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帝国・教国編
ミュリエルの魔力訓練(アルディオス視点)
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ミュリエルの最近の愛読書は魔力操作についての本、しかも中級編だ。
魔力について認識し、あり方を探す彼女は生真面目な性格もあってか、就寝前の時間も高等部の学生用教本を丹念に読み進めている。
子どもの頃に、僕も読んだが初級編ですら一般的な習得に数年はかかる。今の彼女に、難しすぎはしないだろうか。
「それ・・・初級編もあるけど、もう読み終わったの?」
「はい。この国に来たときに、文字を学んでから歴史本と一緒に読みました」
気になって尋ねた僕に、ミュリエルは小さく頷いて髪を揺らした。目線は本から揺らさずに、自分なりの解釈を別のノートにまとめているようだ。僕は微かに刮目しながら、隣に腰掛ける。
「そう、偉いね」
「私自身が魔法が使えなくても、使える方が多い国ですから・・・知識として身につけておきたくて。アルのそばにいて、恥ずかしくないように」
ああ、なんて人なんだろう。心からそう思った。
自身が魔法が使えることを知るずっと前から、僕のために学び始めていたという事実。しかも、最初からその努力をひけらかすこともなかった。
端的に言って、ミュリエルは尊い。だけれど、その一言で言い表せないほどの努力の一端を垣間見ることができ、ますます惚れ直してしまうのだった。
だから僕は、頭を撫でようと伸ばしかけた手をゆっくり下ろす。彼女と過ごす時間を確保するために、執務を調整して早めに寝室に向かい・・・かまってもらえないことに寂しさを覚えたからといって、真剣なミュリエルの邪魔をするべきではない。
静かに、来るかもしれない質問に備えるため見守ることに徹した。
・・・そういえば、周囲が独身ばかりなので確かめる相手はいないけど、妻からの『待て』を覚えた僕は、愛妻家としてステップアップしたのではないだろうか? だとしたら光栄だね。
△▼△
今日は、前々から予定していた魔力の知覚についての実践の日だ。不要な物がすべて片付けられた広間に、ぽつんと2人がけのソファーが固定されている。それに座る僕の横、ミュリエルは白のYシャツと黒のスラックスに身を包み、大きな瞳をきりりと引き締めていた。
この組み合わせ、どこかで見覚えがあると思ったら軍服だな。確かに衝撃には強いし、ミュリエルの身の丈にぴったり合わせてあるし、Yシャツの襟とズボンの裾には見覚えのある銀糸の刺繍が入っている。壁際に佇むツヴァイの隣、にんまりと笑む悪友の計画的犯行だろう。事前に教えてくれれば僕も軍服で来たのに。
まぁ、彼女が入室した直後に本心から『今日の装いは、どんな命令でも聞きたくなってしまうほどに凛々しくて素敵だ』と伝えたら、お礼とともに恥ずかしそうに俯いて頬を赤くしていた。今日も妻が最高に可愛い。
「ミュリエル。まずは僕の魔力を少しだけ、流すよ。どんな風に感じるか教えて。気分が悪くなったら、そこで終わりだ」
「はい。よろしくお願いします」
ミュリエルは深呼吸をし、僕と向かい合うように座り直す。高く結んだポニーテールがふわりと揺れて、決意とやる気の宿った瞳がまっすぐに僕を見ていた。
僕は軽く手をかざし、ほんの少しだけ自分の魔力を流す。彼女に無理のない範囲で、静かに、柔らかくを心がけて。
「・・・あっ」
小さく息を呑んだミュリエルが、そっと左手を胸元に添えた。右手は膝の上に置いたままだ。
「ふわふわ、しています」
やわらかな毛布に包まれたような、安らぎのある声だった。僕は目を細めたが、傍で見ていたトレーシーが肩を揺らしながら隣のツヴァイに呟く。
「重力を操る陛下にふわふわって言えるの、ミュリエル様しかいないだろ・・・」
真摯な表情のままの騎士団長と、肩の震えを必死で堪える悪友の様子に思わず苦笑する。
確かに僕の魔力は本来、ずっしりと地を這うような性質を持っている。それを彼女がふわふわと感じるのは―なるほど、面白い発見だ。
