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帝国・教国編
弔いと誓い
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前半ミュリエル視点、後半アルディオス視点です。前後半で視点が変わります。
ーーーーーーーーーー
床に膝をつくと、視界が霞むような気がした。頭が少しぼんやりして、意識の端で何かを感じる──でも、それが何かはわからない。
瞳を閉じてゆっくりと息を吐き出すと、ひんやりとした石床の感触が布ごしに伝わってきた。水浴びをしたばかりだから、背に流した髪はほんのりと水気を帯びている。1人で身にまとったのは、飾りのない襟付きのワンピース。慎ましく、それでも今から行うことにふさわしいものを。
白百合を活けたガラスの花器は、膝のすぐ近くの陽の当たらない奥に置かれていた。そこから、静かに花を1本取って床に置く。
その瞬間、なにかが背筋をぞくりと走る感覚がした。まるで、誰かに見つめられているような・・・
けれど、周囲を振り返って見ても。部屋には私以外誰もいない。城の最上階にある寝室は、昼間に人の気配がない。
ここなら誰にも知られずに、ようやくの整い始めた気持ちを形にできるような気がしていました。
お母さま・・・
喉が詰まって、心の中でしか呼びかけることができない。5歳になる直前に喪った、大切な人。母の死をきっかけに、私を取り巻く環境は一変してしまった。義母と義妹の横暴に、父・・・いえ、男爵の不干渉。
母を亡くしてから、アルに救いの手を差し伸べてもらうまでの記憶は不鮮明なまま。今はもう、はるか昔のように感じている。きっとこのまま、どんどん遠ざかっていくのでしょう。
息をゆっくりと吸う。ただの一度も墓参りすらできない、親不孝な娘だけれど・・・ようやく今日だけは。ただ、母のことを。
「ミュリエル!!」
その時だった。扉が勢いよく開かれる音がして、驚いて振り返る間もなく重く沈んだ足音が続いた。
組もうとした手を、膝に下ろす。仰ぎ見ればそこには肩で息をしている、アルがいたから。
「あ・・・」
「なにを、しようとしているの」
氷のように、冷たい声だった。漆黒の目が見たことのない角度で私を捉えている。
目線が合った瞬間、言葉が出ずに心が跳ねた。私は、何かを間違えてしまったのでしょうか。もしかして・・・これは、してはいけないことだったの?
コツコツと、革靴の音が硬く響いた。強く、けれど乱暴ではない手に右腕を掴まれる。私は床に座ったまま、アルは立ったままなので少し引き上げるように、しかし突き放さずに絶対に離さないと宣告するような力で。
「ア、ル?」
「白百合を用意させたって、聞いたけれど・・・髪も濡れてる。い・・・ったい、その魔力で何をしようとしているの」
困惑を、呼んだ名前にそのまま込めた。けれど、彼の全身から力は抜けない。少し怖いとすら思ってしまう。
怒っている? 心配している? 悲しそう? その全てがない混ぜになったような表情のまま、私をじっと捉えて離さない。
「あっ・・・あの、今日は、お母様の命日、なんです」
何度も言いかけて、言葉にならずを繰り返してようやく口にできた。声は震えていたかもしれない。
でも、本当のことだった。この国に来てようやく、今日この日にやっと私の中で、母をちゃんと弔いたいと思えたのだ。
「悼みたいだけで、その、魔力は無意識で・・・ごめんなさい。どうか、許してください」
そこまで何とか伝えられて、彼の反応を待った。強く握られた腕が、不意に緩む。
伏せていた目を開けて仰ぎ見た。アルが漆黒の瞳を見開いて、そして・・・脱力する。全身から安堵の色が浮かんでいた。
それを見て、私もほっとした。心配させてしまったのだと分かったから。
「ごめん・・・僕は、勘違いを」
