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テーマ 「忘れられない匂い」 記憶にへばりつくと言えば…と書いた落差がすごい2話
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壱 「センセイの実験」
目の前でネオンブルーの光がさく裂した。
俺は大学の研究室にいたはずだ。教授に頼まれて、開発中のヘッドギアを付けた。そこから妙な音が響くと同時に、この小部屋に押し込まれたんだが…。
周囲はギラギラと輝く空間だ。
ピンク、紫、青、あらゆる色が目の前を通り過ぎる。
くらくらして酔いそうだ。
「助けて」
思わず叫んだ。俺は息を詰めて扉を開けた。鍵は無い。頭の装置の音も止まった。
世界は元通り。ああ良かった。
教授は肩をすくめた。
「どうだったね、嗅覚を視覚化する実験は?」
そう。脳へ特殊な電波を送る。すると匂いが『視える』ようになる。
俺はその実験に参加してたんだ。
「いや、すごい景色でもうダメでした」
部屋の窓から中を覗いた。
白い部屋にテーブルがあるだけ。その上には靴下、ぐちゃぐちゃで灰色。脱いだばかりかい。
誰の⁈ つま先とか、色が変わってるよ? いやだからこそ、あの強烈な景色か! 嗅がなくて良かったかも、と俺は胸をなでおろした。
あれ? センセイ、裸足だ。
覚えていないのに、忘れられないニオイになった。
弐 「君は金木犀」
グラスが触れあう涼やかな音。そこに、焼き鳥やから揚げを注文する声がかぶる。ここは夜の居酒屋、金曜の夜だ。僕は会社の連中と座敷に座っている。
人口の少ない町だ。僕は学校も仕事もずっと地元だった。
社会人になってからは、会社と家の往復ばかり。繰り返すいつもの日々、うんざりする日常。
ちょっとしたイベントといえば、節目の人事異動だったりする。
秋の異動で僕の部署に女性が来た。歓迎会は9月の末になった。そして皆でここに居ると言うわけだ。
今日の主人公は、僕と同い年らしい。同じ課だけど、担当業務が違うから殆ど話をした事はない。
小林と名乗った彼女は、課長の隣から立った。ビールのカップを手に、席を次々移動する。参加者全員に挨拶をするつもりらしい。マメなんだな、と感心だ。
ふと見ると、髪にオレンジの小花がからんでいる。キンモクセイだ。僕はあの花を知っている。花言葉は幾つもある。そのうちの一つは『初恋』だったか。
アルコールのせいだろうか。僕の頭はどこか痺れたようだ。心の奥底に沈めていた記憶が、出口を求めてうごめいている。
「どうも~」
耳元で笑いを含んだ声が弾けた。異動してきた小林さんだ。もう頭のキンモクセイは取れていた。僕らはグラスを合わせた。
彼女は首を傾げた。
「見おぼえがあるって思ってたの。もしかして…中学の人? 私、そこ卒業してます! 高校は違うよね」
確かに僕の母校だ。よく見たら彼女を思い出した。しばらく地元トークに花が咲く。狭い地域なのだ。会社に旧知の人がいてもおかしくない。それから彼女は腰を浮かせた。次の挨拶だろう。だが、また腰を下ろす。スマホを出した。
「見てみて! 中2の時ね、1年だけ居た子。クラスが違ったよね。覚えていないかな?」
画面には、ショートヘアにゆるふわパーマをかけた女性がいた。赤い口紅が似合う。あでやかな同系色のブラウス姿でカメラにピースだ。それでも僕には分かった。
あの彼女だ。どきん、と胸が鳴る。忘れようとしていた古い記憶。
小林さんが続ける。
「気が合ったの。転校してからも連絡を取ってるんだ。たまに会うよ」
何て言えばいいのだろう。僕が口ごもっているのに、小林さんは気が付かないようだ。
「それでさ~結婚するんだって! 海外勤務に着いて行くらしいよ。今度、彼ピを紹介してもらうんだ!」
僕はやっと声を出した。
「そうなんだ。おめでたい。ごめん、あんまり覚えてないんだ」
「そっか。覚えてないんだ」
小林さんは今度こそ立ち上がった。僕の隣のお局様に、元気に挨拶をしている。
僕はグラスを持ち上げた。ビールの苦さが口に広がる。
中学2年の時だった。
いつも帰り道が同じになる女子がいた。長い髪を1つに束ねて、いつも節目がちだ。彼女の家は転勤族だったか。隣のクラスの転校生だったと思う。名前さえ憶えていない。風にさえ奪われそうな華奢な肢体だった。
涼しい風が吹き始める頃だ。彼女が道の途中で立ち止まっていた。僕に気が付くと、ふわりと笑った。
