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帝国・教国編
父子の訓練とその翌朝
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前半アルディオス視点、後半ミュリエル視点です。前後半で視点が変わります。
ーーーーーーーーーー
王城の地下にある訓練場に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をつんと刺すような鋭い匂いが満ちていた。
腐食性の毒。父さんが使うと事前申告したものだ。その毒霧は薄く漂いながらも、床をじわじわと侵食していくように見える。無音のうちに金属が腐り、石が染まっていく様子は、既知のものであっても本能を逆撫でする。
実際のところは、建国からの状態保持魔法で毒が漏れ出る可能性は、万に1つもないのだけれど。
「時間通りだね、アル」
「もちろん。今日はよろしくお願いします」
一礼すると、薄明かりの奥で既に場を整え終えた父が手を挙げて応えた。珍しく背筋を伸ばし、いつものように穏やかな微笑を浮かべている。魔力によって広がった毒の空間にいながら、彼だけはまるでそよ風吹き抜ける草原の中に立っているようだった。
「再確認ですが、今回の毒はかなり強めに調整してあります。3割の被弾で終了です。命に関わるからね」
「わかった。解毒薬は?」
「君以外の3人が持っている・・・2人とも、頼んだよ」
「承知しました、カイン様」
「・・・アルディオス様、私がすぐに使いますからね」
監視役のトレーシーとクリス、2人の返答を聞き流しながら足元の空間に意識を集中する。
一歩踏み出すその先に、重力場を展開。自分の体の真下に、見えない踏み台を複数浮かべるようにして毒に触れずに立つ。これも、かなりの繊細さが必要だった。
広く深く展開しようとすれば相当数の魔力を消費し、狭く薄すぎると意味がない。それも含めて判断力と調整力を要求される代物だ。
「では、始めよう」
「ああ」
互いに頷き、父さんは一歩も動かないままにただ右手を振り払った。
次の瞬間、周囲に毒の槍が複数形成されて一斉に打ち込まれる。空間そのものが毒に染まるような感覚に襲われ、呼吸する隙すら許さない。
「・・・っ!」
顔色1つ変えずに繰り出される無詠唱魔法に、魔力を込めて槍の雨を逸らせた。浮かせた重力場の一部を盾のように前に押し出し、攻撃を防ぎつつ相手に壁を近づける。
直撃は避けた。だが、服の端に触れた毒が少しだけ煙を上げる。
攻撃の余波で、床から舞い上がる毒にも気を配らないといけないなんて、いくつ視界があればいいんだ。危ない。
ふと思案する。仮に、彼女とこの場から退避するとしたら・・・
自然と眼光鋭く、指先に力がこもる。
父さんの毒魔法は静かに、しかし確実に命を奪う。先ほどのような目に見える攻撃もあるが、無色透明で空気に混じって肺から侵入するようなものもある。対策は検討中だが、僕の重力魔法で空気の流れを作ったり、術師自身を攻めたりしなければあっという間にやられる。
・・・ずっと前から思っていたことだが、父と敵対してなくてよかったと改めて感じる。最強との呼び声高い重力魔法だが、不定形、比重も多様な毒魔法とはなかなかに相性が悪い。
「随分と精度が上がったね、アル」
「どうにか、ね。でも、まだ攻略には至ってない」
「そうだね。アルが覚えるべきは2つ、相手有利なこの状況の攻略法と少しでも長く耐える術だ」
父の言葉は常に丁寧で、理知的だ。それでも、さっきから幾度か放たれている毒の波状攻撃はどう考えても全力だった。
その証拠に、遠いところにある重力制御の下地がたわみ始めている。
もしかして、魔力を侵食する毒なのか? そう邪推して舌打ちしたくなってしまうほどに、父有利の状況が積み重なっていく。
いったん距離を取り、深く息をついて呼吸を整える。そろそろ攻撃に転じたい。けれどこの足元が抜けたら即敗北。いや、実戦なら即死。
次の一撃で毒の鎖が三方から伸びてくる。その交錯する中心に向かって、左手を突き出した。
—圧縮。
目には見えない重力の塊が、鎖の結び目を凹ませるように捩じ切る。すべてが消えるわけではないが、魔力制御で勝れば崩れる。
狙いは正確だった。毒鎖が一瞬揺らぎ、僕はその隙に滑り込むように父の懐へ踏み込んだ。
「!」
ほんのわずか、よく似た黒の目が見開かれる。自重操作による踏み込み加速は、初めて見せたから。
「いい踏み込みだ」
放った重力波を避けきれず、父が数歩退く。魔法の性質上、彼は安全の確保された後方で魔法を撃つのに適したタイプだから近距離に持ち込めればこちらが有利だ。
追撃しようとした次の瞬間、足元が黒く濁っていた。毒の波が地から渦巻き、まるで巨人の手のように僕の体を掴もうと伸びてきたのだ。
咄嗟に後方へ跳ぶ。退避先の浮遊場の再形成が数センチ間に合わず、左の踵が毒に掠った。嫌な匂いが立ち込める。
ー今ので二割五分。もう、猶予はない。
父さんは微動だにもせず、僕を見つめていた。相変わらず詠唱もなく静かだ。だが、髪の結びは乱れ額には汗が滲んでいる。
恐れてる? 僕の重力を?
