44 / 61
帝国・教国編
あるシュネーの話(リイネ視点)
しおりを挟む
【雪の子ら】
その子が保護されたのは、冬の終わりの寒波で猛烈な吹雪が吹き荒れ、ようやく雲が割れ始めた日のことだった。
新雪に閉ざされた尾根の途中で、私は嗅ぎつけるように子どもの声を聞いた。震える泣き声は凍った岩肌に吸い込まれていくようで、聴こえたのが奇跡のよう。
だがシュネーである私にとって、天候に関わらず子どもの声を拾うことは奇跡ではない。そういう性――本能が刻まれている。
凍土に産声をあげる子の匂いを、声を、私たちは誰よりも早く見つけることができる。
持ってきた毛布越しに抱き上げた子は、赤子ではなかった。自分で掘っただろうかまくらは半分以上埋まりかけていたが、幼いながらも言葉を知り、凍傷になりかけた指で何かをつかもうとしていた。虚ろに繰り返されるその呼び声が、胸を締めつける。
また・・・里が迎える何度目かの、拾い子。そして私にとっては初めての、自分の子になるかもしれない子だった。
△▼△
シュネー・・・異国では雪女とも呼ばれる私たちの種族は、孤高でありながら親子の情が深い。特に、子を得ることへの希求は、他種族の理解の範疇を超えている。
私たちは長くを生きるが、種族的に女性しかいないシュネーだけでは子を産むことは叶わない。異種族と交わることもできなくはないが、躰から滲み出る氷の息吹ゆえに難度が高く子が生まれることは稀。
ゆえに、その性に抗うことができなくなったシュネーは幾度となく他人の子を攫い、親との争いを起こして死んだ。ときにはその子どもすら息吹で殺してしまった。そうして悲劇は繰り返され、シュネーたちは戒めのため姿を消した。
その記録が国内のみならず、他国にも残っているほどに。
それでも・・・私たちは心から『育てたい』と願っていた。それを見込んだのが、当時王太子であったカイン・フォン・ルシフェルである。
彼は、国の内陸の雪山に隠れ住んでいた私たちを、探し当ててわざわざ住処まで赴き交渉してきたのだ。
『山脈に迷い込んだ子で、親、もしくは血縁者が観測できる範囲におらず火もしくは氷の魔力を宿すこと。資質ある子のみを育てることを許可します。もちろん、同族内であっても他人から子を奪うことは一生禁じます。契約を破ったなら、書に明記した通り罰を受ける・・・ですが、守り抜けるなら我が国の境を任せたいと考えています』
『・・・もし、素質のない子を見つけたら?』
『あなたたちが保護してくれるなら、他種族に任せましょう。そうすれば、生命は保たれます』
その一言が決め手だったと、当時の長は言っていたらしい。
それがシュネーの長と王家の間で交わされた、今代まで150年以上にわたって続く契約のあらましだ。
魔の国と帝国を隔てる雪山、現在は《エルシュネー山脈》と呼ばれる山に暮らすことを許されたシュネーたちは、自然災害や侵入者を許さぬ鉄壁の守りを敷いている。途中からイエティたちも加わって、私たちは《資質ある子》を育てる代わりに、境界の番人としての役割を負った。
子を保護したその日、集会が開かれた。
白い衣を纏うシュネーたちが、円を描くように座る。中心にはあの子・・・キースがいた。おそらくまだ4つか5つ。だが、叫び疲れて眠ったために今は閉じられた瞳は、ここにいる誰よりも冴えた氷の色を宿している。
私ーリイネはその子の保護者であり、育ての母候補であった。長が静かに問う。
「その子に、資質はあるのですか?」
「はい。氷の息吹に、もう応じました」
この吹雪の中生き残ることができたのも、彼の内包する魔力で環境に適応して壊死を免れたためだ。
私が答えると、円の中にざわめきが走った。
「ならば、その子は育ててよい」
「リイネの子だな。ほかの子は?」
「他には見つけませんでした」
女たちはうなずき、また静けさに戻った。
シュネー1人につき子は1人まで。資質がなければ引き取れない。
だが今は素質のない子も速やかに、別の種族が預かってくれるようになった。山脈の中腹よりも下、森の一角にはエルフたちの里がある。移り住んだ当初は緊張もあったが、今では互いに物のやり取りなどで交流し、一定の信頼を築けている。
彼らも長寿ゆえに子は愛しい。引き渡した子たちも大切に育てられていると、時折報告がてら会うこともある長が教えてくれる。
それも、カイン様が橋渡しを努めてくれたおかげだった。
△▼△
「かあさーん」
私の袖を力いっぱい引きながらも、わが子の呼ぶ声がする。その響きに、心は柔らかく波打つ。