「気分は大丈夫そうだね。じゃあ、他の魔力も比べてみようか」
僕が提案すると、すぐそばにいたクリスが小さく息をつきながら歩み寄ってくる。
「・・・失礼します。ミュリエル様、流しますよ」
慎重に頷くミュリエルを待って、クリスは魔力を送った。細く、鋭く、緻密に制御されたそれは、蔦が伸びるようにも思える。
「・・・ツンツンですかね? ええと、痛みはなくて指でつつかれているような感じです」
ゆっくりと首を傾げながら、ミュリエルはそう表現した。クリスが一瞬だけ言葉を失い、顔を背ける。
ちなみにトレーシーの肩の震えは最高潮に達している。そのまま声を出さずに耐え切らないと後で面倒なことになるのは、本人が一番よくわかっているだろうに。
「ツンツン・・・まあ、否定はしませんけどね」
次はトレーシーが手を挙げて、歩み寄ってきた。
「ミュリエル様、俺のもぜひ! その、比較のためにですね!」
「はい、よろしくお願いします」
彼の魔力は穏やかで、丸く、包み込むようだった。まるで彼が作る心のこもった衣服のような。
本来なら、トレーシーも呪術を得意とするため多少なりとも揺らぎを含んでいていいはずだが、今日の日のために修行でもしてきたのだろうか。
「・・・くるくる、って感じがします」
「くるくる!」
満面の笑みで拳を握っているので、よく分からないがどうやら嬉しいらしい。
最後に控えていたのは、ツヴァイだ。静かに一歩前に出て、一言断ってからミュリエルに向けて魔力を送る。空気の流れが一瞬で変わり、張りつめた気配が漂った。
けれど、彼女は目を見開いたままそれを感じ取り口を開く。
「・・・さらさらしているのですが、底が見えない感じがします」
ツヴァイはそれを聞いて、微かに目を細めるだけだったが、確かに誇らしげな気配を滲ませていた。
「じゃあ、次はミュリエル自身の魔力を放出してみようか。僕に向けて、ゆっくり出してみて」
「はい・・・やってみます」
ミュリエルは軽く両手をひろげ、目を閉じて息を吐いて集中する。次の瞬間、彼女の身体からあふれ出した魔力はまるで神々しい光のように部屋に広がり始めた。
透明で、暖かくて、祝福された気配が渦を巻くような感覚。僕の髪がかすかに揺れ、空間がやんわりと満たされる。
「ミュリエル、ストップ」
思わず声をかける。決して狭くはない広間を、満たしてもまだ魔力が溢れ続けていたからだ。
「――っ、すみませんっ・・・」
ミュリエルは閉じていた目を開けて短く息を吸い、魔力は何にもならずに霧散した。その動きもまた、控えめな彼女らしくどこか清らかだ。
彼女が息を整えたところで、僕はそっと問いかける。
「うまく出せていたよ。気分はどう? 目眩や、疲れはでていない?」
「気分は変わりがないですけど・・・なんだか、身体の内側からぽかぽかしています」
小さな笑顔と共にそう答えた彼女の身体を、明らかに魔力が巡っていた。皮膚の下に光の道筋があるかのように、彼女の中の魔力が目に見えぬ流れとして渦巻いているのを感じる。
「よかった。今日の訓練はここまでにしておこう」
「はい、アルも、皆さんもご協力ありがとうございました」
立ち上がって礼を言うミュリエルの額には、いつの間にかうっすらと汗が滲んでいた。それでもその目は真っ直ぐで、揺るぎない。
彼女は間違いなく、魔法の才を持っている。これは役職には一切関係がない、彼女自身の資質だ。
けれどそれ以上に、その力を丁寧に正しく使おうとする心が、何より優しくて美しかった。
立ち上がった僕はそっとその手を取って、笑みを返す。
「これからも、色々試して一緒に身につけていこうね」
「・・・はいっ」
ミュリエルの頬が紅く染まり、けれどどこか嬉しそうに微笑んでいて。そんな彼女を見ているだけで、僕の胸の中まで『ぽかぽか』してしまうのだった。
△▼△
着替えるために、ミュリエルが侍女と退出した間にトレーシーたちと少しの会話をした僕は、執務室に戻って彼女を待った。クリスの淹れた紅茶を飲みながら書類に目を通していると、ノックの音と共に彼女が入ってくる。