この世界でただ1つの毒魔法を完全に防ぐことができるのは、高位な結界魔法を持つ聖女くらいだろう。なのに、父さんは僕の次の手を読もうとしている。
つまりそれだけ、消耗が激しいのか。魔力の総量的には、現魔王である僕が圧倒的に有利だし。
それともこの場全体にかけ続けた重力が、彼の手段を上回りかけているということか。
重力場を手元に集める。左掌に、小さく圧縮球を生成した。
次で決める。これ以上、被弾するわけにはいかない。
僕は足場を形成しながら滑るように走った。毒の波を避けながら、掌の球を一段階圧縮する。
足場を押し上げて跳躍して背後を取った。放つ、その寸前—
「悪いけど、そこまでだよ。アル」
父の声に、球を消した。手近な足場に降り立つ。
「今、規定数を超えた。両足の外側を見てごらん」
視線を落とすと、確かに踝の外側がじわじわと黒く染まっていた。先程の濁流に、ギリギリ触れていたらしい。
僕は息を吐いて、膝をついた。その場の毒が幻のように全て霧散する。
「すみません・・・」
「いや、打って終わりたかったでしょうが、こちらこそすみません。よく耐えましたね。今日はここまでにしましょう」
「入ります。アルディオス様、動かないでください」
「足場を解いて。俺が担ぐ」
ふと力も抜け、トレーシーに肩を貸されながら分析する。
この空間に父と2人だけだったら、確実に僕は負けていた。
父はああ言っているが、まだ限界ではないだろう。僕がミュリエルを守る者として、あくまで訓練のための強さしか使っていない。
本気で対峙することになったら、100年以上の経験の差もあって僕だけではきっと届かない。
でも、絶対に追い越す・・・そう、一歩ずつ確実に近づいて。
部屋から担ぎ出されて、あっという間に解毒剤を流し込まれた僕は父さんを仰ぎ見る。埃を払って後に続いた彼の表情はいつも通り柔和で、疲れと恐れもあった。
けれど、その目は・・・嬉しそうな、父親としてのあたたかな色をもって僕を映していた。
「・・・父さん」
「なんだい?」
「また、頼んでもいい?」
「もちろん。回復したアルが望む限り、何度でもね」
その返事に僕は、うなずいた。
この特訓は、自分の魔法が最も危険な空間にどれだけ通用するか、立ち向かうためのもの。だけど同時に、父から息子への信頼と託しの訓練でもあるのだと、ひしひしと感じていた。
それが何よりも、僕は頼もしくて嬉しかった。
△▼△
ベッドの左側が、シワ1つなく整っていることに気がついたのは、目を覚ました瞬間だった。
ひんやりとしたシーツに手を伸ばし、アルがいないことを改めて認識したとき、胸の奥にツキンと、奇妙な痛みが走る。
「・・・アル?」
小さな声で呼びかけるが、返事はなかった。戸惑いのまま寝間着の襟を整えて、そっとバスルームへの扉を開ける。扉のすぐ外に控えていたレネが一礼し、少しだけ重く口を開いた。
「おはようございます、ミュリエル様・・・陛下は昨夜、お戻りになりませんでした」
最初に感じたのは違和感。どうして、という疑問だった。
私が妻になってから、アルはどれほど遅くなっても一度は必ず隣に来てくれた。もし勤務などで帰れないときは、必ず事前に言付けをくれたのに。
今日だけ、何の連絡もないまま彼はいない。胸のざわつきが、静かな焦りへと変わっていく。
「レネ、着替えをお願いします。それとクリスを、朝食前に呼んでいただけますか」
△▼△
「アルに、今すぐ会いたいのです」
「ミュリエル様、申し訳ありませんが今は」
「どこにいるか、教えて欲しいだけです。一目見たら安心できるので・・・どうかお願いします」
そう頭を下げた私にクリスは、心底困ったような表情だった。
きっと、口止めしているのはアル。でも、その彼に会いたいのだ。顔を上げ、次の言葉を継ごうとした後ろで扉が開く。入ってきたのはカイン様だった。
「朝食を終えた後なら、私が案内しましょう」
「カイン様・・・」
「今、彼女は最高位の妃だ。大丈夫、怒られるのは私だけですよ」
「いえ、勝手をしたのは私なのですから、私が怒られます。お2人は、わがままに付き合ってくださっただけで何も悪くないって、アルにきちんと伝えます」
「・・・ミュリエル、そうしてくれるのは嬉しいけどね。覚悟はできてるかい?」
苦笑して、問いかける彼を見つけて頷く。しばらく視線を合わせていたカイン様は、1つ頷いて踵を返される。私の正面に、クリスの声がかかる。
「ミュリエル様・・・どうか、アルディオス様を頼みます」
「はい」
それから短く食事を終えて間もなく、私は城の地下深くにある冷えた石造りの廊下を歩いていた。
道中、付き添ってくれたカイン様から聞かされたのは、アルは訓練で浴びた解毒の最中であるということだけ。ただ、部屋の前でこちらを振り返ったとき、暗い色を滲ませた目をされていて。
険しい表情で立つトレーシー様が私を見て、目を少しだけ細めて1つ頷いてくださる。私は、お辞儀をして部屋の扉を開けた。
「・・・アル!」
薄暗い部屋の中でも、すぐに視線はその姿を捉えた。
見慣れない、白い寝台の上で、目を閉じたアルが浅く息をしていた。目立つ傷はない。けれど額には濡れたタオルが置かれ、顔色は悪く、唇が青ざめている。
思わず走り寄って、手を取る。その瞬間――
心の底から、ふわりと力が湧き上がるような感覚があった。私の魔力が、無意識に指先から滲み出しそうになっている。
彼を救いたい。癒したい。手の届く痛みに、何もせずにいられるはずがない。
――けれど。
『・・・大丈夫。自分で、治す』
不思議と声ではない、願いのようなものが指先から伝わってきた。
彼が眠っているはずの今、意識の奥から放たれた短い思念のようなものだったのでしょう。
耐性をつけるためだからと・・・これは、意味のある痛みなのだと。
しばらく、口を閉じて・・・なんとか、涙と一緒に魔力を堪えて一言願った。
「それなら・・・どうか、心配だけはさせてください」
目覚めるまで絶対にそばを離れないと決意して、疲労が感じ取れる指先を握った。自分の鼓動を寄せるように。
白い喉仏が何度か動く。温くなった額のタオルを取り替え、水差しからレモンの香りが漂う水をそっと注いで口元へ運んだ。
横向きに眠る彼が求める分だけ、ほんの少量ずつ吸い出される水が口に落ちて、喉がごくりと嚥下する。私もお世話になったことのある、誤って肺に入ることのない安全な魔道具だ。
繰り返すうちに、アルの意識はないままではあったけれど、わずかに眉根が解けてくる。
水差しを戻して手を握ったまま、見守る。入ってきたすぐよりも少しだけ、赤みが差している気がする。もしかしたら、持ってきた蝋燭の火のせいでそう見えるだけかもしれなかった。
・・・どうして、こんなに苦しんでまで、訓練をするのですか?
聞いてしまいたかった。やめてほしいと、願ってしまいそうだった。疲れる訓練はまだ分かる。でも、こんなに身をやつして危険なことまでして。
でも、魔王としての多忙を極める彼は必要のないことはしない。来るべき日に来る何かに向けて、明確な目的を持って準備をしている。日々の執務をこなし、私の魔力訓練にも付き合って、その上で自分の研鑽も。
アルのことは、信じている。けれど、『信じて守る』と約束した私は・・・もっと守れるようになりたい。
「強いです、アルは・・・でも、もう少しだけ頼ってもらえたら、嬉しいのですけれど」
独り言のように呟きながら、彼の隣に椅子を寄せる。しばらくは目を閉じ、指を絡めるようにして手を握っていた。
春の朝、地下にあるこの部屋はまだ少し肌寒い。でも、私の大好きなひとがここにいる。それだけで、飾りも窓もないこの場所でも心穏やかでいられた。
私は時々世話を焼きつつアルが目覚めるまで、寄り添い続けた。
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王城の地下にある訓練場に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をつんと刺すような鋭い匂いが満ちていた。
腐食性の毒。父さんが使うと事前申告したものだ。その毒霧は薄く漂いながらも、床をじわじわと侵食していくように見える。無音のうちに金属が腐り、石が染まっていく様子は、既知のものであっても本能を逆撫でする。
実際のところは、建国からの状態保持魔法で毒が漏れ出る可能性は、万に1つもないのだけれど。
「時間通りだね、アル」
「もちろん。今日はよろしくお願いします」
一礼すると、薄明かりの奥で既に場を整え終えた父が手を挙げて応えた。珍しく背筋を伸ばし、いつものように穏やかな微笑を浮かべている。魔力によって広がった毒の空間にいながら、彼だけはまるでそよ風吹き抜ける草原の中に立っているようだった。
「再確認ですが、今回の毒はかなり強めに調整してあります。3割の被弾で終了です。命に関わるからね」
「わかった。解毒薬は?」
「君以外の3人が持っている・・・2人とも、頼んだよ」
「承知しました、カイン様」
「・・・アルディオス様、私がすぐに使いますからね」
監視役のトレーシーとクリス、2人の返答を聞き流しながら足元の空間に意識を集中する。
一歩踏み出すその先に、重力場を展開。自分の体の真下に、見えない踏み台を複数浮かべるようにして毒に触れずに立つ。これも、かなりの繊細さが必要だった。
広く深く展開しようとすれば相当数の魔力を消費し、狭く薄すぎると意味がない。それも含めて判断力と調整力を要求される代物だ。
「では、始めよう」
「ああ」
互いに頷き、父さんは一歩も動かないままにただ右手を振り払った。
次の瞬間、周囲に毒の槍が複数形成されて一斉に打ち込まれる。空間そのものが毒に染まるような感覚に襲われ、呼吸する隙すら許さない。
「・・・っ!」
顔色1つ変えずに繰り出される無詠唱魔法に、魔力を込めて槍の雨を逸らせた。浮かせた重力場の一部を盾のように前に押し出し、攻撃を防ぎつつ相手に壁を近づける。
直撃は避けた。だが、服の端に触れた毒が少しだけ煙を上げる。
攻撃の余波で、床から舞い上がる毒にも気を配らないといけないなんて、いくつ視界があればいいんだ。危ない。
ふと思案する。仮に、彼女とこの場から退避するとしたら・・・
自然と眼光鋭く、指先に力がこもる。
父さんの毒魔法は静かに、しかし確実に命を奪う。先ほどのような目に見える攻撃もあるが、無色透明で空気に混じって肺から侵入するようなものもある。対策は検討中だが、僕の重力魔法で空気の流れを作ったり、術師自身を攻めたりしなければあっという間にやられる。
・・・ずっと前から思っていたことだが、父と敵対してなくてよかったと改めて感じる。最強との呼び声高い重力魔法だが、不定形、比重も多様な毒魔法とはなかなかに相性が悪い。
「随分と精度が上がったね、アル」
「どうにか、ね。でも、まだ攻略には至ってない」
「そうだね。アルが覚えるべきは2つ、相手有利なこの状況の攻略法と少しでも長く耐える術だ」
父の言葉は常に丁寧で、理知的だ。それでも、さっきから幾度か放たれている毒の波状攻撃はどう考えても全力だった。
その証拠に、遠いところにある重力制御の下地がたわみ始めている。
もしかして、魔力を侵食する毒なのか? そう邪推して舌打ちしたくなってしまうほどに、父有利の状況が積み重なっていく。
いったん距離を取り、深く息をついて呼吸を整える。そろそろ攻撃に転じたい。けれどこの足元が抜けたら即敗北。いや、実戦なら即死。
次の一撃で毒の鎖が三方から伸びてくる。その交錯する中心に向かって、左手を突き出した。
—圧縮。
目には見えない重力の塊が、鎖の結び目を凹ませるように捩じ切る。すべてが消えるわけではないが、魔力制御で勝れば崩れる。
狙いは正確だった。毒鎖が一瞬揺らぎ、僕はその隙に滑り込むように父の懐へ踏み込んだ。
「!」
ほんのわずか、よく似た黒の目が見開かれる。自重操作による踏み込み加速は、初めて見せたから。
「いい踏み込みだ」
放った重力波を避けきれず、父が数歩退く。魔法の性質上、彼は安全の確保された後方で魔法を撃つのに適したタイプだから近距離に持ち込めればこちらが有利だ。
追撃しようとした次の瞬間、足元が黒く濁っていた。毒の波が地から渦巻き、まるで巨人の手のように僕の体を掴もうと伸びてきたのだ。
咄嗟に後方へ跳ぶ。退避先の浮遊場の再形成が数センチ間に合わず、左の踵が毒に掠った。嫌な匂いが立ち込める。
ー今ので二割五分。もう、猶予はない。
父さんは微動だにもせず、僕を見つめていた。相変わらず詠唱もなく静かだ。だが、髪の結びは乱れ額には汗が滲んでいる。
恐れてる? 僕の重力を?
この世界でただ1つの毒魔法を完全に防ぐことができるのは、高位な結界魔法を持つ聖女くらいだろう。なのに、父さんは僕の次の手を読もうとしている。
つまりそれだけ、消耗が激しいのか。魔力の総量的には、現魔王である僕が圧倒的に有利だし。
それともこの場全体にかけ続けた重力が、彼の手段を上回りかけているということか。
重力場を手元に集める。左掌に、小さく圧縮球を生成した。
次で決める。これ以上、被弾するわけにはいかない。
僕は足場を形成しながら滑るように走った。毒の波を避けながら、掌の球を一段階圧縮する。
足場を押し上げて跳躍して背後を取った。放つ、その寸前—
「悪いけど、そこまでだよ。アル」
父の声に、球を消した。手近な足場に降り立つ。
「今、規定数を超えた。両足の外側を見てごらん」
視線を落とすと、確かに踝の外側がじわじわと黒く染まっていた。先程の濁流に、ギリギリ触れていたらしい。
僕は息を吐いて、膝をついた。その場の毒が幻のように全て霧散する。
「すみません・・・」
「いや、打って終わりたかったでしょうが、こちらこそすみません。よく耐えましたね。今日はここまでにしましょう」
「入ります。アルディオス様、動かないでください」
「足場を解いて。俺が担ぐ」
ふと力も抜け、トレーシーに肩を貸されながら分析する。
この空間に父と2人だけだったら、確実に僕は負けていた。
父はああ言っているが、まだ限界ではないだろう。僕がミュリエルを守る者として、あくまで訓練のための強さしか使っていない。
本気で対峙することになったら、100年以上の経験の差もあって僕だけではきっと届かない。
でも、絶対に追い越す・・・そう、一歩ずつ確実に近づいて。
部屋から担ぎ出されて、あっという間に解毒剤を流し込まれた僕は父さんを仰ぎ見る。埃を払って後に続いた彼の表情はいつも通り柔和で、疲れと恐れもあった。
けれど、その目は・・・嬉しそうな、父親としてのあたたかな色をもって僕を映していた。
「・・・父さん」
「なんだい?」
「また、頼んでもいい?」
「もちろん。回復したアルが望む限り、何度でもね」
その返事に僕は、うなずいた。
この特訓は、自分の魔法が最も危険な空間にどれだけ通用するか、立ち向かうためのもの。だけど同時に、父から息子への信頼と託しの訓練でもあるのだと、ひしひしと感じていた。
それが何よりも、僕は頼もしくて嬉しかった。
△▼△
ベッドの左側が、シワ1つなく整っていることに気がついたのは、目を覚ました瞬間だった。
ひんやりとしたシーツに手を伸ばし、アルがいないことを改めて認識したとき、胸の奥にツキンと、奇妙な痛みが走る。
「・・・アル?」
小さな声で呼びかけるが、返事はなかった。戸惑いのまま寝間着の襟を整えて、そっとバスルームへの扉を開ける。扉のすぐ外に控えていたレネが一礼し、少しだけ重く口を開いた。
「おはようございます、ミュリエル様・・・陛下は昨夜、お戻りになりませんでした」
最初に感じたのは違和感。どうして、という疑問だった。
私が妻になってから、アルはどれほど遅くなっても一度は必ず隣に来てくれた。もし勤務などで帰れないときは、必ず事前に言付けをくれたのに。
今日だけ、何の連絡もないまま彼はいない。胸のざわつきが、静かな焦りへと変わっていく。
「レネ、着替えをお願いします。それとクリスを、朝食前に呼んでいただけますか」
△▼△
「アルに、今すぐ会いたいのです」
「ミュリエル様、申し訳ありませんが今は」
「どこにいるか、教えて欲しいだけです。一目見たら安心できるので・・・どうかお願いします」
そう頭を下げた私にクリスは、心底困ったような表情だった。
きっと、口止めしているのはアル。でも、その彼に会いたいのだ。顔を上げ、次の言葉を継ごうとした後ろで扉が開く。入ってきたのはカイン様だった。
「朝食を終えた後なら、私が案内しましょう」
