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日常編
最近の僕・彼について(アルディオス・ミュリエル視点)
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前後半で視点が変わります。
ーーーーーーーーーー
静かな夜だった。
月明かりが届かない地下の訓練場に、松明の灯がゆらゆらと揺れている。風の音もなく、ただ土の匂いと湿った気配だけがそこにあった。
僕は左手に握った小太刀を見下ろし、小さく息を吐いた。
「じゃあ、始めようか」
その声が合図となる。ラティスがひとつ頷き、地面に手をかざした。クリスはすでに後方、医療用の魔導具を並べて待機している。ツヴァイとヴィントは距離を取って対面し、訓練の進行を見守ることができる位置へそれぞれ移動した。
「行きます」
今日で、この訓練は4回目を数える。元々は各々のタイミングが合うときに、日中に行っていたものだった。だが、蔦で吊り上げられる僕の姿が練習終わりの近衛騎士たちの目に留まってしまい。どこからか飛んできたクリスから『尊厳の問題です』とのきつい抗議が入った。
そのため、今は王城の執務がひと段落する夜8時から10時の間、いわば残業時間に訓練を回している。
もちろん、手当は人数分つけてある。こちらの都合で付き合わせている以上、そうでもしないと心が痛むからね。
右足先の地面が、わずかに盛り上がった。土の中をうごめく蔦—いや、ラティスのフェイントだ。はじめの頃は真っ直ぐに来たが、回を重ねるごとに罠を張るようになった。盛り上がった土塊に一瞬注意を逸らされた隙に、背後から本命の蔦が襲いかかる。
「ふっ・・・」
その蔦を、見ずに小太刀で切り捨てる。とはいえ、蔦を根絶やしにするものではない。ただ、伸びてきた先を切っただけだ。僕が剣を持つ目的は、ミュリエルを守るため・・・自分が傷を負うことなく耐えるためだから。
加えて、この訓練では魔力を一切使っていない。以前は使っていたが、ラティスの攻撃に目が慣れたタイミングであえてそれも封じた。
・・・恥ずかしながら、刃の角度に気をつけなければ。腕の力だけで蔦を一刀両断できないことを、この年になって初めて知った。道理で騎士全員が筋肉質なわけだ。
速やかに走り始める。その間も複数の蔦が飛び出ては僕を襲う。切って、避けて、また走るを繰り返していたが・・・やがて
「・・・くっ」
切った蔦のちょうど後ろ、完全なる死角から伸びた蔦に足首を取られた。次の瞬間、視界がぐるりと反転して体が空中に引き上げられる。握りを強くしたから、なんとか剣は手放さずに済む。
完全に吊られた逆さまの視界の中、蔦が枝分かれして僕の両足を拘束している。足をばたつかせても無駄な体力を消耗するだけなので、抵抗はしない。隙を見て蔦を切るつもりだが、術者から目を離すことのほうが危険だ。そのため僕の体は人形のように絡まれぶら下げられている。
「まだ、続けて」
声ははっきりしていた。ラティスは一瞬迷った顔をしたが、頷いて剣を掲げる。
短い詠唱とともに放たれたのは、水魔法。細く鋭く絞られた複数弾は、まるで針のように飛翔する。
——ッッ!
顔を狙ったものは流石に避けたが、数秒遅れて到達した針が左肩を打ち抜く。痛みが瞬間的に火花を散らし、視界が滲む。剣を再び手にしてから、腹筋も体幹もそれなりに鍛えたが、吊られた状態では完璧に避け切ることはできない。
だが、僕の口から『待った』は出なかった。
「アルディオス様!」
叫んだのは、クリスだった。反射的に駆け寄ろうとする彼に、首を振って制した。
この訓練は、ここまでやってこその意味がある。ラティスも、ツヴァイも、ヴィントもそれを理解してくれている。クリスだけは、最後の歯止めとして参加している。それでも、まだ限界ではない。
左脚の蔦を切った瞬間、ラティスが右脚に絡まる蔦を操り地面へと叩きつける。
なんとか受け身をとって、追撃を逃れるためにその場から離れた。その間も、肩からの痛みは断続的に響いている。僕はゆっくり息を吐いて呼吸を整えながら襲い来る蔦を右手のナイフでいなした。
・・・後で計測していたツヴァイに聞いたけど、被弾まで僕が耐えた時間は5分半。まだまだ、目標にはほど遠い。
△▼△
それから数週間。
同様の訓練を重ね、今日・・・15回目の夜。僕は初めて、宙に吊られずに10分以上持ち堪えることに成功した。
無論、攻撃は全力だった。ラティスの水魔法と蔦の動きは日を追うごとに鋭く、嫌らしくなりフェイントも複雑になっている。それでも、僕は小太刀一本、仕込みのナイフのみで切り抜けた。
「ふぅ・・・」
