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王国の聖女編
謁見の場にて(クリス視点)
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王座の間に、久方ぶりに重厚な緊張感が戻っていた。
長らく空白だった臣下たちの定位置は今、誇り高き者たちで埋め尽くされている。数日前に連絡したというのに、忠義の厚いようで何よりだ。明らかに間に合わない距離に住んでいるのに、飛龍族に拝み倒して乗り合わせて来た者までいると聞き、アルディオス様の威光の広さを感じる。まあ、ただの見栄張りか暇人なのかもしれないが。
王自らが招いての謁見となれば、本来なら右に城内の文官たち、左に信頼厚い近衛騎士たちが並ぶ。しかし、今回は念のため隊長以上の近衛を均等に配置するのみとなっている。そして中央には、黒と金糸の織り成す荘厳な絨毯がまっすぐ伸び、6段登った先に城の主たる王の玉座へと続いていた。
私はフロアから階段を2段上がる、宰相としての定位置に立ち緊張に軽く息を吸った。
「皆、所定の位置につき、出迎えの準備が整いました。アルディオス様」
「調整役ご苦労だったね。クリス」
すでに王座についたアルディオス様は深く頷き、労いの言葉を返してくださる。正装である漆黒の軍服を身に纏い、普段は下ろしている前髪を全て後ろへ撫で付けて固めたその姿は、並ぶものがないほどに威厳に満ちており、彫刻のように怜悧で整いすぎている。何度見ても見惚れる。改めて、底知れぬ魅力を宿していた。
・・・アルディオス様の背後にひっそりと立つ、従僕服を纏ったヤツの仕立てだという1点のみ、釈然としないが。
目を閉じ、気分を切り替えて廊下の向こうから響いてくる足音に同期する。
王国の王太子以下の先導役は、ドリアードである自分が分かれた姿─もう1人の私だ。アルディオス様のそばで研鑽を重ねた結果、城の中ならば分体を自在に動かせるようになっている。
複数の騎士を伴って、ダンジョンを初めて攻略したパーティを歓待する態で王座の間へと案内していた。
王太子たちが扉裏へ到着し、間が静まり返った後。扉が開かれる。
奥から、威風を備えた若者が姿を現した。風を纏うような歩みと、深い青の外套。王国の若き王太子はレオフリートというらしい。精悍な顔つきに、旅を経た者特有の疲労と成長の陰影が浮かんでいる。
その後ろには、意図して抑えた聖気を纏う女が続いた。聖女の名を冠し、王国で崇められている彼女の微笑みは、毒と知っていても惹かれるものがいるのだろう。その後ろには、騎士たち、魔術師風の者が並ぶ。
全員が跪き、私の指示で立ち上がった。
「よく参ったな。我がこの地を治める魔王だ。王国の勇敢な若者たちよ、歓迎しよう」
端的で、けれど柔らかなアルディオス様の声音には偽りなく歓迎の意が込められていたが。
それは客人に対してのものであり、ミュリエル様を貶めた者に向けられたものではない。
・・・阿婆擦れが。
私は聖女の目線が明らかにアルディオス様の容貌へ向けられているのを見逃さなかった。
そんな背後のことはつゆも知らず、王太子が許しを経て一歩前に出る。金髪を一房だけ伸ばして、銀輪の髪飾りで括っていた。
「もてなしを有り難くいただきます、魔王陛下。ところで・・・なぜ、我々をこの城にお招きくださったのですか?」
口調は礼節を保ちながらも、その蒼の瞳には真意を問う響きがある。風魔法の使い手、その胆力も含めてなかなか見所がありそうだ。
アルディオス様は表情一つ変えず、玉座の背にもたれた。
「宰相から報告を受けた。ダンジョンを初めて攻略した未来ある若者たちがいると。それに隣国の王太子が含まれているとなれば、賞賛を贈らねば恥になろう?」
その声には微かな皮肉も感じられた。だが王太子は臆することなく続ける。
「そうですか、過分なお言葉、痛み入ります・・・もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「許そう」