「カイン様・・・」
「今、彼女は最高位の妃だ。大丈夫、怒られるのは私だけですよ」
「いえ、勝手をしたのは私なのですから、私が怒られます。お2人は、わがままに付き合ってくださっただけで何も悪くないって、アルにきちんと伝えます」
「・・・ミュリエル、そうしてくれるのは嬉しいけどね。覚悟はできてるかい?」
苦笑して、問いかける彼を見つけて頷く。しばらく視線を合わせていたカイン様は、1つ頷いて踵を返される。私の正面に、クリスの声がかかる。
「ミュリエル様・・・どうか、アルディオス様を頼みます」
「はい」
それから短く食事を終えて間もなく、私は城の地下深くにある冷えた石造りの廊下を歩いていた。
道中、付き添ってくれたカイン様から聞かされたのは、アルは訓練で浴びた解毒の最中であるということだけ。ただ、部屋の前でこちらを振り返ったとき、暗い色を滲ませた目をされていて。
険しい表情で立つトレーシー様が私を見て、目を少しだけ細めて1つ頷いてくださる。私は、お辞儀をして部屋の扉を開けた。
「・・・アル!」
薄暗い部屋の中でも、すぐに視線はその姿を捉えた。
見慣れない、白い寝台の上で、目を閉じたアルが浅く息をしていた。目立つ傷はない。けれど額には濡れたタオルが置かれ、顔色は悪く、唇が青ざめている。
思わず走り寄って、手を取る。その瞬間――
心の底から、ふわりと力が湧き上がるような感覚があった。私の魔力が、無意識に指先から滲み出しそうになっている。
彼を救いたい。癒したい。手の届く痛みに、何もせずにいられるはずがない。
――けれど。
『・・・大丈夫。自分で、治す』
不思議と声ではない、願いのようなものが指先から伝わってきた。
彼が眠っているはずの今、意識の奥から放たれた短い思念のようなものだったのでしょう。
耐性をつけるためだからと・・・これは、意味のある痛みなのだと。
しばらく、口を閉じて・・・なんとか、涙と一緒に魔力を堪えて一言願った。
「それなら・・・どうか、心配だけはさせてください」
目覚めるまで絶対にそばを離れないと決意して、疲労が感じ取れる指先を握った。自分の鼓動を寄せるように。
白い喉仏が何度か動く。温くなった額のタオルを取り替え、水差しからレモンの香りが漂う水をそっと注いで口元へ運んだ。
横向きに眠る彼が求める分だけ、ほんの少量ずつ吸い出される水が口に落ちて、喉がごくりと嚥下する。私もお世話になったことのある、誤って肺に入ることのない安全な魔道具だ。
繰り返すうちに、アルの意識はないままではあったけれど、わずかに眉根が解けてくる。
水差しを戻して手を握ったまま、見守る。入ってきたすぐよりも少しだけ、赤みが差している気がする。もしかしたら、持ってきた蝋燭の火のせいでそう見えるだけかもしれなかった。
・・・どうして、こんなに苦しんでまで、訓練をするのですか?
聞いてしまいたかった。やめてほしいと、願ってしまいそうだった。疲れる訓練はまだ分かる。でも、こんなに身をやつして危険なことまでして。
でも、魔王としての多忙を極める彼は必要のないことはしない。来るべき日に来る何かに向けて、明確な目的を持って準備をしている。日々の執務をこなし、私の魔力訓練にも付き合って、その上で自分の研鑽も。
アルのことは、信じている。けれど、『信じて守る』と約束した私は・・・もっと守れるようになりたい。
「強いです、アルは・・・でも、もう少しだけ頼ってもらえたら、嬉しいのですけれど」
独り言のように呟きながら、彼の隣に椅子を寄せる。しばらくは目を閉じ、指を絡めるようにして手を握っていた。
春の朝、地下にあるこの部屋はまだ少し肌寒い。でも、私の大好きなひとがここにいる。それだけで、飾りも窓もないこの場所でも心穏やかでいられた。
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