これがぬくもりというものならば、一生浸かっていたいと思うほどだ。
「なあに? キース」
「みてみて! ぼく、また雪を動かしたよ」
キースの小さな手が窓の外を指差し、私の膝に触れる。外には手袋を身に着けていったはずだけれど、今は素手だ。その熱に、私は目を細めた。
人の子は、やはりあたたかい。それは時に、氷の躰には痛みを覚えるほどの熱をもたらすが、それでも私は放さないでほしいと、心の内で願ったほどだった。
「すごいわね、どんどん操作が上手くなっているわ・・・そうだ、良く聞いて。キースが15歳になるとき、好きな道を選んでいいのよ」
そう告げると、彼は首をかしげた。その頭をそっと撫でると、火照った身体に気持ちがいいのか擦り寄ってくる。
「里を離れて、山を下りてもいいの?」
「ええ。魔の国の首都に行くのも、向こう側の国に行くのも自由よ。もしここに残るなら、私の子として生きなさい」
「そっか・・・でもぼく、今はかあさんと一緒がいい」
その無垢な言葉に、胸がつまる。初めて育てる彼の優しさに、救われ満たされているのは私の方だ。
だけれど、いつか歳を重ねればどのみち・・・
私たちには、人よりもはるかに長い寿命がある。私の実年齢すら、決して彼が想像している通りではない。だが人の子は、キースは私たちの五分の一程度の期間で成長し、老いていく。
・・・だからこそ、その限られた時間を大切に共に過ごし、愛したいと思うのだ。
△▼△
15の年――
その年、私の息子であるキースは火を操った。きっかけは、暖炉の中から自分の方にはねてきた木片を避けようとして。気づいた私が危ないと、守ろうとした次の瞬間に右手に氷を纏いながら、左手で火傷もせず木片を受け止めていた。
「・・・属性が、混ざっている」
私は安堵とともに唇を噛んだ。火魔法の資質もまた、育成対象であることは承知している。
けれど、この才能は明確な分岐点を意味する。魔族であっても2属性は稀。ましてや人の子であれば、その真価は計り知れない。
彼には、魔法使い、冒険者、研究者など無限の可能性が広がっている。そして火属性を操る術を教えられる者は、この里には居ない。
「迷ったけど、決めた・・・ぼく、山を下りるよ」
私は、キースの言葉に頷くしかできなかった。
契約により子は成人の半分を迎えた頃、自由に過ごす権利を持つ。何人たりともそれを妨げてはならない。
それでも私は、久しく感じなかった氷の欠片が心に広がっていくのを知覚した。
それでもいい。それでも――今にも喪われそうだった命を救い、キースを育てることができた。その事実と、息子と共に過ごしてきた全ての思い出が、広く感じるようになった家に残された私にとって、何よりの歓びだった。
△▼△
山道を登ってくる足音がしたのは、夕凪のころだった。風はなく、雪はほとんど降っていない。けれど、その音はたしかに凍てた地を踏みしめてくるものだった。
私は長らく使っていなかった暖炉と炭を確認し、編みかけの氷糸をひざに置いた。ひと呼吸のあいだをおいて、扉を開ける。そこに立っていたのは――少年ではなく、青年になった彼だった。
「キース?」
「ただいま」
目を細めながら笑う癖は、幼いころと変わっていない。けれど声は低くなり、肩幅も広く、何より瞳に深さがあった。私は思わず、彼の頬に手を伸ばす。
もう、頭を撫でるには彼は大人になっていたから。
「・・・随分、背が伸びたのね」
「母さんの頭、もう余裕で越してる」
「そうね。それなら、私よりも強いのかしら」
言いながら、喉の奥に何かが詰まった。
言葉では出せない感情――けれどキースはその全てを読み取ったように、私の手を取った。そして、まるで隔たった時間を埋めるように、肩をそっと抱き寄せた。
おそらくは、火と氷。完ぺきに調整された手のひらに、熱を感じることはない。それでも胸を締めるこのあたたかな気持ちは、彼から感じるぬくもりにほかならなかった。
「僕、王都で騎士になったんだ。部隊の長が、すごい身体能力のひとで・・・訓練がめちゃくちゃ厳しくて、初めのころは毎日筋肉痛だったよ」
私は黙って、火に当たりながらとつとつとこぼすキースの話を聞いていた。夕食後の茶を飲みながら、彼が語るひとつひとつを噛み締めるように。
「立派になったのね、キース」
「まっすぐ褒められると、なんか恥ずかしいな・・・それで、詳しくは言えないけど、任務の打診があった。他国へ行くことが含まれてて、僕が『人間』だから目立たずに潜れる」
その言葉に、心の奥で溶けかけていた氷がひび割れる音がした。