『いい薫りだね』
『何が?』
僕は照れていた。不愛想な声になった。彼女はめげなかった。
これ、と細い指が上を指さす。見知らぬ家の植え込みだ。黄金とも思えるオレンジ。緑の葉を覆うほどに、可愛らしい花が咲き誇る。確かに周囲には芳醇な香りが満ちる。彼女は花を見上げた。首が露わになった。制服の紺から浮き出たようだった。まるで撫でる為に用意されたような喉。ピンクの唇がうっすら開いた。
『ほら、キンモクセイ』
それはまるで呪文の響きだった。花よりも甘い囁き。僕の腹の底に、むず痒い感情が沸いた。それが何か、当時の僕には分からない。だから目を逸らした。何も答えられずに背を向けた。本当は、そのまま彼女に笑いかけたかった。なよやかな手のひらを包み、髪に触れてみたかった。
そんな想いを悟られなくない。とても照れくさくて、自分を持て余す。翌日からは彼女を避けるように走って帰った。
次の年、彼女は学校にいなかった。父親がまた転勤したらしい。
幹事が遠くから呼んでいる。
「追加の飲み物、頼む人はいますか?」
メニューに目を落とす。またビールか、サワーにするか。日本酒やリキュールには、名前の隣に説明書きが付いている。桂花陳酒が目に入った。
キンモクセイを漬け込んだ白ワインだ。僕は手を挙げた。
「これを…キンモクセイのお酒を」
ちょっとざわめきが起きた。おしゃれ、とか聞こえる。何人かが同じ物を注文した。小林さんもだ。僕と目が合うと、ちょっと肩をすくめた。
それがどういう意味なのか、僕は知らない。何か思う所があるのかもしれないし、ただ少し動いただけかもしれない。
運ばれて来た桂花陳酒は、水色のグラス入りだった。氷が転がる。鼻に抜けるまろやかな薫り。
今なら分かる。あの彼女は、外の世界の空気をまとう異邦人だった。それゆえの憧憬だった。あれは恋だ。形さえ取らなかった。初めは淡くても、激しい炎になりうる心の動きだった。
写真の彼女は、まるで夏の盛りの向日葵だ。小さな花は大輪へと変化したのだ。もうあの人ではない。そして遠い世界に永遠に去った。
僕はおそらくこの地で張った根のままで生きるのだろう。
だから。
こんな感傷に浸る時があってもいいだろう?
僕の思い出の中では、君は黄金の可憐な花。この薫りがやって来る度、僕はこの想いとともに季節を過ごそう。
ーーー君は僕のキンモクセイ…
目の前でネオンブルーの光がさく裂した。
俺は大学の研究室にいたはずだ。教授に頼まれて、開発中のヘッドギアを付けた。そこから妙な音が響くと同時に、この小部屋に押し込まれたんだが…。
周囲はギラギラと輝く空間だ。
ピンク、紫、青、あらゆる色が目の前を通り過ぎる。
くらくらして酔いそうだ。
「助けて」
思わず叫んだ。俺は息を詰めて扉を開けた。鍵は無い。頭の装置の音も止まった。
世界は元通り。ああ良かった。
教授は肩をすくめた。
「どうだったね、嗅覚を視覚化する実験は?」
そう。脳へ特殊な電波を送る。すると匂いが『視える』ようになる。
俺はその実験に参加してたんだ。
「いや、すごい景色でもうダメでした」
部屋の窓から中を覗いた。
白い部屋にテーブルがあるだけ。その上には靴下、ぐちゃぐちゃで灰色。脱いだばかりかい。
誰の⁈ つま先とか、色が変わってるよ? いやだからこそ、あの強烈な景色か! 嗅がなくて良かったかも、と俺は胸をなでおろした。
あれ? センセイ、裸足だ。
覚えていないのに、忘れられないニオイになった。
弐 「君は金木犀」
グラスが触れあう涼やかな音。そこに、焼き鳥やから揚げを注文する声がかぶる。ここは夜の居酒屋、金曜の夜だ。僕は会社の連中と座敷に座っている。
人口の少ない町だ。僕は学校も仕事もずっと地元だった。
社会人になってからは、会社と家の往復ばかり。繰り返すいつもの日々、うんざりする日常。
ちょっとしたイベントといえば、節目の人事異動だったりする。
秋の異動で僕の部署に女性が来た。歓迎会は9月の末になった。そして皆でここに居ると言うわけだ。
今日の主人公は、僕と同い年らしい。同じ課だけど、担当業務が違うから殆ど話をした事はない。
小林と名乗った彼女は、課長の隣から立った。ビールのカップを手に、席を次々移動する。参加者全員に挨拶をするつもりらしい。マメなんだな、と感心だ。
ふと見ると、髪にオレンジの小花がからんでいる。キンモクセイだ。僕はあの花を知っている。花言葉は幾つもある。そのうちの一つは『初恋』だったか。