「陛下は、ご成婚されたと伺いました。この場を借りて祝辞を述べさせていただきたく存じます。誠におめでとうございます」
「ああ、そなたの祝辞を受けよう」
「本日はご欠席のようですが・・・陛下は、普段から公の場に奥方をお連れにならないのですか?」
その言葉に、眉がひくりと反応しそうになる。予想していた問いだったが、やはりここで来たか。
アルディオス様は一拍置き、ゆるやかに答える。口元には余裕の笑みすら浮かべていた。
「・・・妻は、政には一切関与しない」
「そうですか」
王太子は、そこに余計な感情を重ねようとはしなかった。引き際を弁えているところも大いに結構だ。
だが、彼がもし本物の聖女を理想として求めるなら。その眼差しの先にある存在を見落とすことは、この先をも左右するだろう。
無意識に、城の上階を思った。今この瞬間もアルディオス様の執務室で読書か、刺繍をしているミュリエル様のことを。淡い光の中、胸上まで伸びた銀の髪を揺らしながらひたむきに向かう彼女の姿は、1枚の絵画のように美しいと認めざるを得ない。
私の忠義は国ではなく契約者たるアルディオス様にのみ捧げているが。急ぎの用がなく、お願いくらいならば聞いてもいいと思うくらいには、彼女への尊敬の念もいつからか持ち始めていた。
それほどまでに、彼女がアルディオス様に与える影響は大きく、まだ見ぬ彼を見させてくれるから。
そして、1つ思い至る。本日聖女と相対するアルディオス様には、護衛として騎士団長をつけたかったのだが。他の誰でもないアルディオス様がミュリエル様の側におくべきだと言って断固として譲らず、本日傍に立つのはエルフの副団長である。
質実剛健、個の強さを持ち護衛任務が主な仕事であるツヴァイに代わり、実質団の総司令官を務めるラティスに不満などありようもないのだが。彼の魔法もー対多に向いており、ドリアードたる私と連携するにも向いている。
・・・何よりも、この場にいる中で最も強いのはアルディオス様ご自身だ。その身さえ守られれば、あとはどうにでもなる。
△▼△
重厚な静寂が王座の間を包む中、王太子の問いへの応答が終わると、次に進み出たのは聖女だった。
一歩、また一歩、絨毯の上を音もなく歩き、王太子と並び立ち玉座の前で華麗なカーテンシーを見せる。その姿には教会で育てられた聖女の気品と、貴族令嬢としての計算された優雅さが混在していた。
ガワだけなら、一級品だ。
「このような素晴らしい場にお招きいただき光栄に存じます、魔王陛下。ですが、やはり聖女たる奥様にお目にかかれないのが残念でなりませんわ」
私は瞼の裏で小さく眉をひそめる。どの口がいう。本物を貶めて、自分の配下にしようとしている癖に。
「同じ聖女同士、お話も弾むかと期待しておりましたのに」
女の声は高く柔らかい。けれど、その内側には別の意図─いや、魔力と共に周りの者の心を染め変える魅了の力が潜んでいる。
それでもアルディオス様は、ただ口元に笑みを浮かべるのみだった。その眼差しは、まるで霧の奥に立つ彫像のように遠く、冷ややかで何一つ心を動かされた様子はない。
・・・それがどれほどの強靭な意志の上に成り立っているか。
聖女が、今ここで放っている香気。それがこのまま続けば、忠臣の中にも次第に平静を奪われる者が出てくるかもしれない。だからこそ、謁見は短く終えなければならない。
「それは光栄だ」
アルディオス様の声はあくまで礼を失せぬ程度に低く、短い。
そして、その言葉に乗じるように、女は微笑を深めて手のひらをひらりと振った。
「・・・あら、わたくしとしたことがうっかりしておりましたわ。ルイス。例の品を」
その瞬間だった。呼ばれた銀髪赤目の騎士が、懐から恭しく取り出した小箱を開き、中にあるものを見せたとき。
息が止まり、目が大きく見開かれそうになった自分を律した。
そこに納められていたのは、深紅にピンクの羽飾りがついた扇子だった。金糸の刺繍もあり、装飾は繊細かつ華麗。けれど、一番近くにいた私にはそれが何よりもアレに酷似していることがわかってしまった。
なぜ・・・なぜこれを、この場で出す?