里を出るとき、キースは知らされている。私たちがほんとうの親子ではないことを。シュネーたちが王家との契約を、結んだ日からずっと守っていることを。たとえ捨て子であっても抱くことすら、かつては咎とされていたことを。
「正直に言って、行くかどうか迷ってる。目的は、攻め入るためでも奪うためでもなくて、探し物のためなんだ。でも、やっぱり怖くないといえば嘘になる。母さんは・・・どう思う?」
彼の氷色の目がまっすぐこちらを見つめたとき、私は理解した。
ああ、この子はもう自立していて、1人で歩いていける。それでも、母に問いてくれているのだと。
「・・・私は、危険なことはしてほしくないわ」
率直にそう言うと、彼は苦笑して1つ頷いた。けれどそのあと、ゆっくりと言葉を続ける。
「でも・・・キースの、息子の意思を何より尊重したい。あなたが選んだ道なら、私がどんなに不安でも応援するわ」
しばしの沈黙ののち、キースは手を握ってきた。大きな手。調整を忘れたその手は熱くて、溶けてしまいそうなどだった。
それでも、ずっと離さないでいてほしいと望む私がいた。
「ありがとう、母さん。育ててくれた恩とか、そういう言い方じゃなくてさ」
少し言葉を切って、まっすぐな目でキースは言う。
「たとえ育ての親だとしても、僕の母はリイネ母さんだけ。そして僕の故郷は、魔の国だ」
その言葉は、何よりも強く胸にぬくもりを残す。
そして彼は旅立つ朝、もう一度振り返って言った。
「絶対に戻ってくるから。雪が降るころに、またここで会おうね」
△▼△
――それから、いくつかの冬が過ぎた。
その間、私は何も変わらなかった。新雪を浴びた雪女の躰は、時間を跳ね返すかのように美しさを保つから。
けれど心だけは、毎日少しずつ、氷のようにきしんでいた。
キースは帰ってくるだろうか。本当に――生きて。
旅立つ前、彼の目には何かを守りたいと強い願いを持っていた。騎士なのだから、一番は国なのだろうけれど。
・・・彼の話す全てが、たとえ私の安心させるための嘘であったとしても、信じるに値する光だった。
そして吹雪が落ち着いたある日、私の耳に足音が届く。今度は風の音とともに、新雪を踏みしめてくる気配があった。私は扉を開け、足音の先を見つめた。
そこにいたのは、かつてよりも遥かに頼もしい青年だった。くたびれた旅装束を纏い、けれど雪を踏むその足取りは重く軽やかで。
「ただいま、母さん」
その声に、私は答える言葉を失った。ただ、駆け寄るだけで精一杯だった。
その胸に飛び込んで、細くなった腕で彼を抱きしめた。あたたかさが胸に沁みた。
この子は――ほんとうに、帰ってきてくれた。約束を守ってくれた。
「・・・おかえりなさい、キース」
やっと絞り出した声は、情けないほどに震えている。凍てた心に、待ち侘びていた春が訪れた瞬間だった。
ーーーーーーーーーー
キースは任務後しばらくして除隊し、任務の達成報酬として望んでいた付与術師に弟子入りを果たした。自身の2属性魔力を元に、触れ合う双方の体温を調整する魔道具の開発に尽力するために。
可愛がってくれたシュネーたちに報いることと、自分の故郷に子どもの笑い声を響かせたい、その一心で。
その子が保護されたのは、冬の終わりの寒波で猛烈な吹雪が吹き荒れ、ようやく雲が割れ始めた日のことだった。
新雪に閉ざされた尾根の途中で、私は嗅ぎつけるように子どもの声を聞いた。震える泣き声は凍った岩肌に吸い込まれていくようで、聴こえたのが奇跡のよう。
だがシュネーである私にとって、天候に関わらず子どもの声を拾うことは奇跡ではない。そういう性――本能が刻まれている。
凍土に産声をあげる子の匂いを、声を、私たちは誰よりも早く見つけることができる。
持ってきた毛布越しに抱き上げた子は、赤子ではなかった。自分で掘っただろうかまくらは半分以上埋まりかけていたが、幼いながらも言葉を知り、凍傷になりかけた指で何かをつかもうとしていた。虚ろに繰り返されるその呼び声が、胸を締めつける。
また・・・里が迎える何度目かの、拾い子。そして私にとっては初めての、自分の子になるかもしれない子だった。
△▼△
シュネー・・・異国では雪女とも呼ばれる私たちの種族は、孤高でありながら親子の情が深い。特に、子を得ることへの希求は、他種族の理解の範疇を超えている。
私たちは長くを生きるが、種族的に女性しかいないシュネーだけでは子を産むことは叶わない。異種族と交わることもできなくはないが、躰から滲み出る氷の息吹ゆえに難度が高く子が生まれることは稀。
