測量士と人外護衛

胃頭

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エッチするまでの話④

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「酷くないですか!?事前の説明もなしに!」
 フジは思わず立ち上がり、その勢いで天井に吊るされた電球にゴンっと頭をぶつけてしまう。ゆらゆらと左右に振られた電球が船室の中に大きな影を作り、フジは少し痛む頭を撫でた。
 背の低い船内だ。波も高く船も揺れているのに立ち上がるのは危険だったな、と冷静になって腰を屈めゆっくり座るも、マグマみたいに体の奥底を渦巻く怒りは消えない。
 沖合になればなるほど深くなる霧に覆われながら北を目指して丸二日。
 あと三日もすれば視界は晴れエスポワ大陸が見えてくるだろう。未だに解明できない未知の新大陸への航路は、それでもただ北上すれば辿り着くのだから摩訶不思議としか言いようがなかった。
「そもそも前にもこんなことが…!あれほど話し合いをしましょうと言ってきたのに!どうして…っ!あの…分からず屋!おたんこなす!極度の匂いフェチの癖に俺がいなくて生きていけるのかバカーッ!!」
 アルコールでも入っているのかと思うほどのフジにしては珍しい暴言っぷりだが至ってシラフだ。
 船室で二人。夕食を食べながらフジは遂に爆発した己の激情を露にする。
 初めはどうして置いて行かれた?邪魔だから?足手纏いになる?いやそんな理由でエルがフジを一人にすることはない。でも、ならば、何故?悲しくて、寂しくて、どうしようもなく心が苦しくて漏れ出る涙と声を抑え落ち込む日々を過ごしていた。
 しかし戸惑いと悲しみの感情は沸々と煮えたぎり、なんで俺が落ち込むんだ?そもそも何も話してくれないエルが悪いのに!
 今、怒りへと転化した。
 向かいに座る天満は、言葉数は少ないが共感するように短い相槌と深い頷きを返してくれる。その誠実な態度にフジの気持ちは自然と晴れ、加えて胸の中のモヤモヤを全て吐き出し徐々に落ち着く。すると途端に頭が冷えて、面識はあるが会話をするのはほぼ初めてだった天馬に対してかなり失礼だった、とハッとしてフジは小さくなって謝った。
「ごめんなさい…わたし…文句ばかり…」
「いや、君の言い分は間違ってない。俺も朝、突然日高さんに言われたんだ。気持ちは多少分かるさ」
「え!天馬さんも急に言われたんですか?」
 てっきり彼には事前に知らされているものだと思っていたのに。
「あの二人いつの間に連絡を取り合ってたんだろう」
「君を迎えに来た彼の胸ポケットに日高さんが何か入れていたのを見たが…恐らくそれだろう」
「やっぱりリョウがエルに何か言ったんだな」
 自惚れている訳ではないが、仕事の依頼があったとしてもエルがフジから離れることを日高に提案したとは到底思えないのだ。それ程までに彼から愛されているし、執着されていることは流石のフジでも自覚している。
 出立前だってあんなに求め合ったのに。
 ただ日高に言われ、はいそうですかと指示に従うエルではないことも理解している。ならば多少なりともエルの意思があり、進んでその仕事とやらを受けフジと離れることを承認したのだろう。
「海外だなんて…エル、パスポート持ってたかな…」
 もう怒りはどこかへ消え、心配と不安が勝ったらしい。喜怒哀楽がハッキリとするフジに天馬は思わず笑った。
「似ているなお父さんと」
 笑う天馬の顔を初めて見た。端正な顔立ちで表情の変化があまり無い彼の、口の端を持ち上げた程度の微笑だがそれでも一気に柔らかくなるのだな。
「藤測量士もコロコロと表情を変える人だった」
「そう…ですか…」
 元気だった頃の父は思い返せば、確かに今のフジと似ていたかもしれない。年も色褪せたあの懐かしい記憶の中の父と同じぐらいになった。
 だが天馬に言われると不思議な気分だ。天馬と出会った頃の父は、既に精神を病んで気性が荒くなる事が多かったのだが、新大陸探索の時は正常だったのだろうか。
「病院に会いに行ったがリハビリも順調そうみたいだな」
「ええ。まだ補助は必要ですが外も歩けるようになりました」
