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番外編④
しおりを挟む所長室内にて『猿でもわかるマナー講座』を読み漁る男の目は激務終わりで充血していた。デスクには栄養ドリンクと紙の山。礼儀として各国トップは知っておこうと顔と名前が印刷されたものだが半分も覚えていない。
「立食パーティーの場合は姿勢は美しく!?万年猫背のこの俺が…!め、名刺交換…!名刺なんて持ってたか!?」
「名刺入れ見つけておきました」
「流石亜希くん!」
おずおずと亜希に渡された名刺入れの中身を確認すると肝心の名刺は雀の涙ほどしか残っていたがまあ大丈夫だろう。…いや念の為にコピーしてもしもの時はペラ紙名刺で何とか乗り切ろう。
「それより所長スーツ持ってるんすか?」
「…………確か…あのロッカーに…?」
ヒロに指摘され所長室の壁際に置かれたロッカーを開ければ真っ黒でぐしゃぐしゃの布切れが中に眠っていた。躊躇いながらも取り出し広げてみれば皺だらけのスーツ。確か最後に着たのは…いつだったかな…もう数年は着ていない喪服を新婚ふたりに見せてやると夫婦は似るとはよく言ったものだドン引きした顔はソックリだった。
「どどどどうしよ…」
パーティーにこんな海苔の佃煮みたいなクシャクシャのスーツなど着て行ける筈がない。あわあわと慌てふためく宇月と困った顔をする亜希とヒロの元にノックの音が響く。
「所長、お客様です」
警備の人間が連れて来たのは復帰後退役し大統領のボディーガードとして雇われている天馬一樹だった。隊服からスーツへと姿を変えた彼はその常人離れしているフィジカルで大統領には蟻すら近寄れないと専らの噂だ。
「お父さん」
亜希がパタパタと近付き不思議そうに天馬を見上げる。
「今日一緒にご飯行く日だったっけ?私忘れてたかな」
天馬親子とヒロは週に数回食事に行くことがある。それは長年離れていた親子の時間を取り戻す為でもあったがヒロに愛娘を取られた哀れな父親の嫉妬でもあった。そう何度もこんな綺麗な顔立ち故に真顔が怖い義父と食事など大変だろうと宇月は思ったが「タダ飯食えてラッキーっす」とヒロはピースサインしていたのだからつくづく肝の座った男だと思う。
「いや、今日は宇月所長に用が」
「俺?」
天馬の訪問理由が自分だとは思ってもみなかった。「これを」と渡された高そうな紙袋の中身を覗けばハンガーが目に入る。
(まさか…)
「大統領からスーツを届けて欲しいと」
中に入っていたスーツカバーを開ければなんとも高級そうなスーツ一色とご丁寧に靴まで揃えられている。深みのあるブラウンは嫌味がなくそれでいてお洒落に見えるのだから日高のセンスは流石としか言いようがない。宇月のサイズにピッタリのそれは日高からのプレゼントらしい。宇月がスーツなど碌に持っていないと見て贈ってくれたのだろう。値段など知りたくもないが恐ろしく良さそうな物であることはなんとなくわかる。
しかしなんだ。
事前にスーツを揃えてくれる気遣いはある癖にパーティー前日に招待する無茶振り。それならばパーティーのことももっと早くに教えてくれと思ってしまうのも無理はなかった。
「なぁ、アンタの雇い主は何を考えてるんだ?」
泣きべそをかきながら天馬に尋ねれば精悍な顔を崩すことなく淡々と答えられる。
「俺も貴方が来る予定なのを知ったのはつい先程なんだ。日時と会場と建物内の地図と避難経路くらいしか俺は知らないな」
どれほどの規模のパーティーなのか招待状からしか知り得ない宇月とあまり変わらない。テレビもネットもないこの時代では新聞が唯一の情報源だが国際交流など全く取り上げられていない。つまり秘密裏に行われるパーティーなのだろう。各国首脳クラスが集まるのなら仕方ないことかもしれない。我が国だけならず諸外国でも反政府運動を行い未だに新大陸移住を訴える層は少なくはない。新大陸を実際に見たことのない人間からすれば肥えた土壌があり浄水された水と豊かな自然のある新たな大陸に移住しないのか心底理解出来ないのだろう。世界が発表する実情を陰謀論だと訴え暴れ回る人間もいると聞いたこともある。
「あ"ーッ!もう礼儀なんてわからん!偉い奴らとどんな会話をすればいいんだ…そもそも外国語なんて話せないぞ!」
「相手に専属の通訳が付いてるだろう」
「ならいいか…とはならないな…!君みたいな強そ~で怖そ~なボディガードもいるんだろ?何か失言があればこここここ殺され…!?」
「それはない。今や貴方は世界の中でもトップクラスの重要人物だむしろ相手が媚びへつらってくるだろう」
「それはそれで嫌だ……」
ぺそぺそと泣く宇月は明日への緊張と焦りと日高への怒りと困惑に弱い心がポキリと折れデスクに打っ伏す。ただの研究者なのだ。政治家の様な腹の探り合いやらなんやらは最も苦手とする宇月がそんなところにノコノコと現れでもすればあっという間に食い尽くされてしまう。宇月の失態は日高の失態にも繋がりかねないかもしれないと思うと心がズンと重くなる。
「あの人はことは貴方より詳しくはないが…」
そんな宇月を見かねたのか天馬が珍しく眉を下げて困った様に笑う。
「好機は逃さない。そんな人だろう」
その言葉の意味はイマイチよく分からない。
それでも日高がそんな人間だと言うことは宇月もよくよく理解している。政には疎いとどの口が言うかと思うほどあの若さで国内をまとめ世界を復興へと導いていると尊敬の念を禁じ得ない。爽やかな見た目の割に腹黒で何を考えているのか掴みどころのない男だが、確かに信念を貫き倒す人間だ。
そんな彼が何故自分なんかと付き合っているのか全く理解出来ない。何となくそんな雰囲気になって何となく付き合い出したのだ。大人の恋愛なんてそんなものだろうと明確な理由を欲しがる心に蓋をした。
「もう少し…読むか…」
可愛らしいイラストの猿が『積極的に交流するウキー!』と語りかけている。交流などあまり得意ではないがそれを知って尚も日高は宇月を誘ったのならば何か企みがあるのかも知れない。
情けない姿はなるべく見せたくない…いやもう手遅れかも知れないが。日高の足手纏いになるのだけは嫌だ。鼻水を拭き取り気合を入れる。時間の許す限り明日に備えることにしよう。
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