものが溶けはじめる音がした。逃がされていた。研究対象ではなく、人間として扱われるために。ミカがそっと春人の隣に座る。椅子がかすかに軋む音が奇妙にあたたかかった。
「でも……ごめん。結果的に、君を一人にした。記憶されない世界で、どれだけ不安だったか――本当は、想像したくもない」
春人は首を振り薄く笑った。涙が滲みそうになり、慌てて目を逸らした。
「……違いますよ。俺は、一人じゃなかったです。
あなたたちが覚えてくれていたから」
ミカはゆっくりと春人を見つめ、そして初めてその顔に明らかな安堵が浮かんだ。ニーナも、ふっと息をつき、肩の力を抜いた。
静かな時間が流れる。その沈黙は、痛みを含んだままでもどこか優しかった。ミカがぽつりと言った。
「――ねえ、これからどうしたい?」
その問いは重く、そして自由だった。春人はすぐには答えられなかった。けれど胸の奥で、明確にひとつのものが形を取り始める。
“このままでいたくない”
“存在を薄められるまま、過去に縛られていたくない”
春人は目を閉じ、深く息を吸い込む。胸の奥にずっと眠っていた痛みが、ゆっくりと溶けていく。
春人はゆっくりと瞼を上げる。視界の輪郭がぼやけ、白い部屋の残像だけがしつこく張り付いて離れない。あの回想は、夢ではなかった。どこか奥深くに沈んでいたはずの記憶が、急激に浮上した痛みに似ている。
喉がひどく乾いていた。呼吸が浅く、胸の奥で何かがまだ機械のリズムを刻んでいるような気がする。
目を横に向けると、ミカがこちらを覗き込み、眉間に微かな皺を寄せているのが見えた。ニーナはミカのすぐ隣に座り、両手を膝に強く握りしめていた。
「……春人、戻ってきた?」
ミカの声は、子どものころと変わらない穏やかさを帯びていた。しかしその柔らかさの裏に、明らかな緊張の線が走っていた。春人はすぐに返答ができなかった。舌の上に、金属の味のような記憶が残っている。
「……今の、全部……俺、何見て」
言葉が途中で途切れた。だが、ミカとニーナには十分に伝わったらしい。 二人は短い視線を交わす。沈黙が一度落ちる。まるで部屋の温度がほんの少し下がったような気配だった。ミカが小さく息を吸う。
「思い出したんだね。あの場所のこと」
春人はゆっくり頷く。頷いた瞬間、胸の奥がずきりと痛む。あの白い部屋の匂い。ベインズの低い声、機械の波形。春人は自分の手を握り、まだ残る震えを押さえようとした。
ミカは一度深く息を吸い、言葉を探すように視線を落とした。 その仕草はいつもの柔らかい話し方とは違う。 語るべきものが重すぎて、言葉の重さを均衡させようとしているのだと春人には分かった。
「春人。君の体質が“周囲に記憶されない”
――あれは、偶然の産物じゃない」
春人は黙って聞く。何を言われても、今は逃げないと決めたからだ。ミカが続ける。
「俺とニーナは、あの研究室で育てられた。“完全記憶保持者を作る”なんて名目で、幼い子どもを集めてね。対象のほとんどは何の変化も示さなかった。でも……」
ミカは一度、春人を見る。その視線には、言葉以上のものがこもっている。
「……君だけが、“違う反応”を示した」
ニーナが続けた。彼女の声はいつものように明るく軽くはない。ただ、事実を正確に運ぶための声音だった。
「脳の一部が過剰に反応して、“記憶の残留を消す”方向に作用してしまったの。誰かの脳に焼き付くべき“あなた”の存在情報が、薄れてしまう。
覚えられないのではなく――認識として定着しないの」
春人は静かに息を吐いた。 その説明は今まで曖昧に感じていた違和感を一気に形にしていく。
“俺は、存在がその人の中に留まらないのか。”
その事実の残酷さに、胸の奥がひどく痛んだ。ミカは少しだけ目を伏せる。
「その反応を見たとき、ベインズは……君に興味を持った。“完全記憶”よりも、“消去”の方が軍事的価値があるからね。そんなふざけた理由で、君は特別扱いされた」
春人は喉の奥がつまるのを感じる。あの白い部屋の冷気がまた少し戻ってきた気がした。
「でも」
ミカはかすかに微笑む。
それは誰かを慰めるためではなく、自分を鼓舞するための微笑みだった。
「俺たちは……君をあの中に置いておきたくなかった。君が“記憶されない子”として扱われるのをこれ以上見ていたくなかった」
ニーナが春人の方へ身体を向け、まっすぐに言う。
「だから、逃がしたの。当時の君は覚えていないでしょうけど――あなたを研究室の外に出したのは、私とミカよ。危険だと分かっていても、そうするしかなかった」
春人は息を呑んだ。胸の奥がゆっくりと、しかし確かに熱を帯びていく。
「……なんで、そこまで」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。しかしミカとニーナは、その問いに迷いなく答えた。
「……助けたかったから」
ミカは静かに言う。
「君が、ただの“失敗例”として扱われるのが許せなかった。君は誰より優しくて、誰より孤独だった。
あんな場所で壊されるために生まれたわけじゃないでしょ」
ニーナも言葉を重ねる。
「それに……あなたの“消える体質”は、外で生きる方が安全だと私たちは信じた。人の目に生まれつき残りづらいなら、その分、逃げる時間は稼げる。そう考えたのよ」
春人は目を閉じる。胸の奥で、誰かが長く凍らせていたものが溶けはじめる音がした。逃がされていた。研究対象ではなく、人間として扱われるために。ミカがそっと春人の隣に座る。椅子がかすかに軋む音が奇妙にあたたかかった。
「でも……ごめん。結果的に、君を一人にした。記憶されない世界で、どれだけ不安だったか――本当は、想像したくもない」
春人は首を振り薄く笑った。涙が滲みそうになり、慌てて目を逸らした。
「……違いますよ。俺は、一人じゃなかったです。
あなたたちが覚えてくれていたから」
ミカはゆっくりと春人を見つめ、そして初めてその顔に明らかな安堵が浮かんだ。ニーナも、ふっと息をつき、肩の力を抜いた。
静かな時間が流れる。その沈黙は、痛みを含んだままでもどこか優しかった。ミカがぽつりと言った。
「――ねえ、これからどうしたい?」
その問いは重く、そして自由だった。春人はすぐには答えられなかった。けれど胸の奥で、明確にひとつのものが形を取り始める。
“このままでいたくない”
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春人は目を閉じ、深く息を吸い込む。胸の奥にずっと眠っていた痛みが、ゆっくりと溶けていく。
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