 気が狂い、異常行動を繰り返す父は長年ベッドに拘束されまともに動くことが出来なかった。体の筋肉が衰え、意識が回復してからも車椅子と補助の生活が続いている。どうにか一人で食事したり、歩いたりは出来るようになって来たらしいが、まだ当分は入院生活だ。
 幸運なことに金なら腐るほどあるのだ。新大陸渡航の前金と地図作成にする成功報酬、それに加えて国際機関のトップともなると給与もかなり貰っている。
 荒廃した世界でも金は心の安寧と余裕、幸せにはなれないが不幸から身を守ってくれるのだ。
「なかなか顔を見せて貰えないと悲しんでいたが」
 ピタリ、とフジの動きが止まった。
「唯一の家族に会えないのは寂しいものだ」
「ハハッ…ですね。ちょっと忙しくて…またこの旅から帰ったら会いに行こうかな」
 誤魔化すようにカップを手にゴクリと水を飲むも、天馬の追求は終わらない。
「父上のこと許せないのか?」
「…何のことですか…そんな、許せないなんて…思ったこと…」
「本当に?」
 苦手だなと思ってしまった。エルはフジが嫌がる話題を深掘りしないし、日高はある意味放任主義的で、フジが助けを求めない限りは見守るスタンスであることが多い。そんな二人に囲まれて生きて来たフジは、己の触れられたくないところに触れてくる天馬の言葉に少し嫌な気分になった。
 いや違う、天馬が悪いのではない。
 フジが自分の性格の悪い一面を直視したくなくて隠してきた心の闇、その痛い所を突かれて勝手に機嫌が悪くなっただけだ。
 迷いなく踏み込むのは天馬の美点だ。そうやって人の本心を探ることを無意識にしているのは彼なりの相手に対する誠意なのだろう。
 フジはそっと息を吐いた。
「……10年…いや、その前からだ。祖父母と母が死んでからずっと…ずっと…一人だけ現実から逃げてるじゃないかって父を責めてしまいそうになるんです」
 膝の上でギュッと拳を握ると、フジはぽつりぽつりと話し出した。
 誰にも、エルにも話したことのない。
 自分の汚くて醜い心の話だ。

 祖父母が死んで、母が死んで、心の傷が癒える間もなくどんどんと狂っていく世界に、混乱と絶望したのは父だけではない。
 フジだって怖かったし、誰かに縋りたくてしかたなかった。まだ自分は15歳だった。もう大人だと思うだろうか?いや、その歳の子はまだ子どもだ。それなのに本来守られるべき存在だった子どもを置いて、父親は勝手にひとりで頭をおかしくしてしまった。
 仕事から帰って来ては母を探し求め、居間に飾られた笑顔の母の遺影を見つけると絶望したように泣いてしばらく動かなくなる。その後は人が変わったように怒鳴り散らして、暴れて、フジを責めた。何を言われたかなんてもう思い出したくもない。フジがもう少し食べる物を減らしていれば、家事を手伝ってやれば、働ける年齢であれば、産まれていなければ母は今も生きていたかもしれないと言う。それからまた泣いて、そんなこと思っていないとフジを抱き締めてひたすら謝った。そんな毎日。
 子どもでいたくても環境がそうさせなくて、泣きたくても泣き付ける相手がいなくて、逃げたくてもどこにも逃げられない。働きたかったが父が高校は出ろと言うので何の意味があるのか分からないまま学校に通い、帰宅後は家事をして、夜には仕事終わりの父の怒りと悲しみを受け止めてまた学校に向かう。一年、また一年と繰り返してその日が来た。
 新大陸渡航など…キラキラと目を輝かせて喜ぶ父に何も言えなかった。危険な場所ではないのか、今の父が行っても大丈夫なのか、心配になるフジの心に影がよぎる。
 怒りと安堵だ。
 嬉しそうに支度をする父を笑顔で見守るその裏で、勝手に見つけて来た希望に縋って自分だけこの終わりゆく世界から逃げるのかと父を責める心。
 おかしくなった父から解放されることへの歓喜と、もう二度とあんな目に遭いたくないと強く願ってしまう心。
 ゾッとした。唯一の肉親に何てことを思うのだと。
『父さん!これ持って行って!』
 醜い心に蓋をして肌身離さず持ち歩いていた母の形見を渡した。大切な物だ。誰かに渡すつもりなどなかったが、父の安全を願って渡すのだと自分に言い聞かせた。カタカタと震える手は父の武運を祈ってだ。決して、そう決して、自分の汚い心に恐怖した震えではない。
 ないはずだった。