「お待たせしました、アル」
「いいや。ミュリエルも、お茶飲む?」
「はい、クリス、お願いできますか?」
「ただいま用意いたします」
可愛らしくも勇ましかった軍服からゆったりしたワンピースに着替えた彼女は、促されて僕の隣に静かに座る。濃紺の胸元に緑のレースが美しくこちらも似合っていたが、その表情はまだどこか緊張した面持ちを残している。訓練の余韻が、残っているのだろう。
彼女の魔力が思っていた以上に強く、豊かで、そして溢れ出しやすいことがはっきりした―それが今日の最大の収穫だった。
「ミュリエル。知らせたいことと、相談したいことがある」
無言でクリスが退出するのを見送り、切り出すと彼女はピンと背を伸ばして僕を見た。ゆっくりとティーカップを置いて、膝の上に指先を添えながら。
「はい、なんでしょうか?」
「さっきの放出の感触で、君の中にある魔力の総量がだいたい分かった。人としては、かなり多いね」
「そう、なんですか?」
「うん」
彼女の声には、戸惑いと少しの緊張が伺える。僕の中ではある程度予想はついていたが、自分自身でも制御しきれないほどの魔力を感じていたのだろう。
「魔力の総量は一般的に、成人の半分までに決まるんだ。幼少期から鍛えた僕やトレーシーほどではないけれど、ツヴァイよりは確実に多い。このままにしておけば、感情の揺らぎや少しの刺激で暴発する可能性はある。だから、対策を2つ提案するね」
僕は懐から2つのものを取り出した。ひとつは、薄い銀色の腕輪と足環。もうひとつは、古びた巻紙だ。
ミュリエルは興味深そうに身を乗り出して、腕輪の方を先に見つめた。
「これは・・・?」
「魔力抑制の魔法具だよ。僕も昔、制御に苦労していたころに着けていたものだから安全性は確実だ。魔力が意識しないと出てこなくなるから、かなりの確率で暴発を防げる」
彼女はそっと腕輪に触れた。1つを手のひらに乗せて、まるで大切な宝石でも扱うように慎重に角度を変えて見ていた。まさしく彼女が手にしているそれは僕のお下がりだから、ちょっと感慨深い気持ちもある。
今までミュリエルが身につけていた封具との大きな違いは、少量であれば魔力が出せることと彼女の意思でつけ外しが可能なこと。
「冷たくて、軽いんですね」
「ああ。冷たさはつけていれば慣れるし、着用するとサイズも合うから紛失したりしないよ。けれど、常に魔力を抑える効果は、訓練中の反応速度や感覚の鈍化にもつながるから一長一短だね」
「なるほど・・・」
今度は、もうひとつの巻紙を手に取る。古語で書かれたこれは貴重なものなので、僕も初めて手にする代物だ。
「こっちは、魔力の一部を僕に譲渡するという契約書。簡単にいえば、ミュリエルの魔力をかわりに保管しておいて、必要なときに使用したり返したりすることを約束する書類だ」
「そんなこと、できるんですか?」
「契約の内容について、双方の同意があればね。譲渡した魔力を何に使うか、どうやって返すかなど、きちんと事前に定めて互いに遵守するんだ」
遵守すると言っても、制約を受けるのは基本的に魔力を受け取る僕の方だ。破れば当然罰を受けるが、それはミュリエルを裏切ると同義なので絶対にない。
僕の決意は知らないまま、彼女は静かに目を伏せた。長い銀の睫毛が頬に小さな影を落とす。しばらくの沈黙ののち、ぽつりと声が漏れた。
「アルが、私の魔力を持っていたり使ったりして・・・不快に思われたりしませんか?」
その問いは真剣な一方、確かな不安が滲んでいた。
今日、僕に辞めの声をかけられた瞬間、彼女は微かに怯えていた。自分の力にというよりかは、他人の反応に。
僕はゆっくりと言葉を継ぐ。
「預かった魔力が僕の内にある間、他人が感じるのは総量の多い僕の性質だけだ。でも、魔石に保管した場合にそばにあって怖いと感じる者は、一定数いると思う」
なにせ、彼女の魔力は魔族である僕たちと性質が異なる。清らかで、眩しいと感じる。それを恐れる者たちがいることは否定できない。
ミュリエルは小さく息をのんだ。まっすぐに、僕の目を見ている。
「けれど、あの場にいた者たち―僕も、クリスも、トレーシーも、ツヴァイも。全員が、ミュリエルの魔力をふわりと柔らかくて、穏やかで、傷つけるものではないと感じた。これも事実だ」
実はトレーシーはミュリエルを真似てか『もふもふ』と評していたが、僕には『ぽかぽか』と感じた。
ミュリエルの目が、わずかに見開かれる。そこにあった感情は、希望だ。
「そうだったんですね・・・よかった」
そのときの彼女の顔を、僕は忘れないだろう。
心から安堵し、はじめて心の底から呼吸ができたような、そんな表情だった。目元が柔らかくほぐれ、そっと手を胸に当てる。
「だからこそ、焦らず少しずつ制御していけばいい。僕がそばにいるよ」
僕の言葉に、ミュリエルは小さく頷いた。
「アル・・・契約を、お願いしたいです。あなたに託しておく方が安心できます」
「わかった。じゃあ、用途について決めよう。僕は基本的に、ミュリエルから預かった魔力を魔石に封じておくつもりだ。何かを害する用途には絶対に使わない。使うとすれば―」
「守るとき、ですよね」
ミュリエルが先に言った。その言葉に、僕はただ微笑んで頷く。彼女の理解が、信頼が、それだけで伝わってくる。
巻紙を隣に、契約の内容を2人で確かめながら僕たちは丁寧に練った。古き文字は読めないミュリエルのために、一旦別の紙に条件をまとめていく。
話し合いを重ね、最終的に現在の総量から最大値を半分にすることに決めて2人でサインをした。巻物は淡く光る魔紋に溶けて、半分は彼女の右手首に、もう半分は僕の左手首に刻まれる。
部屋の水晶の明かりがふと点滅し、その影が壁を泳ぐ。条件を満たしたため、彼女の魔力がゆっくりと僕の中に流れ込んでくる。
穏やかで、あたたかく、安らぎに満ちたそれを僕は胸の奥で受け止める。その尊さを存分に味わった後に、左手に握った魔石に注入していった。
・・・確信を持ったのは今日だが、もうミュリエルの魔力で僕が悪寒を感じることはないだろう。
魔力は、本人の望みや願いで多少なりとも変容する。彼女を悲しませたり失望させたりしなければ、害を及ぼすことはありえない。
ミュリエルは、聖女になりたいわけではない。僕のそばで、この国に受け入れられることを強く望んでいるのだ。
満タンになるたび魔石を持ち替えて、流入が落ち着いてきたタイミングでミュリエルに声をかける。
「喪失感はある? 寒いとか、目眩は?」
「いいえ、不調はないです。でも、ぽかぽかしていたのは引いたような気がします」
「魔力使用後の、好転反応が落ち着いたかな。でも、今日はこれ以上の魔力の行使はおしまいだよ。一緒にご飯を食べて早めに休もうね」
「はい。ありがとうございます、アル」
お礼を言う声は、どこまでも嬉しそうで安堵していることがわかる。
ミュリエルの信頼を、魔力を託されるのはとても光栄なことだと僕は改めて思った。
魔力について認識し、あり方を探す彼女は生真面目な性格もあってか、就寝前の時間も高等部の学生用教本を丹念に読み進めている。
子どもの頃に、僕も読んだが初級編ですら一般的な習得に数年はかかる。今の彼女に、難しすぎはしないだろうか。
「それ・・・初級編もあるけど、もう読み終わったの?」
「はい。この国に来たときに、文字を学んでから歴史本と一緒に読みました」
気になって尋ねた僕に、ミュリエルは小さく頷いて髪を揺らした。目線は本から揺らさずに、自分なりの解釈を別のノートにまとめているようだ。僕は微かに刮目しながら、隣に腰掛ける。
「そう、偉いね」
「私自身が魔法が使えなくても、使える方が多い国ですから・・・知識として身につけておきたくて。アルのそばにいて、恥ずかしくないように」
ああ、なんて人なんだろう。心からそう思った。
自身が魔法が使えることを知るずっと前から、僕のために学び始めていたという事実。しかも、最初からその努力をひけらかすこともなかった。
端的に言って、ミュリエルは尊い。だけれど、その一言で言い表せないほどの努力の一端を垣間見ることができ、ますます惚れ直してしまうのだった。
だから僕は、頭を撫でようと伸ばしかけた手をゆっくり下ろす。彼女と過ごす時間を確保するために、執務を調整して早めに寝室に向かい・・・かまってもらえないことに寂しさを覚えたからといって、真剣なミュリエルの邪魔をするべきではない。
静かに、来るかもしれない質問に備えるため見守ることに徹した。
・・・そういえば、周囲が独身ばかりなので確かめる相手はいないけど、妻からの『待て』を覚えた僕は、愛妻家としてステップアップしたのではないだろうか? だとしたら光栄だね。
△▼△
今日は、前々から予定していた魔力の知覚についての実践の日だ。不要な物がすべて片付けられた広間に、ぽつんと2人がけのソファーが固定されている。それに座る僕の横、ミュリエルは白のYシャツと黒のスラックスに身を包み、大きな瞳をきりりと引き締めていた。
この組み合わせ、どこかで見覚えがあると思ったら軍服だな。確かに衝撃には強いし、ミュリエルの身の丈にぴったり合わせてあるし、Yシャツの襟とズボンの裾には見覚えのある銀糸の刺繍が入っている。壁際に佇むツヴァイの隣、にんまりと笑む悪友の計画的犯行だろう。事前に教えてくれれば僕も軍服で来たのに。
まぁ、彼女が入室した直後に本心から『今日の装いは、どんな命令でも聞きたくなってしまうほどに凛々しくて素敵だ』と伝えたら、お礼とともに恥ずかしそうに俯いて頬を赤くしていた。今日も妻が最高に可愛い。
「ミュリエル。まずは僕の魔力を少しだけ、流すよ。どんな風に感じるか教えて。気分が悪くなったら、そこで終わりだ」
「はい。よろしくお願いします」
ミュリエルは深呼吸をし、僕と向かい合うように座り直す。高く結んだポニーテールがふわりと揺れて、決意とやる気の宿った瞳がまっすぐに僕を見ていた。
僕は軽く手をかざし、ほんの少しだけ自分の魔力を流す。彼女に無理のない範囲で、静かに、柔らかくを心がけて。
「・・・あっ」
小さく息を呑んだミュリエルが、そっと左手を胸元に添えた。右手は膝の上に置いたままだ。
「ふわふわ、しています」
やわらかな毛布に包まれたような、安らぎのある声だった。僕は目を細めたが、傍で見ていたトレーシーが肩を揺らしながら隣のツヴァイに呟く。
「重力を操る陛下にふわふわって言えるの、ミュリエル様しかいないだろ・・・」
真摯な表情のままの騎士団長と、肩の震えを必死で堪える悪友の様子に思わず苦笑する。
確かに僕の魔力は本来、ずっしりと地を這うような性質を持っている。それを彼女がふわふわと感じるのは―なるほど、面白い発見だ。
「気分は大丈夫そうだね。じゃあ、他の魔力も比べてみようか」
僕が提案すると、すぐそばにいたクリスが小さく息をつきながら歩み寄ってくる。
「・・・失礼します。ミュリエル様、流しますよ」
慎重に頷くミュリエルを待って、クリスは魔力を送った。細く、鋭く、緻密に制御されたそれは、蔦が伸びるようにも思える。
「・・・ツンツンですかね? ええと、痛みはなくて指でつつかれているような感じです」
ゆっくりと首を傾げながら、ミュリエルはそう表現した。クリスが一瞬だけ言葉を失い、顔を背ける。
ちなみにトレーシーの肩の震えは最高潮に達している。そのまま声を出さずに耐え切らないと後で面倒なことになるのは、本人が一番よくわかっているだろうに。
「ツンツン・・・まあ、否定はしませんけどね」
次はトレーシーが手を挙げて、歩み寄ってきた。
「ミュリエル様、俺のもぜひ! その、比較のためにですね!」
「はい、よろしくお願いします」
彼の魔力は穏やかで、丸く、包み込むようだった。まるで彼が作る心のこもった衣服のような。
本来なら、トレーシーも呪術を得意とするため多少なりとも揺らぎを含んでいていいはずだが、今日の日のために修行でもしてきたのだろうか。
「・・・くるくる、って感じがします」
「くるくる!」
満面の笑みで拳を握っているので、よく分からないがどうやら嬉しいらしい。
最後に控えていたのは、ツヴァイだ。静かに一歩前に出て、一言断ってからミュリエルに向けて魔力を送る。空気の流れが一瞬で変わり、張りつめた気配が漂った。
けれど、彼女は目を見開いたままそれを感じ取り口を開く。
「・・・さらさらしているのですが、底が見えない感じがします」
ツヴァイはそれを聞いて、微かに目を細めるだけだったが、確かに誇らしげな気配を滲ませていた。
「じゃあ、次はミュリエル自身の魔力を放出してみようか。僕に向けて、ゆっくり出してみて」
「はい・・・やってみます」
ミュリエルは軽く両手をひろげ、目を閉じて息を吐いて集中する。次の瞬間、彼女の身体からあふれ出した魔力はまるで神々しい光のように部屋に広がり始めた。
透明で、暖かくて、祝福された気配が渦を巻くような感覚。僕の髪がかすかに揺れ、空間がやんわりと満たされる。
「ミュリエル、ストップ」
思わず声をかける。決して狭くはない広間を、満たしてもまだ魔力が溢れ続けていたからだ。
「――っ、すみませんっ・・・」
ミュリエルは閉じていた目を開けて短く息を吸い、魔力は何にもならずに霧散した。その動きもまた、控えめな彼女らしくどこか清らかだ。
彼女が息を整えたところで、僕はそっと問いかける。
「うまく出せていたよ。気分はどう? 目眩や、疲れはでていない?」
「気分は変わりがないですけど・・・なんだか、身体の内側からぽかぽかしています」
小さな笑顔と共にそう答えた彼女の身体を、明らかに魔力が巡っていた。皮膚の下に光の道筋があるかのように、彼女の中の魔力が目に見えぬ流れとして渦巻いているのを感じる。
「よかった。今日の訓練はここまでにしておこう」
「はい、アルも、皆さんもご協力ありがとうございました」
立ち上がって礼を言うミュリエルの額には、いつの間にかうっすらと汗が滲んでいた。それでもその目は真っ直ぐで、揺るぎない。
彼女は間違いなく、魔法の才を持っている。これは役職には一切関係がない、彼女自身の資質だ。
けれどそれ以上に、その力を丁寧に正しく使おうとする心が、何より優しくて美しかった。
立ち上がった僕はそっとその手を取って、笑みを返す。
「これからも、色々試して一緒に身につけていこうね」
「・・・はいっ」
ミュリエルの頬が紅く染まり、けれどどこか嬉しそうに微笑んでいて。そんな彼女を見ているだけで、僕の胸の中まで『ぽかぽか』してしまうのだった。
△▼△
着替えるために、ミュリエルが侍女と退出した間にトレーシーたちと少しの会話をした僕は、執務室に戻って彼女を待った。クリスの淹れた紅茶を飲みながら書類に目を通していると、ノックの音と共に彼女が入ってくる。
「お待たせしました、アル」
「いいや。ミュリエルも、お茶飲む?」
「はい、クリス、お願いできますか?」
「ただいま用意いたします」
可愛らしくも勇ましかった軍服からゆったりしたワンピースに着替えた彼女は、促されて僕の隣に静かに座る。濃紺の胸元に緑のレースが美しくこちらも似合っていたが、その表情はまだどこか緊張した面持ちを残している。訓練の余韻が、残っているのだろう。
彼女の魔力が思っていた以上に強く、豊かで、そして溢れ出しやすいことがはっきりした―それが今日の最大の収穫だった。
「ミュリエル。知らせたいことと、相談したいことがある」
無言でクリスが退出するのを見送り、切り出すと彼女はピンと背を伸ばして僕を見た。ゆっくりとティーカップを置いて、膝の上に指先を添えながら。
「はい、なんでしょうか?」
「さっきの放出の感触で、君の中にある魔力の総量がだいたい分かった。人としては、かなり多いね」
「そう、なんですか?」
「うん」
彼女の声には、戸惑いと少しの緊張が伺える。僕の中ではある程度予想はついていたが、自分自身でも制御しきれないほどの魔力を感じていたのだろう。
「魔力の総量は一般的に、成人の半分までに決まるんだ。幼少期から鍛えた僕やトレーシーほどではないけれど、ツヴァイよりは確実に多い。このままにしておけば、感情の揺らぎや少しの刺激で暴発する可能性はある。だから、対策を2つ提案するね」
僕は懐から2つのものを取り出した。ひとつは、薄い銀色の腕輪と足環。もうひとつは、古びた巻紙だ。
