誰にも記憶されない男の話

LilN

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Chapter19

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 春人が幼いころの記憶を取り戻してから、まだ数日しか経っていない。その後すぐ、熱に似た倦怠感に襲われ、二日ほど寝込んだ。回復した今でも、体の奥に柔らかな痕跡のような疲れが残っている。

 店の空気は、表面上だけなら以前と変わらない。開店前の静けさ、まだ冷たい朝の光、ミカが手際よく動かすカップの音。ニーナはカウンターで頬杖をつき、スマートフォンの画面を忙しなく指先で払っていた。仕事の連絡に追われながらも、片目だけは春人の動きを捉えている。

 ――ただ、その穏やかさの底に、春人はかすかな「揺れ」を感じていた。

 胸の奥に触れたあの記憶は、すぐに消えていくことなく、薄い灯のように意識の端に居座り続けている。それは痛みではなく、むしろ懐かしさに近い感触で、日常の景色にほんの少し重みを与えていた。
 
 その“重み”を見透かしたかのように、ミカが声をかけてくる。重い豆袋を軽々と肩に抱えながら、ふっと笑う横顔には、あの出来事以来、ひそかな柔らかさが増しているように思える。

「無理しないで、今日はゆっくりでいいから」 

 春人は小さく頷いた。身体はもう動く。ただ、以前よりも――少しだけ世界が“深く”見える気がした。音の隙間、光の角度、誰かの表情の揺れ。そのどれもが、忘れていたはずの感覚を二つ、三つ引き戻していく。

 
 ふいに、ニーナがスマートフォンを置き春人の顔をのぞき込んだ。息を潜めるような琥珀色の瞳。観察者の目だ。

「……ねえ、春人」
「なんですか?」
「すこし、顔つきが変わった?」
「……人の顔は簡単には変わらないですよ」
「でも変わったのよ。覚悟した人の顔になった感じ」

 ミカが笑って言う。

「ニーナは言い方がちょっと強引」
「兄さんには言われたくないわ」

 そのやりとりを見て春人も、ふっと笑った。
 ――日常は、戻りつつある。だが同時に、戻りきらない何かもある。
  

 その“何か”が形を持ち始めたのは、夕方だった。店が一段落し、春人がストック棚を整理していると、背後からミカが声をかけた。

「春人、これ」

 白い封筒だった。差出人の欄には、見慣れない外国の郵便局名が記されている。

 宛名は──春人の本名。施設時代に使われていた、あの名前。春人の指先が、無意識に震えた。ミカはゆっくりと言う。

「内容を読むかどうかは……任せるけど」

 ニーナも息を潜めるようにして見守っていた。春人は封筒を開く。中には、一枚の紙だけ。


 ──『君の体質は“修復可能”だ。
   今度こそ、正式な手順で話をしよう。
   場所は、君が初めて外の空気を吸ったあの公園で。
   三日後の夜。
          ──アンドリュー・ベインズ』


 春人は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。胸の奥で生温いものがうごめく。期待なのか、恐怖なのか。それとも、ただの過去の影か。ミカが紙を見つめながら低く唸った。

「まったく、諦めが悪いな」

 ニーナが春人の顔を真っ直ぐに見据える。

「春人。この誘い行きたい?」

 春人は答えられないまま、封筒を握りしめた。本当に自分の体質が“変わる”可能性があるのなら。一瞬だけ、迷いが過ったことは否定できない。けれど同時に、ミカとニーナが自分を見つめる目に、温度があることも確かだった。

 ――過去と未来の間に立ち尽くしながら、春人は言葉を探していた。

 そして、その沈黙のゆらぎの中で、夜の気配だけが静かに部屋へ滲み始めていた。




 ーーーー




 三日という時間は、驚くほど速く過ぎた。春人は日々の仕事をこなしながらも、意識の片隅であの封筒が静かに疼き続けていた。

 ――“修復可能”。

 その言葉は、希望の形をしていながら、どこか冷えた手触りをしていた。ミカもニーナも、前のめりに止めるようなことは言わなかった。ただ、春人の選択を尊重するという姿勢で寄り添っていた。
 夕暮れの店で、春人は静かに告げた。

「行きます。逃げないで、ちゃんと向き合いたい」

 ミカは短く頷き、ニーナは腕を組んで「まあ、そう言うと思った」と小さく漏らした。

 その夜、春人はなかなか眠れなかった。天井を見上げると、幼い自分が白い光の中で横たわっている姿が、フラッシュの残像のように浮かんだ。でも、その記憶にもう怯えてはいなかった。ミカとニーナが側にいたから。その一点だけは、確かで揺らぎようがなかった。




 ーーーー




 三日後の夜、約束の時刻。公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。冬の夜気が地面近くで揺らぎ、葉の落ちた並木が黒い影を長く伸ばしている。街灯の淡い光が、落ち葉に沈むベンチを照らしていた。そこに――男はいた。背筋の通った姿勢。薄いコートの裾が風にかすかに揺れる。近づくにつれて、あの無機質な瞳の色が浮かび上がる。アンドリュー・ベインズ教授。春人を一度は実験材料として扱い、その後も“観察対象”として追い続けた男。彼は、迷子を待つような静けさで春人を見た。