 罰が当たったんだ。
 父から解放されるなどと、二度と会いたくないなどとそんなこと思ってしまったから。
 父は別人となって帰って来た。
 車椅子に縛り付けられ、政府の人間に棄てるように家の前に置かれていた父は完全に狂っていた。大気汚染された空気を目一杯吸い込んで、枯れ果てた野菜のカスを美味しそうに食べ、腐乱死体が浮く川の水を飲もうとする。見てられなかったが、見捨てることもできなかった。
 その頃にはフジは社会人で、仕事に行く前も帰ってからも休みの日もしまいには仕事を休んでも父の介護という名の監視に費やした。罪滅ぼしだ。父の死を極わずかでも願ってしまった己への罰だ。しかし次第に悪化していく父の奇行に耐えられなくなった。
 限界を超え自死も考えた。
 死んでしまった方が楽だし、祖父母や母にも会えるじゃないかと。
『死は別れではない!再会なのです!』
 用水路に顔を突っ込む父を止めながら道端で叫ぶ信徒を見た。共に愛する人に会いに行こう、神の導き、楽園への道標…真っ白なローブの集団へと縋るようにふらふらと足を進めたフジを止めたのは数年振りの幼馴染だった。
 大人になったな、などと場違いなことを考えるフジと暴れ疲れて気絶した父を家まで連れ帰り、金の問題など二の次だとテキパキと手続きを済ませた日高は父を病院に入れた。入院させるなどと考えも付かなかった。呆然とするフジはとりあえず風呂に入れと蹴飛ばされ、久しぶりにゆっくりと湯船に浸かり温かな湯の中で荒れてボロボロになった自分の手を見てどうしようもなく泣けてきた。
 精神的には楽になったがやはり金だ。転院、病院探し、入院、転院を何度も繰り返すせいで余計に金がかかった。日高から支援して貰ったりもしたが多くは受け取れなかった。彼にだって生活はあるのだから。
 働いて、食事を切り詰めて睡眠を削って、それでも家で父を見る生活より幾分もマシだと割り切って働いた。
 働いて、働いて、働いて、何ヶ月ぶりの休みの日には病院に向かった。暴れる父を遠くから眺めたり、暴言を吐く父に心を痛めたり、穏やかな日もあったがそんな時は決まってフジを見て微笑みながら言うのだ。
『晴子』
『違うよ父さん』
 ああやっぱり二人で死のう。そう思ったことは何度もあったが殺すなど無理だと思った。殺したくないのではない、殺せない。人殺しも出来ない弱虫な自分は働いて、終わりの見えない地獄をただ生きていくしかなかった。
 
「元気になった父を見て良かったと心の底から安心しました。それは純粋に父が元に戻って良かったという気持ちと、やっと解放されたという喜びもありました」
 帰国後、日高に連れられ病院で再会した父は元通りとまではいかないが、精神も正常になってフジを息子だと認識していた。嬉しくて泣いたあの涙に嘘はない。本当に良かったと心から思っている。ただ…
「それと同時にどうしようもなく怒りが湧くんです」
 フジが働いて働いて。寝る時間も、食べる時間も、全ての時間を投げ捨ててまで働いて、それでも支払い切れない金が降りかかって最後に縋ったのは父と同じ新大陸渡航の報酬だ。
 虚しくて、独りぼっちの家で笑ってしまった。
 死を覚悟して渡った新大陸では、結果的に父を救う手立てと世界復興の希望を見出せた。
 だけどそれはエルがいたからこそだ。彼がいなければフジは死んで、その代わりに得た金で父は最期まで病院で過ごしていただろう。
 現実を見ることなく、ずっと。
「正気を失って、現実と夢の狭間を彷徨い続けた父のことを恵まれているとは思いません。だけど、ずるいじゃないですか。ひとり頭をおかしくして、必死に生きることから逃げて、次目覚めた時には世界は希望に向かって進んでるなんて!」
 波の音に負けないくらい大きな声で訴えるフジに天馬は何も言わなかった。ただフジを真っ直ぐ見るその目を直視出来なくて、フジは視線を外した。
 これだから父の話題を避けていたのだ。
 フジの醜い心の叫びが漏れ出て止まらない。こんな世界だからこそ善良な人間でいたかったのに、父には無理だった。親だからこそ、本来ならば守ってくれるはずの存在だったからこそ子どもを置いて精神を病み、誰かに支えられないと生きて行けないそんな人間になってしまったことに絶望して寂しくて、そして怒りが湧いた。
「俺なんて…所詮こんな人間なんです…」
 エルからの高過ぎる評価と、フジをどこか神聖視するような瞳に引け目を感じることが時々あった。エルにこんな自分の汚い側面を知られたくなかったから、父へ会いに行くのも二の足を踏んだ。
 だってエルはフジのことを心の綺麗な人だと思っているのだ。
 父親を責める自分の姿など…宇月を助ける為にたった一人で新大陸を歩き続けたエルには見せられない。
 船が大きく揺れギコギコと電球と天井を繋ぐ金具が音を鳴らす。フジは船室の丸窓からどこまでも陰鬱に黒く広がる海面を見た。
 昂っていた気持ちが少し落ち着いて、握っていた拳を開くと手のひらに爪の跡がくっきり残っていた。エルがいたらきっとこうなる前にそっと手を握ってくれていただろう。
 フジの心も身体も傷付かないように、全てから守ってくれる優しい恋人だから。
「俺が君の父と帰還したのは娘が15の時だ」
 黙って聞いていた天馬の言葉にフジは思わず顔を上げた。
「それから10年だ。15歳の女の子が生きて行くための金と、父親を治療するための金を稼ぎ続けたんだ」
「ぁ…」
 フジですら日高に紹介された仕事でなんとか生きながらえたのだ。15の、それも女の子が働ける高収入の仕事など口に出すのもはばかれた。
「目が覚めて娘を抱き締めた時は本当に嬉しかったんだ。俺は死ぬかも知れないと思いながらも、それでもこの人だけはと必死に藤測量士を背負って帰って来たのだから。だが数日経って、頭も落ち着いて現実が見えて来ると…」
 死にたくなった。
 そう溢す顔は苦痛に歪んでいた。
 亜希の手足には長年拘束されていたような赤く擦れた跡がある。何かなんて聞けなかった。恥ずかしそうに、バツの悪い顔で手首を隠して笑うのだ。
 国内は常に蒸し暑いのに、娘はいつも長袖を着ている。そんな彼女を見て、天馬は行き場のない怒りをそれでもグッと堪えるしかなかった。
「何の為に新大陸に行ったのかと…娘のためだ。娘のために働いて、生きて、金を稼ごうと任務を受けたのに」
 眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべた天馬は自嘲するように薄笑った。
 初めて聞く話にフジは言葉が出なかった。
 父と帰還した天馬という男がいて、その人も宇月の薬で体を治し今は日高の警護をしていると。それだけの認識だった。皆一様に他人の話はしない。掘り返しても暗く吐きそうな痛みしか出てこないから本人の口から聞くしかないのだ。
「でも…天馬さんと父がいたからこそ…今のエルが存在します…彼がいなければ世界は終わってました…」
「そうだな、世界の為にはなっただろう。だけど君と、娘のことを思うと港に着いたあの時に二人で死んでいたらと悔やまなかった日はない」
 そんなことを天馬が思っているなんて想像もしていなかった。日高と会う時に見かける彼はいつも表情ひとつ崩すことなく、気丈に背筋を伸ばして立っていたから。
 心も、体も、フジなんかと比べ物にならないくらい強く逞しい人だと、そう思っていた。
「娘は俺をどう思っているか分からない。ただ…食事に誘ったり、服を贈ったりと贖罪のつもりで馬鹿なことをする俺を見守ってくれている。父上を許せていない君を責めてる訳では決してないんだ。許すも許さないも君の自由だ…会いに行くのも行かないのも」
 荒波が船の側面を叩いたのだろう、大きな音と共に船体が揺れた。座ったままよろけて壁にぶつかりそうになるフジを天馬が素早く支えてやる。
 近くなった天馬の目は、赤く色付いて濡れていた。
「藤測量士は新大陸探索中ずっと君の話をしていた」
「おれの…?」
「自慢の息子だと」
 目頭が熱くなり鼻の奥がツンとした。
 だからなんだと言うのだ。
「それだけは、君に伝えたかったんだ」
 掴まれた手をギュッと握られて、その時初めて自分が小さく震えていることに気付いた。
 下唇を噛み締めて、堪えた。
 そんなことを言われて、だから、じゃあ父を許せるのか。許せないに決まっている。だって父は逃げたのだ。現実からもフジからも。
「俺から言えるのはそれだけだ」
「………はい」
 でも、そんなこと言われて、そうですかとスルー出来るほど父のことを本当は嫌ってはいない。
『ソウくん』
 だって大切な家族だ。
「…っ、天馬さんは…」
「ああ」
「いま…娘さんと生きられて…幸せですか?」
「幸せだ。娘の時間を犠牲にして生きてしまった自分への激しい怒りを塗り替えるほど、幸せだと思うよ」
 耐えようとした涙が耐えられず、頬を伝った。
 

「君を泣かせてしまったな。帰国したら彼に怒られるだろうか」
 船室の壁を向かって天馬が少し笑う。
 ハンカチで涙を拭ったフジはその視線を追いかけ、船室の壁を動く小さな黒を見た。どうやら彼もこの蜘蛛たちがエルだと知っているらしい。
 指を差し出し一匹掬ってやれば、爪の上でピタリと大人しくなるエルの可愛い分身。親指の平で潰さないよう優しく撫でると心なしか嬉しそうに跳ねた。
「大丈夫ですよ。新大陸の海域に入ると何故かエルは蜘蛛との繋がりが切れるんです」
 フジも笑ってそう返してやれば天馬は少し驚いたように目をわずかに開いた。
「では彼は今、君のことを知ることが出来ないのか」
「はい。ただ新大陸に着けばまた繋がる、と思うのですが…」
「何か問題が?」
 エルが側にいる場合まるで手足のように蜘蛛たちを自由に動かすことができるのだが、彼等の距離が離れれば離れるほど、その命令の力は少しづつ弱まっていくらしい。
 新大陸と日本では離れ過ぎて蜘蛛を通して周囲の音を拾うのが限界らしい。新大陸探索時、国内に残した蜘蛛たちは耳としてしか機能していない。
 今回問題なのはエルの向かった場所だ。
 新大陸の奇妙なところは、世界中のどの海から北を目指しても同じ五日で到着可能なところだ。
 だが今回の仕事でエルが海のない内陸地に行ったとすれば…海から離れた分、新大陸との距離が出来てしまう。最悪の場合エルと蜘蛛たちのリンクは完全に切れてしまうかもしれない。
 その話を聞いて天満は眉を潜めた。
「それは…君の危機にこの蜘蛛達は助けてくれないことになるのか?」
 フジはこの世界に於いてとても重要な人間だ。
 日高の命令でなくとも、彼のことは命に変えても守るとは決めているが天馬も所詮人間だ。例え自分が死んだとしても最後の砦として蜘蛛がフジを守るだろうと考えていたのだが、そうなると話は別だ。
 最悪このまま船を引き返すことになる。
 難しい顔をする天馬にフジは笑った。
「それは大丈夫です。結局この蜘蛛もエルなので、エル本体と繋がっていなくても私のことは守ってくれます」
 エルが雌蜂に体を支配されていた時も、森中にいた蜘蛛たちはフジを守ってくれるように動いていたのはそういう理由があったのだと後々知った。
 ね?とフジが声かければ同意するように動く蜘蛛が愛おしい。
 気付けば指の上の一匹だけではなく船中に散らばっていた小さな蜘蛛が集まって、天井を黒く染めていた。
 常人が見ればギョッとする光景だがフジは微笑ましそうに見上げる。別に虫が好きだとかそういったことはなかったが、彼らがエルだと分かってからはその一挙手一投足が可愛く見えてくるのだ。
「とことん君に惚れているのだな」
 天馬の言葉に照れたようにフジは頬を掻いた。
 そう、エルはフジのことが大好きなのだ。
 だからきっとこの別れにも意味があって、だけど好きだからこそフジに言えないままエルは黙ってどこかへ行ってしまったのだろう。
 フジが父の話をエルに出来ないように、エルもまたフジに話せない何かがある。当たり前のことなのに彼の全てを捧げてくれるような優しさがフジを我が儘にさせていた。
 恋人でも、家族でも、言えないことはある。
「きっとリョウから受けた仕事とやらも私に関係している気がします」
「そうだな。日髙さんも無駄なことに時間を割くとは思えない」
 二人が何をしようとしているのか予想も付かないが、エルがフジの為に、世界の為に動いているのは確かなのだろう。
 エルと別れるのは三度目になるな。
 窓の外では霧が晴れ、重い雲から弓張月が覗く。
 月光に照らされた黒く穏やかな水面は彼を想起させた。
「エル…」
 遠く離れた愛おしい人を想う。
 エルがフジと離れることを決めたなら。
 (俺も…頑張らなきゃ…)

 
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