呪いによってもたらされた悪夢の中で、ミュリエル様を執拗に傷つけた扇子と、差し出されようとしている献上品が酷似しているという事実。
夢見師の報告書に書かれた絵を何度も見た私は、眩暈がするのをぐっと抑えた。
まさか偶然か。それとも、女は意識的に合致するものを選んだのか。
「こちら、王都でも特に名の知れた工房に依頼した特注品でして。わたくしも同じものを色違いで所持しておりますの。奥様とお揃いになれば光栄ですわ」
恐怖と嫌悪を飲み込むように、息を殺した。間近にいる私の表情は絶対に崩せない。
しかし、陰謀の有無に関わらず。アルディオス様に直接渡されては─
「待たれよ」
彼は、緩やかに左手を上げた。怒るでも、拒むでもなく。そこには一切の感情がなかった。
階段を一歩踏み出そうとしていた聖女を一瞥し、ただ静かに傍らに控える赤髪の男─トレーシーへと視線を流す。
「聖女殿にご足労いただくまでもない。ヴァンピーア公、代わりに受け取ってくれ」
「 Jawohl , mein Gebieter」
2人の声には、何の濁りもなかった。ただそれが、かえって恐ろしかった。
女は、わずかに唇を尖らせたように見えた。けれどすぐに取り繕い、扇子を受け取った笑顔のトレーシーに対し、にこやかに礼を述べる。
その間、終始私の心臓はずっと冷たく鳴っていた。女は全く気づいていないと確信したからだ。
アルディオス様とミュリエル様にとって、この扇子が─どれほど無遠慮で、冒涜的な贈り物であるか。
香りにあてられた者ならば、少しずつ心を染め上げられていくかもしれない。しかし胸の上に、絶対的な守りを持つ彼には届かない。そしてその効果は、薄くともこの間全体を覆っているのを今はっきりと感じた。
聖女の満足げな微笑みに応じることなく、アルディオス様は一度瞬きすると静かに言った。
「せっかくの機会だ。今宵は我が城に逗留されよ。部屋と食事を用意させる。旅の疲れを癒すといい」
その言葉に、王太子を含むパーティの面々は僅かに驚いた顔を見せた。想像以上の好意的対応に、警戒と安堵が交錯しているようだ。
だが、私は知っている。
このもてなしは、予定調和だ。王が献上品に感動し、気を許した証などでは絶対にない。
アルディオス様の心は、女がこの城に近づくほどに冷たく燃え続け、あの扇子を見せられた瞬間に噴火直前の火山のように、奥で煮えたぎっている──ただ、決して誰にも悟らせないように。
謁見が終わり、分体が王太子たちを案内し終えるまで。私は深く首を垂れながら思った。
ーこの均衡が続くのは、今夜が限度だ。
聖女は、あの女は自分の侵した罪さえ自覚せず、アルディオス様に近づく機会を狙っている。香りをより強く、より近くに届けるために・・・まるで林檎の木に絡みつき、獲物を待つ蛇のように。
だが、その牙が届くには彼女は知らなすぎる。
眉目秀麗、冷徹な為政者としての顔が目立つアルディオス様がただ唯一、自ら求め愛する妻がいることを。
そして、彼女を傷つけた者を彼が決して赦さないことを──
私は静かに息を吐き、微笑みを崩さぬままに襟を正した。この静けさは、嵐の前の静寂にすぎない。私の仕事はこれからだ。
長らく空白だった臣下たちの定位置は今、誇り高き者たちで埋め尽くされている。数日前に連絡したというのに、忠義の厚いようで何よりだ。明らかに間に合わない距離に住んでいるのに、飛龍族に拝み倒して乗り合わせて来た者までいると聞き、アルディオス様の威光の広さを感じる。まあ、ただの見栄張りか暇人なのかもしれないが。
王自らが招いての謁見となれば、本来なら右に城内の文官たち、左に信頼厚い近衛騎士たちが並ぶ。しかし、今回は念のため隊長以上の近衛を均等に配置するのみとなっている。そして中央には、黒と金糸の織り成す荘厳な絨毯がまっすぐ伸び、6段登った先に城の主たる王の玉座へと続いていた。
私はフロアから階段を2段上がる、宰相としての定位置に立ち緊張に軽く息を吸った。
「皆、所定の位置につき、出迎えの準備が整いました。アルディオス様」
「調整役ご苦労だったね。クリス」
すでに王座についたアルディオス様は深く頷き、労いの言葉を返してくださる。正装である漆黒の軍服を身に纏い、普段は下ろしている前髪を全て後ろへ撫で付けて固めたその姿は、並ぶものがないほどに威厳に満ちており、彫刻のように怜悧で整いすぎている。何度見ても見惚れる。改めて、底知れぬ魅力を宿していた。
・・・アルディオス様の背後にひっそりと立つ、従僕服を纏ったヤツの仕立てだという1点のみ、釈然としないが。
目を閉じ、気分を切り替えて廊下の向こうから響いてくる足音に同期する。
王国の王太子以下の先導役は、ドリアードである自分が分かれた姿─もう1人の私だ。アルディオス様のそばで研鑽を重ねた結果、城の中ならば分体を自在に動かせるようになっている。
複数の騎士を伴って、ダンジョンを初めて攻略したパーティを歓待する態で王座の間へと案内していた。
王太子たちが扉裏へ到着し、間が静まり返った後。扉が開かれる。
奥から、威風を備えた若者が姿を現した。風を纏うような歩みと、深い青の外套。王国の若き王太子はレオフリートというらしい。精悍な顔つきに、旅を経た者特有の疲労と成長の陰影が浮かんでいる。
その後ろには、意図して抑えた聖気を纏う女が続いた。聖女の名を冠し、王国で崇められている彼女の微笑みは、毒と知っていても惹かれるものがいるのだろう。その後ろには、騎士たち、魔術師風の者が並ぶ。
