測量士と人外護衛

胃頭

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 未知の領域を知識なしで踏み入ることは自殺と同義だ、と説いたのは誰だったか。
 祖父だったような、父だったような、政府の人間が事前説明で話していたような気もする。
 北周辺は黄色と黒の硬い網で周囲を覆われている。ここから先は国が安全を保証しない危険区域だという印だった。
 唯一の入り口、と言ってもチェーンで封鎖しているだけの大木と大木の間を抜け、いよいよ北に侵入する。
これまでの快晴から一変して立ち込める霧に周囲は薄暗い。水を含んだ空気は冷え体温が奪われていくのを感じた。

 見渡す限り景色は森で車での移動はここまでだとエルは言う。二人は荷物を下ろすと地図を広げ現在地と目的地の確認をし始めた。

「北を18分割しここの入り口を0、そこから時計回りで1から18番と地域を番号付けしてます。私の担当は6番なのでここから最北、区画境の辺りになります」
「ああ。歩きだと三日…いや五日はかかるな」

 エルひとりなら三日で済むだろうがフジはそうはいかない。慣れない森を歩き、夜は野宿し、どんな危険な生物がいるかもわからない地域だ。そもそも生きて帰れるかどうかすらもわからないのだ。

(この男は何故こんな仕事を…)
 
 エスポワ大陸の地図制作は依頼を受けただけで莫大な金を得る。庶民が五年必死に働いた金が前金だけで手に入り、見事依頼を達成できれば恐らく死ぬまで働かなくても良い金が振り込まれるだろう。
 エルは未完成の地図を見ながらどのルートで行くべきかと頭を悩ませる目の前の男を盗み見た。

 年齢は30後半か。見た目の割に若くハツラツとした男だが武術に心得があるわけでも、アウトドア経験者でもなさそうだ。守銭奴というわけでもないだろうから何かしら事情があるのだろうか…と考えて不躾な考えに頭を振る。
 己にも触れられたくない事情がある癖に他人をアレコレ詮索するのはよそう。

「6番まではこのルートが最適だ」
「あ、そうなんですね。エルはここに来たことが?」
「ああ。これまで二十人ほどここまで案内してきた」
「二十人…二十回もここへ?」
「いや七回だ。測量士だけでなく冒険家や学者も運んできたがみな複数人だったからな」
「…もしかして馬鹿正直にひとりで来たのは私だけなんでしょうか?」
「そうだな」

 頷くエルにフジは思わず空笑いをしてしまった。
 条約だなんだと言われてしまえばそれに従うのが常だと思っていたが頭の良い先人たちはそうではないらしい。
 己の情け無さにがっくしと頭を下げるフジにエルは続けた。

「この先を私と進もうとするのも貴方が初めてだ」
「…?なぜ?貴方はこんなに頼りになるのに?」
「…そうか」

 エルはそう言ったきり黙り込んでしまった。
 フジはまた失礼な物言いをしてしまったかと危惧したが「そろそろ行こう」と先に進むエルに釣られて立ち上がり後を追ったのでそれ以上は考えないことにした。

 気温は初夏ごろ。ハイキングにはうってつけな温度だったが、何しろ湿度が高く汗ばんだ。
 何千年もの間ここで育ったのだろう大樹ばかりが並び、地面にはところ狭しと木の根が隆起する。足元に気を付けていないとすぐに転びそうだった。
 背負うのもやっとな荷物を持ちながら転んでしまえば起き上がるのもひと苦労だろう。ジリジリと体力が奪われているのだ、余計なことに労力を割きたくなかった。

 木々と葉が重なり合い元々薄暗い北は森の中に入ると余計薄暗く、景色に溶けて目立ちにくい軍服姿のエルを見失わないようフジは必死に着いていく。
 時々振り返り姿を確認してくれるものの段々と二人の距離は離れていきとうとう見えなくなってしまった。

「はぁ…は…エル!」

 叫びが谺し霧の中へと消えていく。
 フジはゾッとした。こんな広大な森の中ひとりでは進むことも戻ることもできない。見渡しても立ち込める霧と、空を覆う木々があるだけで人影すらない。
 なんとか進行方向へと足を動かそうにも大きな根に阻まれて進まない。これを乗り越えてなくては…と根の壁に足をかけても手をかけてもよじ登ることさえ出来なかった。
 ずるずると根の壁を背に座り込む。

(置いて行かれてしまった…)

 良い関係が築けたと思っていたのはフジだけだったのだろうか。あの時の言葉が彼を傷付けた?