アルコールのせいだろうか。僕の頭はどこか痺れたようだ。心の奥底に沈めていた記憶が、出口を求めてうごめいている。
「どうも~」
耳元で笑いを含んだ声が弾けた。異動してきた小林さんだ。もう頭のキンモクセイは取れていた。僕らはグラスを合わせた。
彼女は首を傾げた。
「見おぼえがあるって思ってたの。もしかして…中学の人? 私、そこ卒業してます! 高校は違うよね」
確かに僕の母校だ。よく見たら彼女を思い出した。しばらく地元トークに花が咲く。狭い地域なのだ。会社に旧知の人がいてもおかしくない。それから彼女は腰を浮かせた。次の挨拶だろう。だが、また腰を下ろす。スマホを出した。
「見てみて! 中2の時ね、1年だけ居た子。クラスが違ったよね。覚えていないかな?」
画面には、ショートヘアにゆるふわパーマをかけた女性がいた。赤い口紅が似合う。あでやかな同系色のブラウス姿でカメラにピースだ。それでも僕には分かった。
あの彼女だ。どきん、と胸が鳴る。忘れようとしていた古い記憶。
小林さんが続ける。
「気が合ったの。転校してからも連絡を取ってるんだ。たまに会うよ」
何て言えばいいのだろう。僕が口ごもっているのに、小林さんは気が付かないようだ。
「それでさ~結婚するんだって! 海外勤務に着いて行くらしいよ。今度、彼ピを紹介してもらうんだ!」
僕はやっと声を出した。
「そうなんだ。おめでたい。ごめん、あんまり覚えてないんだ」
「そっか。覚えてないんだ」
小林さんは今度こそ立ち上がった。僕の隣のお局様に、元気に挨拶をしている。
僕はグラスを持ち上げた。ビールの苦さが口に広がる。
中学2年の時だった。
いつも帰り道が同じになる女子がいた。長い髪を1つに束ねて、いつも節目がちだ。彼女の家は転勤族だったか。隣のクラスの転校生だったと思う。名前さえ憶えていない。風にさえ奪われそうな華奢な肢体だった。
涼しい風が吹き始める頃だ。彼女が道の途中で立ち止まっていた。僕に気が付くと、ふわりと笑った。
『いい薫りだね』
『何が?』
僕は照れていた。不愛想な声になった。彼女はめげなかった。
これ、と細い指が上を指さす。見知らぬ家の植え込みだ。黄金とも思えるオレンジ。緑の葉を覆うほどに、可愛らしい花が咲き誇る。確かに周囲には芳醇な香りが満ちる。彼女は花を見上げた。首が露わになった。制服の紺から浮き出たようだった。まるで撫でる為に用意されたような喉。ピンクの唇がうっすら開いた。
『ほら、キンモクセイ』
それはまるで呪文の響きだった。花よりも甘い囁き。僕の腹の底に、むず痒い感情が沸いた。それが何か、当時の僕には分からない。だから目を逸らした。何も答えられずに背を向けた。本当は、そのまま彼女に笑いかけたかった。なよやかな手のひらを包み、髪に触れてみたかった。
そんな想いを悟られなくない。とても照れくさくて、自分を持て余す。翌日からは彼女を避けるように走って帰った。
次の年、彼女は学校にいなかった。父親がまた転勤したらしい。
幹事が遠くから呼んでいる。
「追加の飲み物、頼む人はいますか?」
メニューに目を落とす。またビールか、サワーにするか。日本酒やリキュールには、名前の隣に説明書きが付いている。桂花陳酒が目に入った。
キンモクセイを漬け込んだ白ワインだ。僕は手を挙げた。
「これを…キンモクセイのお酒を」
ちょっとざわめきが起きた。おしゃれ、とか聞こえる。何人かが同じ物を注文した。小林さんもだ。僕と目が合うと、ちょっと肩をすくめた。
それがどういう意味なのか、僕は知らない。何か思う所があるのかもしれないし、ただ少し動いただけかもしれない。
運ばれて来た桂花陳酒は、水色のグラス入りだった。氷が転がる。鼻に抜けるまろやかな薫り。
今なら分かる。あの彼女は、外の世界の空気をまとう異邦人だった。それゆえの憧憬だった。あれは恋だ。形さえ取らなかった。初めは淡くても、激しい炎になりうる心の動きだった。
写真の彼女は、まるで夏の盛りの向日葵だ。小さな花は大輪へと変化したのだ。もうあの人ではない。そして遠い世界に永遠に去った。
僕はおそらくこの地で張った根のままで生きるのだろう。
だから。
こんな感傷に浸る時があってもいいだろう?
僕の思い出の中では、君は黄金の可憐な花。この薫りがやって来る度、僕はこの想いとともに季節を過ごそう。
ーーー君は僕のキンモクセイ…
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