全員が跪き、私の指示で立ち上がった。
「よく参ったな。我がこの地を治める魔王だ。王国の勇敢な若者たちよ、歓迎しよう」
端的で、けれど柔らかなアルディオス様の声音には偽りなく歓迎の意が込められていたが。
それは客人に対してのものであり、ミュリエル様を貶めた者に向けられたものではない。
・・・阿婆擦れが。
私は聖女の目線が明らかにアルディオス様の容貌へ向けられているのを見逃さなかった。
そんな背後のことはつゆも知らず、王太子が許しを経て一歩前に出る。金髪を一房だけ伸ばして、銀輪の髪飾りで括っていた。
「もてなしを有り難くいただきます、魔王陛下。ところで・・・なぜ、我々をこの城にお招きくださったのですか?」
口調は礼節を保ちながらも、その蒼の瞳には真意を問う響きがある。風魔法の使い手、その胆力も含めてなかなか見所がありそうだ。
アルディオス様は表情一つ変えず、玉座の背にもたれた。
「宰相から報告を受けた。ダンジョンを初めて攻略した未来ある若者たちがいると。それに隣国の王太子が含まれているとなれば、賞賛を贈らねば恥になろう?」
その声には微かな皮肉も感じられた。だが王太子は臆することなく続ける。
「そうですか、過分なお言葉、痛み入ります・・・もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「許そう」
「陛下は、ご成婚されたと伺いました。この場を借りて祝辞を述べさせていただきたく存じます。誠におめでとうございます」
「ああ、そなたの祝辞を受けよう」
「本日はご欠席のようですが・・・陛下は、普段から公の場に奥方をお連れにならないのですか?」
その言葉に、眉がひくりと反応しそうになる。予想していた問いだったが、やはりここで来たか。
アルディオス様は一拍置き、ゆるやかに答える。口元には余裕の笑みすら浮かべていた。
「・・・妻は、政には一切関与しない」
「そうですか」
王太子は、そこに余計な感情を重ねようとはしなかった。引き際を弁えているところも大いに結構だ。
だが、彼がもし本物の聖女を理想として求めるなら。その眼差しの先にある存在を見落とすことは、この先をも左右するだろう。
無意識に、城の上階を思った。今この瞬間もアルディオス様の執務室で読書か、刺繍をしているミュリエル様のことを。淡い光の中、胸上まで伸びた銀の髪を揺らしながらひたむきに向かう彼女の姿は、1枚の絵画のように美しいと認めざるを得ない。
私の忠義は国ではなく契約者たるアルディオス様にのみ捧げているが。急ぎの用がなく、お願いくらいならば聞いてもいいと思うくらいには、彼女への尊敬の念もいつからか持ち始めていた。
それほどまでに、彼女がアルディオス様に与える影響は大きく、まだ見ぬ彼を見させてくれるから。
そして、1つ思い至る。本日聖女と相対するアルディオス様には、護衛として騎士団長をつけたかったのだが。他の誰でもないアルディオス様がミュリエル様の側におくべきだと言って断固として譲らず、本日傍に立つのはエルフの副団長である。
質実剛健、個の強さを持ち護衛任務が主な仕事であるツヴァイに代わり、実質団の総司令官を務めるラティスに不満などありようもないのだが。彼の魔法もー対多に向いており、ドリアードたる私と連携するにも向いている。
・・・何よりも、この場にいる中で最も強いのはアルディオス様ご自身だ。その身さえ守られれば、あとはどうにでもなる。
△▼△
重厚な静寂が王座の間を包む中、王太子の問いへの応答が終わると、次に進み出たのは聖女だった。
一歩、また一歩、絨毯の上を音もなく歩き、王太子と並び立ち玉座の前で華麗なカーテンシーを見せる。その姿には教会で育てられた聖女の気品と、貴族令嬢としての計算された優雅さが混在していた。
ガワだけなら、一級品だ。
「このような素晴らしい場にお招きいただき光栄に存じます、魔王陛下。ですが、やはり聖女たる奥様にお目にかかれないのが残念でなりませんわ」
私は瞼の裏で小さく眉をひそめる。どの口がいう。本物を貶めて、自分の配下にしようとしている癖に。
「同じ聖女同士、お話も弾むかと期待しておりましたのに」
女の声は高く柔らかい。けれど、その内側には別の意図─いや、魔力と共に周りの者の心を染め変える魅了の力が潜んでいる。
それでもアルディオス様は、ただ口元に笑みを浮かべるのみだった。その眼差しは、まるで霧の奥に立つ彫像のように遠く、冷ややかで何一つ心を動かされた様子はない。
・・・それがどれほどの強靭な意志の上に成り立っているか。
聖女が、今ここで放っている香気。それがこのまま続けば、忠臣の中にも次第に平静を奪われる者が出てくるかもしれない。だからこそ、謁見は短く終えなければならない。
「それは光栄だ」
アルディオス様の声はあくまで礼を失せぬ程度に低く、短い。
そして、その言葉に乗じるように、女は微笑を深めて手のひらをひらりと振った。
「・・・あら、わたくしとしたことがうっかりしておりましたわ。ルイス。例の品を」
その瞬間だった。呼ばれた銀髪赤目の騎士が、懐から恭しく取り出した小箱を開き、中にあるものを見せたとき。
息が止まり、目が大きく見開かれそうになった自分を律した。
そこに納められていたのは、深紅にピンクの羽飾りがついた扇子だった。金糸の刺繍もあり、装飾は繊細かつ華麗。けれど、一番近くにいた私にはそれが何よりもアレに酷似していることがわかってしまった。
なぜ・・・なぜこれを、この場で出す?