次の瞬間、彼も膝をついて私の視線の高さに降りてきてくれる。腕を取っていた手が、私の手のひらに重なる。
2人して冷えた指が、互いのぬくもりで溶かされていくかのようだった。
「いいえ、私がアルに、きちんと相談すればよかったです・・・慌てさせて、心配させてしまいました」
微笑んで返せば、静かに首を振ってくれる。再度視線が合ったとき、アルは眉根を寄せて願うような表情をしていて。
頬の内側が熱くなって、心臓がどきりとする。
「・・・ミュリエルが、許してくれるなら。僕も一緒に、お母様のことを弔わせてほしい」
その言葉があまりにも優しくて、胸の奥からじんと熱くなる。はい、とうなずくとアルは花瓶から一本の白百合を抜いて、私が置いた横に添えてくれた。
部屋の中は静寂を取り戻し、ひんやりと感じる。でも、先ほどのように悲しくはなかった。
ーありがとう、アル。
落ち着いたら、いつか必ず伝えたい。今日の、このときの気持ちを。
魔の国に来て、アルの妻になって。私はずっと孤独じゃない。ずっと満たされている。包み込まれるようなその愛に、どれだけ心地よく、心強く感じているのかを。
ゆっくりと、目を閉じる。向かい合って互いの手を組む私たちの膝の間、白百合の香りだけが、静かに部屋に満ちていくのを感じていた。
△▼△
しばらく、黙祷を捧げていたミュリエルは手を握ったままぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「お母さまは・・・よく、私の髪を梳いてくれました。朝起きたらすぐに・・・そのたびに、きれいな銀の髪ねって、ほめてくれて」
彼女の声は静かで、遠くを思い出しているかのようだった。手の中の細い指先が、少しずつ冷たくなっていくのを感じる。膝をついたままの姿勢に疲れているのだろうが、それに気づいていないのだろうか。
「生まれてから、この国に来た日まで。敷地の外には一度も出ませんでした。でも、天気のいい日は私を庭に連れ出してくれて、花の名前を教えてくれました。1つずつ、丁寧に・・・これはグロッケンブルーメ、これはエーデルワイス、これはアルニカって・・・」
その名前に、すべて聞き覚えがあった。ミュリエルが自分の温室で大切に育てている花々と、きっと同じだ。
「お母さまの手は、いつだって優しくて温かかったのに・・・最後に抱きしめてくれたときは、もう、すごく冷たくて・・・」
ぽろりとこぼれた涙が、頬を伝って落ちる。僕は名前を呼ぶ代わりに、彼女の手をそっと撫でた。それでも、ミュリエルは語り続けた。
「たくさん、愛してくれたのに・・・最後に、お別れができませんでした。たぶん熱で、意識もぼんやりしていて・・・男爵に、家にいなさいって言われてっ・・・」
しばらく待ったけれど、それ以上の言葉はなかった。身体を震わせて、僕の肩に頭を預けたままミュリエルは目を閉じている。
・・・静かに、涙を流しながら。夢の中でも母を想っているのか、まぶたは繊細に震えていた。
肩を貸したまま姿勢を保って、彼女を起こさぬようにそっと肩を支え、膝の下に腕を通して抱き上げる。
身長は伸びたけど、抱きしめるとぴたりとはまるミュリエルの身体はとても軽くて、久しぶりに儚く思えた。
・・・入室した直後は、逆光と気が動転していて認識できていなかったけれど。彼女が纏っていたのは聖女の儀式で使われる白などではなく、悼むための黒のワンピースだった。
レースも、ボタン飾り1つすらないシンプルな作りのもの。それは、初めて会ったときに着ていた服によく似ていた。不幸の象徴であるあれはすぐ処分したから、これは何かの折に用意させたのだと思う。
そのままでは休めないだろうと、そっとベッドへ運んで楽な衣服へと着替えさせる。一瞬でも目を離したら消えてしまいそうで、無防備な寝姿に何度も頬に触れて、手のひらを撫でて存在を確かめている僕がいた。
△▼△