「来てくれて嬉しいよ、春人くん」

 春人は答えない。教授は構わず続ける。

「思い出したようだね。あの白い部屋のことも、あの処置の痛みも」

 春人は小さく息を吸う。

「思い出したくて思い出したわけじゃありません。ただ、この秘密をもう知らないままでいたくなかった」

 教授は口元だけ微笑む。その笑みに温度はない。

「君は特別だった。“完全記憶保持者”ではなく、“情報同化阻害体質”――もっと珍しい。本来なら存在しないはずの、逸脱」

 春人の胸に寒気が走る。その言葉は、かつて聞いた“失敗例”という評価に通じていた。教授の靴音が砂利を踏む。


「君の体質は、治せる可能性がある。あの時より技術は進んだ。たった一度、再処置すれば――」

 春人は首を振った。

「……俺を、またあそこへ戻すつもりなんですか?」

 教授は答えない。ただ、目に宿る光だけが物語っている。――“Yes”だ、と。

 春人の背中に冷たい風が吹いた。だがそのすぐ後ろで、空気が微かに揺れた。気配。人の気配だ。春人は気づいていなかったが、教授は気づいていた。

「……隠れているつもりかい?ミカくん。君たちストラウド兄妹も本当に懲りないね」


 木陰から、二つの影がゆっくり歩み出る。ミカのまなざしは鋭く、ニーナは春人を庇うように一歩前に出た。

「春人を連れて行くつもりなら相応の覚悟が必要よ」

 ニーナの声はいつになく低かった。
 教授は、ほんの僅か眉を動かした。

「成長したね。逃げ出した子どもたちが、こんなにも強くなるとは」

 ミカは春人の隣に立つ。

「教授。春人を“修復”なんて言葉で取り戻そうとしている時点で、あなたは何も変わってない」

 教授は淡々と返す。

「変わる必要などない。“研究は人間より価値がある”ずっとそう教えられてきた」

 言い終えると、教授は静かに春人へ手を差し出した。

「春人くん。もう一度だけ言うよ。君は“直せる”。このまま消えていく存在で終わる必要はない。
 選びなさい。――私か、彼らか」





 夜気が張りつめる。呼吸さえ凍るほどの沈黙。春人の心臓は、今まででいちばん大きく脈打っていた。ミカとニーナは声を出さない。ただ、そこに“いてくれる”。教授の瞳は、感情の影ひとつなく春人を待っていた。
 ――春人は、どう答えるのか。その一歩の先に、未来が左右される。春人は口を開いた。

「俺は――」

 その瞬間、公園の遠くで、低いエンジン音が響いた。誰もが僅かにそちらへ視線を向ける。街灯の向こうに、黒い車が一台、静かに――まるで“捕獲の瞬間”を狙う獣のように――近づいてきていた。
 黒い車は、公園の入り口でゆっくりと停止した。エンジン音が止むと、冬の空気は急に薄い膜をまとったように静まり返る。その静寂を破るように、車から二人の人物が降り立った。

 黒い防風コート。胸元には所属を示すバッジがわずかに光る。その立ち姿は、民間とは思えない重さを帯びていた。
 春人にはわからなかったが、ミカとニーナは、一瞬で察した。

 ――あの研究組織ではない。
 ――だが、彼らを“監視していた”もう一つの機関。

「お久しぶりです、ベインズ教授」

 年長の男が、丁寧な口調で言った。だがその声には、感情の温度が一切なかった。教授はまぶたを伏せ、息を短くつく。「……君たちもいたのか」その言葉には悔しさも怒りもない。ただ、“そうなるだろう”とわかっていた者の諦念だけがある。

 ミカは春人の前に立ち、ニーナは春人の腕をそっと引いた。その間にも、機関の二人は淡々と告げる。

「ベインズ教授。あなたには無許可研究・遺失データの窃取・実験体の不正連行など、多数の容疑がかけられています。同行をお願いできますか?」

 教授は抵抗しなかった。むしろ、静かに両手を差し出した。捕まることすら、研究の延長のように。これが幕引きか。


 冷たい手錠の音が“カチリ”と響く。その瞬間、春人の胸がわずかに痛んだ。教授は振り返らず、ただ夜空へ向けて言葉を落とした。

「春人くん。君はまだ、自分を“完成させる道”を探すつもりはないのか?」

 その問いは、かつて研究室で幾度も投げかけられたものと同じだった。子どもの頃には答えられなかった問い。だが今は違った。


 春人は、ゆっくり首を横に振った。

「俺は、俺のままでいいです。誰にも覚えられないとしても、それでも歩きたい場所がある。だから――」

 教授の背中に届くかわからない声で、それでもはっきりと言った。

「俺は、あなたにはついていかない」

 教授はひとつだけ、短く笑った。振り返りもしないまま。

「……そうか。それもまた、ひとつの“観測結果”だ」

 機関員に左右を固められ、教授は車へ乗せられる。その動作は静かで、もう逃げる気すらないようだった。車のドアが閉まる。ロックの音が夜気に吸い込まれる。
 次の瞬間、ミカがぽつりと呟いた。

「これが……アンドリュー・ベインズの最後、ね」


 春人は深く息を吐いた。肺の奥まで冷たい空気が染み渡り、それでもどこか、心はあたたかかった。
 ニーナが、春人の肩を軽く叩く。

「早く帰りましょ。もう十分すぎるくらい戦ったわ」

 車がゆっくり走り去る。街灯の光を滑らかに反射させながら、遠く、遠くへ。残された三人は、静かな夜の真ん中に立っていた。
 
 ようやく、ひとつの輪が閉じたのだと実感するように。
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