呪いによってもたらされた悪夢の中で、ミュリエル様を執拗に傷つけた扇子と、差し出されようとしている献上品が酷似しているという事実。
夢見師の報告書に書かれた絵を何度も見た私は、眩暈がするのをぐっと抑えた。
まさか偶然か。それとも、女は意識的に合致するものを選んだのか。
「こちら、王都でも特に名の知れた工房に依頼した特注品でして。わたくしも同じものを色違いで所持しておりますの。奥様とお揃いになれば光栄ですわ」
恐怖と嫌悪を飲み込むように、息を殺した。間近にいる私の表情は絶対に崩せない。
しかし、陰謀の有無に関わらず。アルディオス様に直接渡されては─
「待たれよ」
彼は、緩やかに左手を上げた。怒るでも、拒むでもなく。そこには一切の感情がなかった。
階段を一歩踏み出そうとしていた聖女を一瞥し、ただ静かに傍らに控える赤髪の男─トレーシーへと視線を流す。
「聖女殿にご足労いただくまでもない。ヴァンピーア公、代わりに受け取ってくれ」
「 Jawohl , mein Gebieter」
2人の声には、何の濁りもなかった。ただそれが、かえって恐ろしかった。
女は、わずかに唇を尖らせたように見えた。けれどすぐに取り繕い、扇子を受け取った笑顔のトレーシーに対し、にこやかに礼を述べる。
その間、終始私の心臓はずっと冷たく鳴っていた。女は全く気づいていないと確信したからだ。
アルディオス様とミュリエル様にとって、この扇子が─どれほど無遠慮で、冒涜的な贈り物であるか。
香りにあてられた者ならば、少しずつ心を染め上げられていくかもしれない。しかし胸の上に、絶対的な守りを持つ彼には届かない。そしてその効果は、薄くともこの間全体を覆っているのを今はっきりと感じた。
聖女の満足げな微笑みに応じることなく、アルディオス様は一度瞬きすると静かに言った。
「せっかくの機会だ。今宵は我が城に逗留されよ。部屋と食事を用意させる。旅の疲れを癒すといい」
その言葉に、王太子を含むパーティの面々は僅かに驚いた顔を見せた。想像以上の好意的対応に、警戒と安堵が交錯しているようだ。
だが、私は知っている。
このもてなしは、予定調和だ。王が献上品に感動し、気を許した証などでは絶対にない。
アルディオス様の心は、女がこの城に近づくほどに冷たく燃え続け、あの扇子を見せられた瞬間に噴火直前の火山のように、奥で煮えたぎっている──ただ、決して誰にも悟らせないように。
謁見が終わり、分体が王太子たちを案内し終えるまで。私は深く首を垂れながら思った。
ーこの均衡が続くのは、今夜が限度だ。
聖女は、あの女は自分の侵した罪さえ自覚せず、アルディオス様に近づく機会を狙っている。香りをより強く、より近くに届けるために・・・まるで林檎の木に絡みつき、獲物を待つ蛇のように。
だが、その牙が届くには彼女は知らなすぎる。
眉目秀麗、冷徹な為政者としての顔が目立つアルディオス様がただ唯一、自ら求め愛する妻がいることを。
そして、彼女を傷つけた者を彼が決して赦さないことを──
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