やっと気持ちを落ち着けて、柔らかいブランケットをミュリエルの肩にかける。2人だけの部屋に温かい呼吸が、規則正しく続いていた。まぶたの震えはもうない。
ー異変を察知してすぐに来たから、会議も途中退室した。処理すべき書類仕事が山ほどあることはわかっている。人払いもしているため僕が指示をするまでクリスすら来ない。
けれど、今は動く必要性を感じなかった。純粋無垢であたたかい生命を、ただそばで見守るべきだと確信していた。
それと同時に、胸を撫で下ろしている魔王としての僕もいた。
ミュリエルの前で『祈り』という言葉を使わずに済んだこと。そして、彼女が母への想いを『祈り』とせず、純粋な弔いとして抱いたことに。
何故なら、聖女の『祈り』はどれだけ離れていても感知されるから。以前の魔力暴走など比にならないほどに正確に、心情、居場所、魔力など・・・総てを覗かれるのだ。
そして、一度でも『祈り』が通じれば、その瞬間から聖女は神の監視下に置かれるーー歴代の王に引き継がれる伝記には、そういうものと記載されていた。
僕は、したたかに臍を噛んだ。ただ、亡くした大切な人を悼む。普通なら弔いで終わるその行為すら、彼女にとっては枷になる。ミュリエルがついた悲しみの吐息ひとつでさえ、聖主への供物に変わりかねない残酷さに、目眩がする思いだ。
だからこそ、純粋に母を想う心が最後まで利用されずに、奪われずに済んだことに震えるほどの安堵を覚えた。
そして、これからもずっと。『祈り』は要らないし抱かせはしない。ミュリエルの願いも望みも僕がすべて叶えて、満たし続けるから。
・・・けれど冷静になればなるほど、底知れぬ恐怖が全身を襲った。部屋に飛び込んだ瞬間目にした、まとわりつくような魔力。感情豊かな普段からすれば違和感しかない、虚ろな瞳。
もし、何かの手違いで彼女が教会に囚われて。指示されるままに『魔族が滅するように祈って』いたら、冗談でもなんでもなくこの国が吹き飛んだだろう。
もし、訓練を始めて日が浅いこの状態で、意識はせずとも魔力を行使してしまったら・・・想像するだけでゾッとした。そして再認識する。
ずっと前、クレーエ越しに初めて彼女を見たときに予感した未来。それは決して、誇張でも杞憂でもなかったのだと。
ふと、彼女の言葉を思い起こす。以前悪夢から目覚めた後、ぼんやりとした意識のまま呟かれたそれは、真偽を尋ねることもできずに胸中にずっと引っかかっていたのだ。
『どんなに酷いことをされても、傷つけられたとしても。その相手を恨むことができない・・・怒りを向けるより先に、赦してしまうんです』と。
ハッキリ言って、それは呪いだ。僕たちの執着と同じような、役職『聖女』の呪い。誰かのため、与える、ともすれば搾取されるが是で、自分のため、いただく、分けてもらうは非。聖女とはいえ、生きているのだ。そんな一方的な関係が成り立っていいはずがない。
この国に来てから、僕が目を光らせているのもあるけれど、彼女が搾取されることは絶対にない。一方的に与えすぎることも、ない。
彼女の善意で何かが振る舞われることはあっても、重すぎるものには必ず対価をもらうこと。たびたび繰り返したことに、初めはひどく困惑して躊躇していたのを思い出す。
奥ゆかしい性格の彼女は、今でも積極的に対価を求めることはないけれど、受け取ることにやっと慣れてきた。そうして交わされる言葉や感情などのやり取りに、嬉しそうに・・・ほんの少し誇らしげに微笑む場面すらある。それが健全だ。
だからこそ――
「絶対に、渡さない」
他の国に。己の都合よく扱おうとする者たちに。ミュリエルを『意思なき道具』だと盲信して手ぐすねを引く輩に。
僕のそばに招くことができてから、何度も思ったことだけれど改めて胸に刻む。
絶対に、渡さない。他の何を犠牲にしたとしても。
笑顔が可愛くて、努力を怠らず、誰にでも心優しいミュリエルが、ミュリエルのままでいられるように。