息が切れて、額をしたたり落ちる汗を拭う。全身が焼けるように熱い。腕も脚も、鉛のように重い。ナイフを離した指が震えていて、脱力して、拳を作っての繰り返しでやっと正常な握力が戻ってくる。
余裕がなくなる後半からは集中と持久力の勝負で、反応も遅れそうになっていた。だが、視界と頭脳は明瞭だった。次に何が来る可能性があるか、自分がどう対処すべきか、持てるすべてを出し尽くした。
僕はその場に座り込むと、服が汚れるのも厭わずに少しだけ仰向けになる。
「アルディオス様、お疲れ様でした。肩を見せてください」
クリスが速やかに歩み寄ってきて、ポーションを手にしながら言う。訓練のたびにボロボロになる僕を見慣れたのか、さすがにもう怒りの気配はない。代わりに甲斐甲斐しい手つきで服を解き、以前受けた傷の確認を始める。
その手を受けながら、僕は天井を見た。見えたのはいつもと変わらぬ石壁だけれど、心は不思議と満たされていた。
「3人とも、ちょっといいかな」
体を起こし、座ったまま3人に声をかける。それぞれが静かにうなずいた。
「今日の動きは、どうだった?」
問いは簡潔だったが、意図は明確だ。技術、動き、武器の扱い。どんな些細な点でもいい、改善すべき点を聞きたかった。
ツヴァイは少しだけ言葉を選ぶためにか考えてから、口を開いた。
「特に体力の限界である後半、体の重心がやや後ろに残っていました。とっさの体重移動で反応が遅れます。あと、小太刀の利き手の角度が甘いです。首元を狙うフェイントに弱くなります」
ヴィントは静かに付け加えた。
「回避後の足運びがやや直線的で、予測されやすいかと。あと、刃先を構えたときの間が綺麗すぎて、次の動きが読まれます」
ラティスはいつもの淡々とした声で言った。
「回を重ねるごとに、蔦で捉えにくくなってきました。ですが回避後の目線や、呼吸や動きに『止まり』があると狙いやすいです」
それらを全て、僕は頭に叩き込んだ。誰も、甘いことは言ってくれない。それこそが心から求めたことであり、とても真摯で、誠実だった。
「ありがとう。今度は、ラティスの蔦魔法とツヴァイ、ヴィントのどちらかの近接の組み合わせでも対処できるか、考えてみようかな」
そう呟いたとき、3人の顔が少しだけ引き締まった。不安でも警戒でもない。ただ、次に向けた構え。訓練の続きを、当然のように想像している顔だった。
・・・僕がそう、仕向けたんだな。
実感して、それがなんだか妙に嬉しかった。
△▼△
雪が解け春が近くなってきたとはいえ、夜の冷えた空気が室内にも少しだけ入り込んでいる。私はベッドの端に腰掛けて、髪を静かに梳いていた。
待ち人来ず、今日は少し遅くまで灯りがついていて、櫛を持つ手元を柔らかく照らしてくれている。外の喧騒はとっくに消え、静けさが部屋に満ちていた。
と、そのとき。
ノックの音もなくがちゃりと扉が開き、何のためらいもなく誰かが部屋に入ってきた。
顔を上げると、そこには待っていたひと—アルがいた。
身奇麗だけれど、クラバットは締めておらずワイシャツのボタンも2つほど開けたまま。スラックスを履いていて、まっすぐにこちらへ向かってくる。
その足取りはどこかゆっくりに見えて、それでいてためらいのない速さだった。
「おかえりなさい、あの」
「つかれた・・・」
その低い声が耳に届いたとき、私は何かを察した。
返事よりも早く、櫛を手から離して両腕で受け止めるような形になったその次には。ふわりと、一瞬全身が宙に浮いて。そのままアルは私ごとベッドの上に倒れた。
「きゃっ・・・!」
がっしりとした腕にいつもより強めに抱かれたまま、後ろに倒れ込む。ベッドの上に斜めに横たわる形になった。伏せていた目を開ければ、私の頭はアルの胸元に埋まっている。
端に座っていたので、足先がわずかにベッドの縁にあり、右足だけスリッパが残ったままだった。
少しだけ顔を上げた視線の先、床に目が留まった。
アルの革靴が、無造作に散らばっている。
いつもは寝室にスリッパで来ることが多いし、それにしてもきちんと揃えるのに。
きっと、それさえする余裕がなかったのでしょう。私は、心の内で小さく笑ってしまった。
そして、そっと足を動かしてまだ引っかかっていたスリッパを、ぽとんと床に落とす。
これで、お揃いになれた気がして。今度こそ、ふふっと笑みが漏れる。
姿勢を戻すと、彼はもう完全に動かなくなっていた。見上げた顔は目を閉じて完全に寝入っていて、私を胸に押しつけたまま、呼吸が静かに整っている。
とっても綺麗な寝顔に顔が緩んでしまい、下を向くと穏やかな寝息がくすぐるように私のつむじに触れた。
「アル・・・?」
一応小さく呼びかけてみたけれど、返事はなかった。いつもなら、その日にあったことを一通り話して、おやすみの挨拶をしてくれる。今日は、会話もないままにまるで子どものように眠ってしまった。
