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エッチするまでの話③
しおりを挟む静寂の中で自分の足音がタイルの床を響かせる。気が立って、いつもよりも大股で強く歩いている所為か余計に音が大きく煩わしく聞こえた。勢いのままバンっと扉を叩くように開くと、手の平から骨にかけて鈍い痛みが広がりそれすら苛々を増長させた。
「明日は6時に迎えに上がります」
「うん」
怒っているようにも聞こえる愛想のない態度を気にすることなく「おやすみなさい」と、一日の終わりだけ優しく緩む天馬の声に日高は手を挙げて返した。
重く鈍い扉の閉まる音がした後、肺の中の空気を全て吐き出す。手がジンジンと痛い。こんなことなら天馬に開けて貰えば良かった。防弾仕様のこの戸は日高が自分で開けるには重すぎる。
正直もう何も考えたくない。
大統領などと、何故。と思い返すことはもうとっくの昔に止めた。人には役割が存在することは重々理解している。今、この世界に於いてこのポジションは日高の役割だ。それは慢心ではなく客観的に見ても己が適任だと判断したからだ。
日高から始めたことなのだ。国家転覆、世界復興、人類を希望へと誘う主導者を最期まで責任を持って演じ切るくらいの気概はある。あるのだが、言うことの聞かない老害どもを事故に見せかけて殺してやろうかと画策することは許して欲しい。
真っ暗な部屋でテーブルランプの灯りだけ。ネクタイを緩めシャツのボタンを外す日高の背後に影が通った。
「ホラー映画みたいな登場の仕方だな」
闇に溶けたように佇むフルフェイスを振り返り、その絵面に思わず喉を鳴らした。
宇月なら漏らしていてもおかしくない。
「…資料を読んだ」
「それで?」
「依頼を受けよう」
「それは助かるな」
コキリと首を回しソファーに深く座った日高は、エルにも座るよう片手で促したが彼は何も言わず立ち尽くしたままだった。仲良く談笑する気はないらしい。
「そんなに総一郎に盗み聞きしていたのがバレるのが嫌なのかい」
くるりとネクタイの先を弄び、少し怒るかと思いながらも尋ねてみたが期待するような反応はなく淡々と返された。
「分かっているだろう」
「ハハッ、そうだな。すまない野暮なことを聞いた。アイツはそんなことで怒らない」
「出立は明日だ」
おや、と日高は感心したように眉を上げた。
十分な説明が無くともすぐに理解する賢い頭が今は有難い。融通も効かず、人の言葉も分からない古く腐った人間共の相手をして辟易していたばかりだったのだ。
惜しいな。彼が普通の人間ならば日高の後釜に据えるのに。
「今日はかなり気合が入っていたから君が来るのは明日かと思ってたよ」
絶対にセックスをしてやる、と拳を握り締めていた幼馴染を思い出し揶揄うように言ってやる。その日の夜中にエルが日高の元に現れたということはつまりフジの意気込みは失敗に終わったのだろう。
苦労しているようだ。アイツも、彼も。
「総一郎はどうする?」
「フジは…」
初めて言葉を詰まらせたエルは少し黙って、それから絞り出すように言った。
「フジは…連れては行けない…」
「そうだな。いくら君がいようとも最悪のケースも免れないかもしれない。どう説得しようかと思っていたが理解が早くて結構」
「だからと言ってここに置いてはいけない」
「それについてはこちらから護衛を出すよ」
「ただの人間にフジを任せろと?」
感情のなかった声にわずかに怒りが含まれ日高は笑った。やはりエルの感情が揺れ動くのはとことんフジのことばかりだ。
「安心しなよ、[[rb:大陸横断経験者 > ・・・・・・・]]だ」
その言葉に誰か察したようでエルはそれ以上何も言わなかった。ならば同意ということでいいのだろう。
話がひと段落付いて、眠気が突然日髙を襲う。
早朝から活動し続けた所為で重くなってきた目を擦っている間に、気付けば黒に溶けていたフルフェイスは消えていた。去り方もホラーテイストな奴だと呆れてしまう。
(さて、どうなるかな)
これからの彼等の行く末を想像して…やめた、もう寝よう。この空間に日高を咎める者も監視する者もいないが、それでも服を脱ぎ捨てるだらしなさが無いのは育ちのお陰か。スーツは皺がつかないようハンガーにかけて倒れるように寝具に埋まった。
お休みなさい。
◇
目が覚めた。だが瞼は半分閉じていて、視界が不明瞭な上に頭は温かな泥に埋まっているような感じだ。外が明るい。朝か。無意識に隣にいる人を抱き締めようとして手が空を切ったところでフジはパッと今度は鮮明に目が覚めた。
「エル…?」
いつも優しい瞳で、フジの寝起きを見守るエルの姿がない。しっかりと肩まで上げられている布団を剥いでみてもどこにも居ない。服をきちんと着ているあたり昨夜エルが後処理をしてくれたのだとわかるが、今はその姿がどこにも見当たらなかった。
いつもと違う様子に不安な心を抑え、ベッドを降りパタパタと階段から下のリビングを覗けば微かな物音と焼けたパンの香ばしい匂い。
良かった、と体と心が軽くなる。早く起きて朝食の準備をしてくれていただけのようだ。
「おはようございます」
裸足のまま階段を降りると足裏がひんやりする。慌てていた所為でスリッパは寝室に置いたままだと今気付いた。
「おはよう、フジ」
ポットにお湯を注いだエルが近付いてフジの頬にキスをした。今朝のルーティンにホッとしてフジは思わずエルを抱き締める。いつもと違う朝を迎えたせいで少し甘えたになってしまっているらしい。
「すまない、朝早く目が覚めてしまって。先に降りて朝食の準備をしていた」
「いえ、ありがとうございます。昨夜あまり食べていなかったのでとてもお腹が空きました」
蒸された茶葉のいい香りだ。
朝食の匂いはどうしてこうも人を幸福にするのだろう。それが好きな人と一緒にいられたら尚更だ。
「またしばらくは船上生活になるからしっかりと食べておこう」
「はい」
置かれたトーストにバターを塗って熱でジュワッと溶けていく様が食欲をそそる。
今日からまた新大陸渡航だ。
問題は様々だが、目下の悩みは環境汚染による健康被害が大きい。このままでは地球が死滅する前に人類が生き絶えてしまう。急速に医薬品を作るための資源集めと、また大気汚染と水質改善できる有益な資源を探さなくてはならない。
やることは山ほどあって、その中でもフジはまだエルとのセックス(挿入)を諦めてはいなかった。これから先も二人きりの生活は続くのだからその長い時間の中でどうにか…こう、彼の弱点を見つけて…!