「安心して。僕が、全てをかけて守る」
それは、眠る彼女を起こすほどではなく、けれど確かな誓いだった。
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床に膝をつくと、視界が霞むような気がした。頭が少しぼんやりして、意識の端で何かを感じる──でも、それが何かはわからない。
瞳を閉じてゆっくりと息を吐き出すと、ひんやりとした石床の感触が布ごしに伝わってきた。水浴びをしたばかりだから、背に流した髪はほんのりと水気を帯びている。1人で身にまとったのは、飾りのない襟付きのワンピース。慎ましく、それでも今から行うことにふさわしいものを。
白百合を活けたガラスの花器は、膝のすぐ近くの陽の当たらない奥に置かれていた。そこから、静かに花を1本取って床に置く。
その瞬間、なにかが背筋をぞくりと走る感覚がした。まるで、誰かに見つめられているような・・・
けれど、周囲を振り返って見ても。部屋には私以外誰もいない。城の最上階にある寝室は、昼間に人の気配がない。
ここなら誰にも知られずに、ようやくの整い始めた気持ちを形にできるような気がしていました。
お母さま・・・
喉が詰まって、心の中でしか呼びかけることができない。5歳になる直前に喪った、大切な人。母の死をきっかけに、私を取り巻く環境は一変してしまった。義母と義妹の横暴に、父・・・いえ、男爵の不干渉。
母を亡くしてから、アルに救いの手を差し伸べてもらうまでの記憶は不鮮明なまま。今はもう、はるか昔のように感じている。きっとこのまま、どんどん遠ざかっていくのでしょう。
息をゆっくりと吸う。ただの一度も墓参りすらできない、親不孝な娘だけれど・・・ようやく今日だけは。ただ、母のことを。
「ミュリエル!!」
その時だった。扉が勢いよく開かれる音がして、驚いて振り返る間もなく重く沈んだ足音が続いた。
組もうとした手を、膝に下ろす。仰ぎ見ればそこには肩で息をしている、アルがいたから。
「あ・・・」
「なにを、しようとしているの」
氷のように、冷たい声だった。漆黒の目が見たことのない角度で私を捉えている。
目線が合った瞬間、言葉が出ずに心が跳ねた。私は、何かを間違えてしまったのでしょうか。もしかして・・・これは、してはいけないことだったの?
コツコツと、革靴の音が硬く響いた。強く、けれど乱暴ではない手に右腕を掴まれる。私は床に座ったまま、アルは立ったままなので少し引き上げるように、しかし突き放さずに絶対に離さないと宣告するような力で。
「ア、ル?」
「白百合を用意させたって、聞いたけれど・・・髪も濡れてる。い・・・ったい、その魔力で何をしようとしているの」
困惑を、呼んだ名前にそのまま込めた。けれど、彼の全身から力は抜けない。少し怖いとすら思ってしまう。
怒っている? 心配している? 悲しそう? その全てがない混ぜになったような表情のまま、私をじっと捉えて離さない。
「あっ・・・あの、今日は、お母様の命日、なんです」
何度も言いかけて、言葉にならずを繰り返してようやく口にできた。声は震えていたかもしれない。
でも、本当のことだった。この国に来てようやく、今日この日にやっと私の中で、母をちゃんと弔いたいと思えたのだ。
「悼みたいだけで、その、魔力は無意識で・・・ごめんなさい。どうか、許してください」
そこまで何とか伝えられて、彼の反応を待った。強く握られた腕が、不意に緩む。
伏せていた目を開けて仰ぎ見た。アルが漆黒の瞳を見開いて、そして・・・脱力する。全身から安堵の色が浮かんでいた。
それを見て、私もほっとした。心配させてしまったのだと分かったから。
「ごめん・・・僕は、勘違いを」
次の瞬間、彼も膝をついて私の視線の高さに降りてきてくれる。腕を取っていた手が、私の手のひらに重なる。
2人して冷えた指が、互いのぬくもりで溶かされていくかのようだった。