話したいことがあった・・・けれど、また今度。彼はずっと、私を待っていてくれたから。
それに、あのことを切り出すときは、アルも私も元気なときがいい。
しっかりと背中に回された腕は、手加減なく重さを感じて動けない。でも、それに安堵してひそかに喜んでいる私がいる。
だって・・・このままならきっと、朝まで一緒にいられるから。
「ゆっくり、おやすみなさい。アル」
そっと囁くように伝えて、私はアルに擦り寄った。
これは、彼がいつも私にくれる言葉。いつも、もしかしたら今夜は特別によく頑張ったあなたへ。私から贈れたことが、少し誇らしくさえ思えてくる。
小さなノックがして、レネが毛布を持ってきてくれたのだと思った。けれど、扉が開いて足音が聞こえる前に—ふわりと毛布が宙を舞う。
・・・もしかして、今のはアルが?
あおぎ見ても目を閉じたままだし、ただ静かに私を抱きしめているだけ。でも、毛布が肩にかかる感触や優しく広がった気配は、確かに彼のもので。
私は少しだけ腕を動かして毛布の端を引いて、アルの肩にもかかるように整える。
疲労回復のための、深くて大切な眠りを守りたかったから。
心音と体温が、じんわりと私にも伝わってくる。2人で過ごす夜はいつもと変わらず、静かで優しく心を満たしてくれた。
(終)
ーーーーーーーーーー
宣伝というか、お知らせを1件。カクヨムでも同作品名で投稿始めました。ほぼ原文変わりませんが、R15表現の方がいい方はそちらもよろしくお願いします。ただ、先行しているのはアルファポリス(こちら)です。
感想、ご意見ありましたら頂戴したく存じます。どなた様もお気軽に、どうぞ。
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静かな夜だった。
月明かりが届かない地下の訓練場に、松明の灯がゆらゆらと揺れている。風の音もなく、ただ土の匂いと湿った気配だけがそこにあった。
僕は左手に握った小太刀を見下ろし、小さく息を吐いた。
「じゃあ、始めようか」
その声が合図となる。ラティスがひとつ頷き、地面に手をかざした。クリスはすでに後方、医療用の魔導具を並べて待機している。ツヴァイとヴィントは距離を取って対面し、訓練の進行を見守ることができる位置へそれぞれ移動した。
「行きます」
今日で、この訓練は4回目を数える。元々は各々のタイミングが合うときに、日中に行っていたものだった。だが、蔦で吊り上げられる僕の姿が練習終わりの近衛騎士たちの目に留まってしまい。どこからか飛んできたクリスから『尊厳の問題です』とのきつい抗議が入った。
そのため、今は王城の執務がひと段落する夜8時から10時の間、いわば残業時間に訓練を回している。
もちろん、手当は人数分つけてある。こちらの都合で付き合わせている以上、そうでもしないと心が痛むからね。
右足先の地面が、わずかに盛り上がった。土の中をうごめく蔦—いや、ラティスのフェイントだ。はじめの頃は真っ直ぐに来たが、回を重ねるごとに罠を張るようになった。盛り上がった土塊に一瞬注意を逸らされた隙に、背後から本命の蔦が襲いかかる。
「ふっ・・・」
その蔦を、見ずに小太刀で切り捨てる。とはいえ、蔦を根絶やしにするものではない。ただ、伸びてきた先を切っただけだ。僕が剣を持つ目的は、ミュリエルを守るため・・・自分が傷を負うことなく耐えるためだから。
加えて、この訓練では魔力を一切使っていない。以前は使っていたが、ラティスの攻撃に目が慣れたタイミングであえてそれも封じた。
・・・恥ずかしながら、刃の角度に気をつけなければ。腕の力だけで蔦を一刀両断できないことを、この年になって初めて知った。道理で騎士全員が筋肉質なわけだ。
速やかに走り始める。その間も複数の蔦が飛び出ては僕を襲う。切って、避けて、また走るを繰り返していたが・・・やがて
「・・・くっ」
切った蔦のちょうど後ろ、完全なる死角から伸びた蔦に足首を取られた。次の瞬間、視界がぐるりと反転して体が空中に引き上げられる。握りを強くしたから、なんとか剣は手放さずに済む。
完全に吊られた逆さまの視界の中、蔦が枝分かれして僕の両足を拘束している。足をばたつかせても無駄な体力を消耗するだけなので、抵抗はしない。隙を見て蔦を切るつもりだが、術者から目を離すことのほうが危険だ。そのため僕の体は人形のように絡まれぶら下げられている。
「まだ、続けて」
声ははっきりしていた。ラティスは一瞬迷った顔をしたが、頷いて剣を掲げる。
短い詠唱とともに放たれたのは、水魔法。細く鋭く絞られた複数弾は、まるで針のように飛翔する。
——ッッ!