ゆえに、その性に抗うことができなくなったシュネーは幾度となく他人の子を攫い、親との争いを起こして死んだ。ときにはその子どもすら息吹で殺してしまった。そうして悲劇は繰り返され、シュネーたちは戒めのため姿を消した。
その記録が国内のみならず、他国にも残っているほどに。
それでも・・・私たちは心から『育てたい』と願っていた。それを見込んだのが、当時王太子であったカイン・フォン・ルシフェルである。
彼は、国の内陸の雪山に隠れ住んでいた私たちを、探し当ててわざわざ住処まで赴き交渉してきたのだ。
『山脈に迷い込んだ子で、親、もしくは血縁者が観測できる範囲におらず火もしくは氷の魔力を宿すこと。資質ある子のみを育てることを許可します。もちろん、同族内であっても他人から子を奪うことは一生禁じます。契約を破ったなら、書に明記した通り罰を受ける・・・ですが、守り抜けるなら我が国の境を任せたいと考えています』
『・・・もし、素質のない子を見つけたら?』
『あなたたちが保護してくれるなら、他種族に任せましょう。そうすれば、生命は保たれます』
その一言が決め手だったと、当時の長は言っていたらしい。
それがシュネーの長と王家の間で交わされた、今代まで150年以上にわたって続く契約のあらましだ。
魔の国と帝国を隔てる雪山、現在は《エルシュネー山脈》と呼ばれる山に暮らすことを許されたシュネーたちは、自然災害や侵入者を許さぬ鉄壁の守りを敷いている。途中からイエティたちも加わって、私たちは《資質ある子》を育てる代わりに、境界の番人としての役割を負った。
子を保護したその日、集会が開かれた。
白い衣を纏うシュネーたちが、円を描くように座る。中心にはあの子・・・キースがいた。おそらくまだ4つか5つ。だが、叫び疲れて眠ったために今は閉じられた瞳は、ここにいる誰よりも冴えた氷の色を宿している。
私ーリイネはその子の保護者であり、育ての母候補であった。長が静かに問う。
「その子に、資質はあるのですか?」
「はい。氷の息吹に、もう応じました」
この吹雪の中生き残ることができたのも、彼の内包する魔力で環境に適応して壊死を免れたためだ。
私が答えると、円の中にざわめきが走った。
「ならば、その子は育ててよい」
「リイネの子だな。ほかの子は?」
「他には見つけませんでした」
女たちはうなずき、また静けさに戻った。
シュネー1人につき子は1人まで。資質がなければ引き取れない。
だが今は素質のない子も速やかに、別の種族が預かってくれるようになった。山脈の中腹よりも下、森の一角にはエルフたちの里がある。移り住んだ当初は緊張もあったが、今では互いに物のやり取りなどで交流し、一定の信頼を築けている。
彼らも長寿ゆえに子は愛しい。引き渡した子たちも大切に育てられていると、時折報告がてら会うこともある長が教えてくれる。
それも、カイン様が橋渡しを努めてくれたおかげだった。
△▼△
「かあさーん」
私の袖を力いっぱい引きながらも、わが子の呼ぶ声がする。その響きに、心は柔らかく波打つ。
これがぬくもりというものならば、一生浸かっていたいと思うほどだ。
「なあに? キース」
「みてみて! ぼく、また雪を動かしたよ」
キースの小さな手が窓の外を指差し、私の膝に触れる。外には手袋を身に着けていったはずだけれど、今は素手だ。その熱に、私は目を細めた。
人の子は、やはりあたたかい。それは時に、氷の躰には痛みを覚えるほどの熱をもたらすが、それでも私は放さないでほしいと、心の内で願ったほどだった。
「すごいわね、どんどん操作が上手くなっているわ・・・そうだ、良く聞いて。キースが15歳になるとき、好きな道を選んでいいのよ」
そう告げると、彼は首をかしげた。その頭をそっと撫でると、火照った身体に気持ちがいいのか擦り寄ってくる。
「里を離れて、山を下りてもいいの?」
「ええ。魔の国の首都に行くのも、向こう側の国に行くのも自由よ。もしここに残るなら、私の子として生きなさい」
「そっか・・・でもぼく、今はかあさんと一緒がいい」
その無垢な言葉に、胸がつまる。初めて育てる彼の優しさに、救われ満たされているのは私の方だ。
だけれど、いつか歳を重ねればどのみち・・・
私たちには、人よりもはるかに長い寿命がある。私の実年齢すら、決して彼が想像している通りではない。だが人の子は、キースは私たちの五分の一程度の期間で成長し、老いていく。
・・・だからこそ、その限られた時間を大切に共に過ごし、愛したいと思うのだ。
△▼△
15の年――