「どうすれば…」

 ここに来るまでは死ぬことになっても仕方ないと割り切ったような口を聞いていた癖にいざ死が目の前に来ると途端に恐怖が鋭く胸を刺す。
 自分がこんなにも生に未練のある人間だとは思わなかった。
 父が助かればもういいと思っていたのに…と蹲り顔を腕に埋めていたフジの耳に微かな足音が聞こえた。
 エルか…?と辺りを見渡すも影すらない。

「誰かいるのか…?」

 蠢めく気配はあるのに姿形は見えない。
 トタトタ、トタトタ、トタ…と軽い足音が四方から聞こえ右を見ても左を見ても誰もいない状況にフジは震えた。ナニカいる。だけどそれが何者かわからないのが怖かった。
 トタトタと周囲を走るような音はやがて止まる。すると途端にフジは脳を揺さぶられるような強い痛みに呻き声を上げながら頭を抱えた。
 目の奥の神経がキリキリと痛み涙が溢れた。これが北の洗礼かとフジは自分の認識の甘さを思い知った。

「ぐっ、う、う"ぅぅっ、う…っ、はぁはぁっ、は…」

 痛みが引き荒い呼吸を整えながらしゃがみ込んでいた顔をゆっくり上げると誰かがそこに立っていた。上下グレーの作業着は見覚えがありすぎるツナギだった。勢いよく見上げれば懐かしい姿があった。

 父だ。

 幻だと、こんなところに居るわけないと頭では分かっていたのに心がそれを拒んだ。
 在りし日の父と寸分変わらない姿で目の前にいる、それだけで良かった。

「と、父さん…っ、ごめんなさい!おれ、おれがあの時に父さんを突き飛ばしたせいでこんな…」

 フジは目の前の父に飛び付き震える手で抱き締めた。
 暖かく、匂いがある。これは生きた父なのだ。
 フジはひたすら懺悔した。
 父さんの悲しみを受け止め切れずにごめんなさい、寂しい思いさせてごめんなさい、拒んでごめんなさい、言うことを聞かなくてごめんなさい、突き飛ばしてごめんなさい、ごめんなさい。
 謝り続けるフジの頭に置かれた手はやはり暖かく、なつかしい手つきで頭を撫でられ胸がいっぱいになる。

「ソウくん」

 しかし、父にその名を呼ばれハッとしたフジはその場から離れ警戒するように構えた。
 父は不思議そうにまた名を呼ぶ「どうした、ソウ」と、悲しいことに己の名を呼ばれこれが父ではなく偽物だとわかってしまった。
 本物の父はフジの名をそんな風に呼ばなくなってしまったのだから。

 戸惑う顔はよく見知った父だったがここは未知の大陸、信じられないが姿形を似せられる生き物がいても不思議ではない。
 ソウくん、ソウくんと何度も名を呼び近付いてくる父にフジはジリジリと後退するも背後にはすぐ樹木がありそれ以上下がることは出来ない。
 走って逃げるか…?この大荷物を背負ったまま?歩くのもやっとなのにそんなこと出来るはずがない。荷物を捨てて逃げ仰せたとしてもその後は?生きていける確証がない。

「ソウ…く、ウ"ッ、ぁ"ぁ…」

 あと一歩で父の手がフジに届くというところで父の首に短剣が刺さる。柄まで深く差し込まれた父は口から血を吐き喉を掻きむしるようにしながら地面に伏せピクピクと痙攣しながら息絶えた。
 目の前の強烈な光景に声も出せずにただ怯えることしかできないフジに父を刺し殺した男が声をかける。

「大丈夫か」
「あ、んた…っ、あんた何を!」
「落ち着け、よく見ろ。これが貴方の父か?」

 怒鳴るフジに冷静に声をかける。フジが息荒く倒れた父を確認すると木の枝を寄せ集めた虫のようなものがタラタラと青色の液体を流しながら倒れていた。

「ひっ…な、なんですか、これ…」
「知らん。人間を好んで食うらしく北0番によく現れる…虫みたいなものだろう。力は弱いが人の記憶から相手が最も望む姿にカラダを変化させられるようだ。そうやって誘き寄せて頭から食う」

 淡々と説明するエルに手を引かれ虫から離れるとようやく落ち着いてきたフジは彼に頭を下げた。

「あの…ありがとうございます」
「いや礼はいらない。私は貴方を囮に使ったのだから」
「そうなんですか?」
「ああ。ここにコイツが出ることは知っていた。弱いがカラダを変化されると…対処し辛いから貴方を囮に…すまない気を悪くさせたなら」

 謝るエルに怒りよりも安堵が勝ったフジはその場にへたり込むと情けない顔をしてエルを見上げた。

「良かった。貴方に嫌われたかと」

 ヘラリと笑うフジにエルは動揺した。
 こんな風に自分に笑いかけた人間など片手で数える程だ。それに加えて「嫌われたかと」だなんて好意を持っているかのような言い方をされ、期待と不安で胸がギュッと締まるのを感じた。

「貴方を嫌うなど…そんなことはない」
「本当ですか?私ここに来てからずっと情け無くて貴方に頼りっぱなしで…ありがとうエル、貴方が居てくれたから私はここまで来れました」

「この台詞まだ早いですか?」と呑気に笑うフジはそのひと言がどれだけ目の前の軍人を救ったか知る由もなかった。
 
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