顔を狙ったものは流石に避けたが、数秒遅れて到達した針が左肩を打ち抜く。痛みが瞬間的に火花を散らし、視界が滲む。剣を再び手にしてから、腹筋も体幹もそれなりに鍛えたが、吊られた状態では完璧に避け切ることはできない。
だが、僕の口から『待った』は出なかった。
「アルディオス様!」
叫んだのは、クリスだった。反射的に駆け寄ろうとする彼に、首を振って制した。
この訓練は、ここまでやってこその意味がある。ラティスも、ツヴァイも、ヴィントもそれを理解してくれている。クリスだけは、最後の歯止めとして参加している。それでも、まだ限界ではない。
左脚の蔦を切った瞬間、ラティスが右脚に絡まる蔦を操り地面へと叩きつける。
なんとか受け身をとって、追撃を逃れるためにその場から離れた。その間も、肩からの痛みは断続的に響いている。僕はゆっくり息を吐いて呼吸を整えながら襲い来る蔦を右手のナイフでいなした。
・・・後で計測していたツヴァイに聞いたけど、被弾まで僕が耐えた時間は5分半。まだまだ、目標にはほど遠い。
△▼△
それから数週間。
同様の訓練を重ね、今日・・・15回目の夜。僕は初めて、宙に吊られずに10分以上持ち堪えることに成功した。
無論、攻撃は全力だった。ラティスの水魔法と蔦の動きは日を追うごとに鋭く、嫌らしくなりフェイントも複雑になっている。それでも、僕は小太刀一本、仕込みのナイフのみで切り抜けた。
「ふぅ・・・」
息が切れて、額をしたたり落ちる汗を拭う。全身が焼けるように熱い。腕も脚も、鉛のように重い。ナイフを離した指が震えていて、脱力して、拳を作っての繰り返しでやっと正常な握力が戻ってくる。
余裕がなくなる後半からは集中と持久力の勝負で、反応も遅れそうになっていた。だが、視界と頭脳は明瞭だった。次に何が来る可能性があるか、自分がどう対処すべきか、持てるすべてを出し尽くした。
僕はその場に座り込むと、服が汚れるのも厭わずに少しだけ仰向けになる。
「アルディオス様、お疲れ様でした。肩を見せてください」
クリスが速やかに歩み寄ってきて、ポーションを手にしながら言う。訓練のたびにボロボロになる僕を見慣れたのか、さすがにもう怒りの気配はない。代わりに甲斐甲斐しい手つきで服を解き、以前受けた傷の確認を始める。
その手を受けながら、僕は天井を見た。見えたのはいつもと変わらぬ石壁だけれど、心は不思議と満たされていた。
「3人とも、ちょっといいかな」
体を起こし、座ったまま3人に声をかける。それぞれが静かにうなずいた。
「今日の動きは、どうだった?」
問いは簡潔だったが、意図は明確だ。技術、動き、武器の扱い。どんな些細な点でもいい、改善すべき点を聞きたかった。
ツヴァイは少しだけ言葉を選ぶためにか考えてから、口を開いた。
「特に体力の限界である後半、体の重心がやや後ろに残っていました。とっさの体重移動で反応が遅れます。あと、小太刀の利き手の角度が甘いです。首元を狙うフェイントに弱くなります」
ヴィントは静かに付け加えた。
「回避後の足運びがやや直線的で、予測されやすいかと。あと、刃先を構えたときの間が綺麗すぎて、次の動きが読まれます」
ラティスはいつもの淡々とした声で言った。
「回を重ねるごとに、蔦で捉えにくくなってきました。ですが回避後の目線や、呼吸や動きに『止まり』があると狙いやすいです」
それらを全て、僕は頭に叩き込んだ。誰も、甘いことは言ってくれない。それこそが心から求めたことであり、とても真摯で、誠実だった。
「ありがとう。今度は、ラティスの蔦魔法とツヴァイ、ヴィントのどちらかの近接の組み合わせでも対処できるか、考えてみようかな」
そう呟いたとき、3人の顔が少しだけ引き締まった。不安でも警戒でもない。ただ、次に向けた構え。訓練の続きを、当然のように想像している顔だった。
・・・僕がそう、仕向けたんだな。