その年、私の息子であるキースは火を操った。きっかけは、暖炉の中から自分の方にはねてきた木片を避けようとして。気づいた私が危ないと、守ろうとした次の瞬間に右手に氷を纏いながら、左手で火傷もせず木片を受け止めていた。
「・・・属性が、混ざっている」
私は安堵とともに唇を噛んだ。火魔法の資質もまた、育成対象であることは承知している。
けれど、この才能は明確な分岐点を意味する。魔族であっても2属性は稀。ましてや人の子であれば、その真価は計り知れない。
彼には、魔法使い、冒険者、研究者など無限の可能性が広がっている。そして火属性を操る術を教えられる者は、この里には居ない。
「迷ったけど、決めた・・・ぼく、山を下りるよ」
私は、キースの言葉に頷くしかできなかった。
契約により子は成人の半分を迎えた頃、自由に過ごす権利を持つ。何人たりともそれを妨げてはならない。
それでも私は、久しく感じなかった氷の欠片が心に広がっていくのを知覚した。
それでもいい。それでも――今にも喪われそうだった命を救い、キースを育てることができた。その事実と、息子と共に過ごしてきた全ての思い出が、広く感じるようになった家に残された私にとって、何よりの歓びだった。
△▼△
山道を登ってくる足音がしたのは、夕凪のころだった。風はなく、雪はほとんど降っていない。けれど、その音はたしかに凍てた地を踏みしめてくるものだった。
私は長らく使っていなかった暖炉と炭を確認し、編みかけの氷糸をひざに置いた。ひと呼吸のあいだをおいて、扉を開ける。そこに立っていたのは――少年ではなく、青年になった彼だった。
「キース?」
「ただいま」
目を細めながら笑う癖は、幼いころと変わっていない。けれど声は低くなり、肩幅も広く、何より瞳に深さがあった。私は思わず、彼の頬に手を伸ばす。
もう、頭を撫でるには彼は大人になっていたから。
「・・・随分、背が伸びたのね」
「母さんの頭、もう余裕で越してる」
「そうね。それなら、私よりも強いのかしら」
言いながら、喉の奥に何かが詰まった。
言葉では出せない感情――けれどキースはその全てを読み取ったように、私の手を取った。そして、まるで隔たった時間を埋めるように、肩をそっと抱き寄せた。
おそらくは、火と氷。完ぺきに調整された手のひらに、熱を感じることはない。それでも胸を締めるこのあたたかな気持ちは、彼から感じるぬくもりにほかならなかった。
「僕、王都で騎士になったんだ。部隊の長が、すごい身体能力のひとで・・・訓練がめちゃくちゃ厳しくて、初めのころは毎日筋肉痛だったよ」
私は黙って、火に当たりながらとつとつとこぼすキースの話を聞いていた。夕食後の茶を飲みながら、彼が語るひとつひとつを噛み締めるように。
「立派になったのね、キース」
「まっすぐ褒められると、なんか恥ずかしいな・・・それで、詳しくは言えないけど、任務の打診があった。他国へ行くことが含まれてて、僕が『人間』だから目立たずに潜れる」
その言葉に、心の奥で溶けかけていた氷がひび割れる音がした。
里を出るとき、キースは知らされている。私たちがほんとうの親子ではないことを。シュネーたちが王家との契約を、結んだ日からずっと守っていることを。たとえ捨て子であっても抱くことすら、かつては咎とされていたことを。
「正直に言って、行くかどうか迷ってる。目的は、攻め入るためでも奪うためでもなくて、探し物のためなんだ。でも、やっぱり怖くないといえば嘘になる。母さんは・・・どう思う?」
彼の氷色の目がまっすぐこちらを見つめたとき、私は理解した。
ああ、この子はもう自立していて、1人で歩いていける。それでも、母に問いてくれているのだと。
「・・・私は、危険なことはしてほしくないわ」
率直にそう言うと、彼は苦笑して1つ頷いた。けれどそのあと、ゆっくりと言葉を続ける。
「でも・・・キースの、息子の意思を何より尊重したい。あなたが選んだ道なら、私がどんなに不安でも応援するわ」
しばしの沈黙ののち、キースは手を握ってきた。大きな手。調整を忘れたその手は熱くて、溶けてしまいそうなどだった。
それでも、ずっと離さないでいてほしいと望む私がいた。
「ありがとう、母さん。育ててくれた恩とか、そういう言い方じゃなくてさ」
少し言葉を切って、まっすぐな目でキースは言う。
「たとえ育ての親だとしても、僕の母はリイネ母さんだけ。そして僕の故郷は、魔の国だ」
その言葉は、何よりも強く胸にぬくもりを残す。
そして彼は旅立つ朝、もう一度振り返って言った。
「絶対に戻ってくるから。雪が降るころに、またここで会おうね」
△▼△