「フジ、冷えてしまう」
エルの言葉にサクッとパンに齧り付く。バターの濃厚な匂いと濃厚な味、香ばしいパンの味がした。
「美味しいです」
「そうか」
いつもと違う朝、不安な心はすでに溶けていた。
最上階の部屋から専用エレベーターで地下駐車場まで降り、エルのバイクで港まで向かう。ここからは一時間もしないうちに着いてしまうがフジは本当はもっと長く乗っていたかった。普段とは違うスピードで走る感覚と流れていく景色、重低の排気音と体に伝わる振動、大型バイクの真っ黒でかっこいい見た目もエルみたいで好きだった。
しかしながらこの世界では二時間以上のバイク走行は禁止されている。これ以上排気ガスを出すわけにはいかないからだ。自動車もバイクも制限無く走れる時代が来たらエルと二人でどこか遠くまで行ってみたい。歩くのも楽しいが、風を感じながら彼と走ってみたかった。
高い建物から遠去かり山を越えて大海を臨む。
港に到着し、既に待機している中型船の前にはいつもの船長と乗組員が準備をしている最中だった。
いつものように朝の挨拶をしようとして、背後から聞こえたエンジン音にフジは振り返る。現れた黒に塗られた重厚ボディーなセダンは政府専用車。
「やあ、総一郎。おはよう」
「リョウ?」
昨日会ったばかりの幼馴染が車から降りて来た。
隙のない人好きのする爽やかな笑みは仕事用の日高の表情だが、フジに向けられることなどこれまでなかった。
「おはよう。お前が見送りなんて珍しいな」
フジの戸惑った言葉に彼は首を振る。
「見送りじゃなくてどちらかと言えばお迎えさ」
「お迎え…?」
背後を見やる日高の視線を追えば、車から降りて来たのは護衛の天馬だった。しかしその姿はいつものカッチリとしたスーツ姿ではなく、まるで登山に行くかのようなアウトドアスタイル。
フジやエルと似たような格好の彼に首を傾げていれば、隣のエルがゆっくり動いた。
「…エル?」
「すまない。今回の渡航は彼と行ってくれ」
「えっ?」
一瞬言われた意味が理解出来なかった。
彼、とは天馬のことだろうか。
エルはそのまま日高の隣に立ち、天馬がフジの隣に立つ。違和感がもの凄い。いつも自分の隣にいる人が幼馴染とは言え、フジ以外の男と並ぶのを見ると胸がモヤモヤした。
しかしエルが自分と行動を共にしない?何故?
「そう言うことだから。借りるな」
説明もなく手を振り去って行こうとする日高にフジは慌てて止めた。
「ま、待てよ!説明くらいしろって!」
「はあ?何だ話してなかったのか」
呆れたような顔をする日高にエルは無言のままだった。フジに説明しなかった理由は見当は付くが…この男は恋愛に関してはとことんポンコツらしい。日高は白衣姿の自分の恋人を思い出して場違いにも笑ってしまいそうだった。
「ちょっと俺から仕事の依頼をな。海外に一ヶ月ほど連れて行くよ」
「海外!?なら俺も一緒に…!」
「駄目だ。分かるだろ?お前の仕事はお前の仕事で重大なんだ。人類の命運がかかってる。今この瞬間だって人が死んでるんだぞ」
「そ…それは…」
そうだけど。
口ごもるフジに日高もエルも何も言わず車へと向かってしまう。引き留めたくても言葉が出ない。縋るように差し出した手が行き場をなくしてしまった。
「必ず迎えに行く」
車に乗る直前エルはそう言って、その言葉を最後にバタンっと重そうなドアが閉まってしまう。スモークが貼られ外から中の様子はわからない。港を出て小さくなって行く黒い塊を見えなくなるまでフジは未練がましく見つめた。
「行くか」
「はい…」
天馬の言葉に頷くしかない。我儘は言えなかった。フジが大人じゃなければ、ここに天馬がいなければ、きっと地面にしゃがみ込んで泣き喚いていただろう。
それ程までの悲しみと、少しの怒り。
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