「いいえ、私がアルに、きちんと相談すればよかったです・・・慌てさせて、心配させてしまいました」
微笑んで返せば、静かに首を振ってくれる。再度視線が合ったとき、アルは眉根を寄せて願うような表情をしていて。
頬の内側が熱くなって、心臓がどきりとする。
「・・・ミュリエルが、許してくれるなら。僕も一緒に、お母様のことを弔わせてほしい」
その言葉があまりにも優しくて、胸の奥からじんと熱くなる。はい、とうなずくとアルは花瓶から一本の白百合を抜いて、私が置いた横に添えてくれた。
部屋の中は静寂を取り戻し、ひんやりと感じる。でも、先ほどのように悲しくはなかった。
ーありがとう、アル。
落ち着いたら、いつか必ず伝えたい。今日の、このときの気持ちを。
魔の国に来て、アルの妻になって。私はずっと孤独じゃない。ずっと満たされている。包み込まれるようなその愛に、どれだけ心地よく、心強く感じているのかを。
ゆっくりと、目を閉じる。向かい合って互いの手を組む私たちの膝の間、白百合の香りだけが、静かに部屋に満ちていくのを感じていた。
△▼△
しばらく、黙祷を捧げていたミュリエルは手を握ったままぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「お母さまは・・・よく、私の髪を梳いてくれました。朝起きたらすぐに・・・そのたびに、きれいな銀の髪ねって、ほめてくれて」
彼女の声は静かで、遠くを思い出しているかのようだった。手の中の細い指先が、少しずつ冷たくなっていくのを感じる。膝をついたままの姿勢に疲れているのだろうが、それに気づいていないのだろうか。
「生まれてから、この国に来た日まで。敷地の外には一度も出ませんでした。でも、天気のいい日は私を庭に連れ出してくれて、花の名前を教えてくれました。1つずつ、丁寧に・・・これはグロッケンブルーメ、これはエーデルワイス、これはアルニカって・・・」
その名前に、すべて聞き覚えがあった。ミュリエルが自分の温室で大切に育てている花々と、きっと同じだ。
「お母さまの手は、いつだって優しくて温かかったのに・・・最後に抱きしめてくれたときは、もう、すごく冷たくて・・・」
ぽろりとこぼれた涙が、頬を伝って落ちる。僕は名前を呼ぶ代わりに、彼女の手をそっと撫でた。それでも、ミュリエルは語り続けた。
「たくさん、愛してくれたのに・・・最後に、お別れができませんでした。たぶん熱で、意識もぼんやりしていて・・・男爵に、家にいなさいって言われてっ・・・」
しばらく待ったけれど、それ以上の言葉はなかった。身体を震わせて、僕の肩に頭を預けたままミュリエルは目を閉じている。
・・・静かに、涙を流しながら。夢の中でも母を想っているのか、まぶたは繊細に震えていた。
肩を貸したまま姿勢を保って、彼女を起こさぬようにそっと肩を支え、膝の下に腕を通して抱き上げる。
身長は伸びたけど、抱きしめるとぴたりとはまるミュリエルの身体はとても軽くて、久しぶりに儚く思えた。
・・・入室した直後は、逆光と気が動転していて認識できていなかったけれど。彼女が纏っていたのは聖女の儀式で使われる白などではなく、悼むための黒のワンピースだった。
レースも、ボタン飾り1つすらないシンプルな作りのもの。それは、初めて会ったときに着ていた服によく似ていた。不幸の象徴であるあれはすぐ処分したから、これは何かの折に用意させたのだと思う。
そのままでは休めないだろうと、そっとベッドへ運んで楽な衣服へと着替えさせる。一瞬でも目を離したら消えてしまいそうで、無防備な寝姿に何度も頬に触れて、手のひらを撫でて存在を確かめている僕がいた。
△▼△
やっと気持ちを落ち着けて、柔らかいブランケットをミュリエルの肩にかける。2人だけの部屋に温かい呼吸が、規則正しく続いていた。まぶたの震えはもうない。