――それから、いくつかの冬が過ぎた。
その間、私は何も変わらなかった。新雪を浴びた雪女の躰は、時間を跳ね返すかのように美しさを保つから。
けれど心だけは、毎日少しずつ、氷のようにきしんでいた。
キースは帰ってくるだろうか。本当に――生きて。
旅立つ前、彼の目には何かを守りたいと強い願いを持っていた。騎士なのだから、一番は国なのだろうけれど。
・・・彼の話す全てが、たとえ私の安心させるための嘘であったとしても、信じるに値する光だった。
そして吹雪が落ち着いたある日、私の耳に足音が届く。今度は風の音とともに、新雪を踏みしめてくる気配があった。私は扉を開け、足音の先を見つめた。
そこにいたのは、かつてよりも遥かに頼もしい青年だった。くたびれた旅装束を纏い、けれど雪を踏むその足取りは重く軽やかで。
「ただいま、母さん」
その声に、私は答える言葉を失った。ただ、駆け寄るだけで精一杯だった。
その胸に飛び込んで、細くなった腕で彼を抱きしめた。あたたかさが胸に沁みた。
この子は――ほんとうに、帰ってきてくれた。約束を守ってくれた。
「・・・おかえりなさい、キース」
やっと絞り出した声は、情けないほどに震えている。凍てた心に、待ち侘びていた春が訪れた瞬間だった。
ーーーーーーーーーー
キースは任務後しばらくして除隊し、任務の達成報酬として望んでいた付与術師に弟子入りを果たした。自身の2属性魔力を元に、触れ合う双方の体温を調整する魔道具の開発に尽力するために。
可愛がってくれたシュネーたちに報いることと、自分の故郷に子どもの笑い声を響かせたい、その一心で。
11
あなたにおすすめの小説
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
旦那様の愛が重い
おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。
毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。
他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。
甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。
本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。
独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました
せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~
救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。
どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。
乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。
受け取ろうとすると邪魔だと言われる。
そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。
医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。
最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇
作品はフィクションです。
本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。
溺愛彼氏は消防士!?
すずなり。
恋愛
彼氏から突然言われた言葉。
「別れよう。」
その言葉はちゃんと受け取ったけど、飲み込むことができない私は友達を呼び出してやけ酒を飲んだ。
飲み過ぎた帰り、イケメン消防士さんに助けられて・・・新しい恋が始まっていく。
「男ならキスの先をは期待させないとな。」
「俺とこの先・・・してみない?」
「もっと・・・甘い声を聞かせて・・?」
私の身は持つの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界と何ら関係はありません。
※コメントや乾燥を受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる