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しおりを挟む「起きなさいよ」
耳元の声に、目を開く。ぼやけた視界に白と黒が映る。徐々に視界を取り戻して、目の前にいるのがセーラー服姿の少女であることに気が付いた。見上げる川瀬に、少女は煩わしそうな顔で口を開く。
「早く、起きて。逃げて頂戴」
「逃げる……?」
「死にたいなら別に良いけど。ほら、早く。そっちの人は任せるから」
そのまま、これまでと同じように踵を返して行ってしまいそうになる。川瀬は咄嗟に手を掴んだ。バランスを崩したように、少女がたたらを踏む。
「何するの!」
「説明しろ、お嬢ちゃん。何が何だって言うんだ」
「こっちはそれどころじゃ……邪魔しないで!」
「いいから、聞かせろよ。名前は?俺は川瀬千夏だ。雑誌の記者をやっている」
少女は今にも噛みつきそうな目をこちらに向けていた。川瀬の掴む手が離れる事がないので、彼女は心底忌々しいと言わんばかりの顰め面で、吐き捨てる。
「葉月名月。これで良いでしょ。離しなさいよ」
「葉月……?そりゃ、つまり……」
「……お前は何をやってるんだ」
唸るような声に振り向くと、鵜山が目を細めて、眼鏡をかけ直したところだった。掠れた声からして、今目を覚ましたのかもしれない。そのまま、ゆっくり立ち上がった彼は、少女の顔を見て、目を見開く。
「葉月?」
「鵜山先生?」
少女のきつく吊り上がっていた目が丸くなる。信じられないものを見るような顔になって、力が抜けたように彼女の両手がだらりと落ちた。
「嘘、なんで……先生が、ここに……」
それ以上は言葉にならずに消えた。葉月という少女の顔がくしゃりと歪んだ。
鵜山が駆け寄る。倒れ込む彼女を両腕でしっかりと支えて、鵜山は少女と目線を合わせるように膝をついて屈んだ。
先生、先生と息と言葉が混ざり合ったような音を漏らして、葉月は震えていた。ああそうだ、先生だと落ち着かせるような低い声で囁く。鵜山に凭れるようになった彼女の顔が伏せられる。嗚咽交じりに、呟いた。
「……ほんとに、……ほんとうに、たすけに、きて……くれたの」
震える声に、鵜山がそっとその頭を撫でる。
「お前を、何から、助ければ良い?俺がお前を必ず助ける、だから……」
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返して、少女は縋りついて泣いていた。川瀬はそれをじっと見ている居心地の悪さに、自分も立ち上がり、辺りを見渡した。
外は暗い。時計は三時。月明りだけが、妙に明るく部屋を照らしていた。意識を失ったのは、何のせいだろうか。酒は口にしていない。となれば旅館で出された夕食か。そういえば、物音がまるでしない。縁側から見える範囲の旅館の向かい側に明かりもなかった。観光客も寝静まる時間帯だからか、それとも、皆眠らされた……?
川瀬の思考は、響いた悲鳴にかき消される。断末魔の叫びが静寂を切り裂いて、縋りついていた葉月がはっと顔を上げた。
「いけない、来た!」
何がだと問う前に、彼女は手を引いて、こちらについてくるように促した。
襖を開けた先にある廊下は、様変わりしていた。
赤い。
錆びた鉄色の塗料を、乱暴にぶちまけたかのような廊下。何かを引き摺って行ったように、赤い跡が廊下の先に伸びている。言葉を失った大人二人とは対照的に、葉月はこっちと鵜山の手を引く。その顔は青ざめて、視線は急かすように彷徨っている。
鵜山は息をのみ込んで、混乱を封じ込めるように指輪を撫で、それから傍らの葉月を見た。その目は揺らがない。
鉄臭い臭いが不快に鼻を刺激していた。手が震えるのを止めることが出来ない。川瀬は手の震えをそのままに、壊れたブリキの玩具のようなぎこちない動きで、一歩前に出る。そうするべきではないと頭のどこかが警告しているにもかかわらず、屈んで床を見つめた。
赤い手形が床にあった。丁度、じゃんけんのパーを出したような手形が二つ並んでいる。右手と左手。そしてその先には赤い線が廊下の奥、見えなくなるまで続いている。線の幅はちょうど川瀬の肩幅くらいだろうか。
……まるで、両手をついて、逃れようとした人間が、引き摺って行かれたような跡だ。
川瀬は目を伏せる。知りたいと思った脳味噌は、思考を止めてくれることもなく、それどころか目の当りにしたかのようにはっきりと情景を思い浮かべてしまう。鳥肌が立ち、振り払うように立ち上がった。
「ここを離れよう」と、平坦な声で鵜山は囁いた。声から感情を抜くことに苦心することで、冷静さを保とうとしているかのように川瀬には感じられた。
「……私は、駄目。駄目なの、先生。私、綴を助けなきゃ……」
「綴?友達か?」
「そう。あの子、助けないと化け物にされちゃう。人を食べさせられちゃう」
聞き返しかけた川瀬を遮るように、鵜山が囁く。
「わかった。俺も行こう。千夏は」
「……命の危険しか感じねえが、行きたい。こんな時だってのに、知りたくてな……」
鵜山は頷き、葉月の背を優しく押した。庭に下りる。足音を立てないようにして、植え込みの陰に隠れた。心臓が妙なリズムを刻んでいる。自然と小声になっていたとはいえ、聞こえていないかと心配してしまう。
『終わったのか』
聞こえた声に川瀬は息をひそめる。実際に耳で聞いた声ではなく、能力によって聞こえたものだということはわかっていたが、それでも汗が滲んだ。
『駄目だ、足りない。村に捜索隊を出せ、どうせ逃げられやしないが、厄介だ。はやく表に出よう』
川瀬は息を整える。そして、鵜山に言った。
「追手を呼びに行くと聞こえた。表に出るつもりらしい」
「綴という子がいるのは?」
「……地下。そこの、酒蔵の地下」
「旅館の正面玄関は反対側だ。……行くか」
鵜山は正面にある酒蔵を睨んだ。眼鏡が月光を反射して瞳が見えなくなる。落ち着きはらってみえる態度に、川瀬も冷静さを分け与えられるような心地がした。
『やるべき事は決まっている。生徒を守る事、それだけだ』
言い聞かせるような声が聞こえて、川瀬ははっとする。鵜山の顔を見つめた。瞳は決意を秘めて揺るがない。しかし、その手が指輪を撫でていることに気付いて、川瀬は首を振った。
「……せんせ、あんた」
そのまま何事かを言いかけて、結局口を噤む。葉月が訝しがるように、川瀬を見上げた。
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