実感して、それがなんだか妙に嬉しかった。
△▼△
雪が解け春が近くなってきたとはいえ、夜の冷えた空気が室内にも少しだけ入り込んでいる。私はベッドの端に腰掛けて、髪を静かに梳いていた。
待ち人来ず、今日は少し遅くまで灯りがついていて、櫛を持つ手元を柔らかく照らしてくれている。外の喧騒はとっくに消え、静けさが部屋に満ちていた。
と、そのとき。
ノックの音もなくがちゃりと扉が開き、何のためらいもなく誰かが部屋に入ってきた。
顔を上げると、そこには待っていたひと—アルがいた。
身奇麗だけれど、クラバットは締めておらずワイシャツのボタンも2つほど開けたまま。スラックスを履いていて、まっすぐにこちらへ向かってくる。
その足取りはどこかゆっくりに見えて、それでいてためらいのない速さだった。
「おかえりなさい、あの」
「つかれた・・・」
その低い声が耳に届いたとき、私は何かを察した。
返事よりも早く、櫛を手から離して両腕で受け止めるような形になったその次には。ふわりと、一瞬全身が宙に浮いて。そのままアルは私ごとベッドの上に倒れた。
「きゃっ・・・!」
がっしりとした腕にいつもより強めに抱かれたまま、後ろに倒れ込む。ベッドの上に斜めに横たわる形になった。伏せていた目を開ければ、私の頭はアルの胸元に埋まっている。
端に座っていたので、足先がわずかにベッドの縁にあり、右足だけスリッパが残ったままだった。
少しだけ顔を上げた視線の先、床に目が留まった。
アルの革靴が、無造作に散らばっている。
いつもは寝室にスリッパで来ることが多いし、それにしてもきちんと揃えるのに。
きっと、それさえする余裕がなかったのでしょう。私は、心の内で小さく笑ってしまった。
そして、そっと足を動かしてまだ引っかかっていたスリッパを、ぽとんと床に落とす。
これで、お揃いになれた気がして。今度こそ、ふふっと笑みが漏れる。
姿勢を戻すと、彼はもう完全に動かなくなっていた。見上げた顔は目を閉じて完全に寝入っていて、私を胸に押しつけたまま、呼吸が静かに整っている。
とっても綺麗な寝顔に顔が緩んでしまい、下を向くと穏やかな寝息がくすぐるように私のつむじに触れた。
「アル・・・?」
一応小さく呼びかけてみたけれど、返事はなかった。いつもなら、その日にあったことを一通り話して、おやすみの挨拶をしてくれる。今日は、会話もないままにまるで子どものように眠ってしまった。
話したいことがあった・・・けれど、また今度。彼はずっと、私を待っていてくれたから。
それに、あのことを切り出すときは、アルも私も元気なときがいい。
しっかりと背中に回された腕は、手加減なく重さを感じて動けない。でも、それに安堵してひそかに喜んでいる私がいる。
だって・・・このままならきっと、朝まで一緒にいられるから。
「ゆっくり、おやすみなさい。アル」
そっと囁くように伝えて、私はアルに擦り寄った。
これは、彼がいつも私にくれる言葉。いつも、もしかしたら今夜は特別によく頑張ったあなたへ。私から贈れたことが、少し誇らしくさえ思えてくる。
小さなノックがして、レネが毛布を持ってきてくれたのだと思った。けれど、扉が開いて足音が聞こえる前に—ふわりと毛布が宙を舞う。
・・・もしかして、今のはアルが?
あおぎ見ても目を閉じたままだし、ただ静かに私を抱きしめているだけ。でも、毛布が肩にかかる感触や優しく広がった気配は、確かに彼のもので。
私は少しだけ腕を動かして毛布の端を引いて、アルの肩にもかかるように整える。
疲労回復のための、深くて大切な眠りを守りたかったから。
心音と体温が、じんわりと私にも伝わってくる。2人で過ごす夜はいつもと変わらず、静かで優しく心を満たしてくれた。
(終)
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