ー異変を察知してすぐに来たから、会議も途中退室した。処理すべき書類仕事が山ほどあることはわかっている。人払いもしているため僕が指示をするまでクリスすら来ない。
けれど、今は動く必要性を感じなかった。純粋無垢であたたかい生命を、ただそばで見守るべきだと確信していた。
それと同時に、胸を撫で下ろしている魔王としての僕もいた。
ミュリエルの前で『祈り』という言葉を使わずに済んだこと。そして、彼女が母への想いを『祈り』とせず、純粋な弔いとして抱いたことに。
何故なら、聖女の『祈り』はどれだけ離れていても感知されるから。以前の魔力暴走など比にならないほどに正確に、心情、居場所、魔力など・・・総てを覗かれるのだ。
そして、一度でも『祈り』が通じれば、その瞬間から聖女は神の監視下に置かれるーー歴代の王に引き継がれる伝記には、そういうものと記載されていた。
僕は、したたかに臍を噛んだ。ただ、亡くした大切な人を悼む。普通なら弔いで終わるその行為すら、彼女にとっては枷になる。ミュリエルがついた悲しみの吐息ひとつでさえ、聖主への供物に変わりかねない残酷さに、目眩がする思いだ。
だからこそ、純粋に母を想う心が最後まで利用されずに、奪われずに済んだことに震えるほどの安堵を覚えた。
そして、これからもずっと。『祈り』は要らないし抱かせはしない。ミュリエルの願いも望みも僕がすべて叶えて、満たし続けるから。
・・・けれど冷静になればなるほど、底知れぬ恐怖が全身を襲った。部屋に飛び込んだ瞬間目にした、まとわりつくような魔力。感情豊かな普段からすれば違和感しかない、虚ろな瞳。
もし、何かの手違いで彼女が教会に囚われて。指示されるままに『魔族が滅するように祈って』いたら、冗談でもなんでもなくこの国が吹き飛んだだろう。
もし、訓練を始めて日が浅いこの状態で、意識はせずとも魔力を行使してしまったら・・・想像するだけでゾッとした。そして再認識する。
ずっと前、クレーエ越しに初めて彼女を見たときに予感した未来。それは決して、誇張でも杞憂でもなかったのだと。
ふと、彼女の言葉を思い起こす。以前悪夢から目覚めた後、ぼんやりとした意識のまま呟かれたそれは、真偽を尋ねることもできずに胸中にずっと引っかかっていたのだ。
『どんなに酷いことをされても、傷つけられたとしても。その相手を恨むことができない・・・怒りを向けるより先に、赦してしまうんです』と。
ハッキリ言って、それは呪いだ。僕たちの執着と同じような、役職『聖女』の呪い。誰かのため、与える、ともすれば搾取されるが是で、自分のため、いただく、分けてもらうは非。聖女とはいえ、生きているのだ。そんな一方的な関係が成り立っていいはずがない。
この国に来てから、僕が目を光らせているのもあるけれど、彼女が搾取されることは絶対にない。一方的に与えすぎることも、ない。
彼女の善意で何かが振る舞われることはあっても、重すぎるものには必ず対価をもらうこと。たびたび繰り返したことに、初めはひどく困惑して躊躇していたのを思い出す。
奥ゆかしい性格の彼女は、今でも積極的に対価を求めることはないけれど、受け取ることにやっと慣れてきた。そうして交わされる言葉や感情などのやり取りに、嬉しそうに・・・ほんの少し誇らしげに微笑む場面すらある。それが健全だ。
だからこそ――
「絶対に、渡さない」
他の国に。己の都合よく扱おうとする者たちに。ミュリエルを『意思なき道具』だと盲信して手ぐすねを引く輩に。
僕のそばに招くことができてから、何度も思ったことだけれど改めて胸に刻む。
絶対に、渡さない。他の何を犠牲にしたとしても。
笑顔が可愛くて、努力を怠らず、誰にでも心優しいミュリエルが、ミュリエルのままでいられるように。
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