ミュリエルは興味深そうに身を乗り出して、腕輪の方を先に見つめた。
「これは・・・?」
「魔力抑制の魔法具だよ。僕も昔、制御に苦労していたころに着けていたものだから安全性は確実だ。魔力が意識しないと出てこなくなるから、かなりの確率で暴発を防げる」
彼女はそっと腕輪に触れた。1つを手のひらに乗せて、まるで大切な宝石でも扱うように慎重に角度を変えて見ていた。まさしく彼女が手にしているそれは僕のお下がりだから、ちょっと感慨深い気持ちもある。
今までミュリエルが身につけていた封具との大きな違いは、少量であれば魔力が出せることと彼女の意思でつけ外しが可能なこと。
「冷たくて、軽いんですね」
「ああ。冷たさはつけていれば慣れるし、着用するとサイズも合うから紛失したりしないよ。けれど、常に魔力を抑える効果は、訓練中の反応速度や感覚の鈍化にもつながるから一長一短だね」
「なるほど・・・」
今度は、もうひとつの巻紙を手に取る。古語で書かれたこれは貴重なものなので、僕も初めて手にする代物だ。
「こっちは、魔力の一部を僕に譲渡するという契約書。簡単にいえば、ミュリエルの魔力をかわりに保管しておいて、必要なときに使用したり返したりすることを約束する書類だ」
「そんなこと、できるんですか?」
「契約の内容について、双方の同意があればね。譲渡した魔力を何に使うか、どうやって返すかなど、きちんと事前に定めて互いに遵守するんだ」
遵守すると言っても、制約を受けるのは基本的に魔力を受け取る僕の方だ。破れば当然罰を受けるが、それはミュリエルを裏切ると同義なので絶対にない。
僕の決意は知らないまま、彼女は静かに目を伏せた。長い銀の睫毛が頬に小さな影を落とす。しばらくの沈黙ののち、ぽつりと声が漏れた。
「アルが、私の魔力を持っていたり使ったりして・・・不快に思われたりしませんか?」
その問いは真剣な一方、確かな不安が滲んでいた。
今日、僕に辞めの声をかけられた瞬間、彼女は微かに怯えていた。自分の力にというよりかは、他人の反応に。
僕はゆっくりと言葉を継ぐ。
「預かった魔力が僕の内にある間、他人が感じるのは総量の多い僕の性質だけだ。でも、魔石に保管した場合にそばにあって怖いと感じる者は、一定数いると思う」
なにせ、彼女の魔力は魔族である僕たちと性質が異なる。清らかで、眩しいと感じる。それを恐れる者たちがいることは否定できない。
ミュリエルは小さく息をのんだ。まっすぐに、僕の目を見ている。
「けれど、あの場にいた者たち―僕も、クリスも、トレーシーも、ツヴァイも。全員が、ミュリエルの魔力をふわりと柔らかくて、穏やかで、傷つけるものではないと感じた。これも事実だ」
実はトレーシーはミュリエルを真似てか『もふもふ』と評していたが、僕には『ぽかぽか』と感じた。
ミュリエルの目が、わずかに見開かれる。そこにあった感情は、希望だ。
「そうだったんですね・・・よかった」
そのときの彼女の顔を、僕は忘れないだろう。
心から安堵し、はじめて心の底から呼吸ができたような、そんな表情だった。目元が柔らかくほぐれ、そっと手を胸に当てる。
「だからこそ、焦らず少しずつ制御していけばいい。僕がそばにいるよ」
僕の言葉に、ミュリエルは小さく頷いた。
「アル・・・契約を、お願いしたいです。あなたに託しておく方が安心できます」
「わかった。じゃあ、用途について決めよう。僕は基本的に、ミュリエルから預かった魔力を魔石に封じておくつもりだ。何かを害する用途には絶対に使わない。使うとすれば―」
「守るとき、ですよね」
ミュリエルが先に言った。その言葉に、僕はただ微笑んで頷く。彼女の理解が、信頼が、それだけで伝わってくる。
巻紙を隣に、契約の内容を2人で確かめながら僕たちは丁寧に練った。古き文字は読めないミュリエルのために、一旦別の紙に条件をまとめていく。
話し合いを重ね、最終的に現在の総量から最大値を半分にすることに決めて2人でサインをした。巻物は淡く光る魔紋に溶けて、半分は彼女の右手首に、もう半分は僕の左手首に刻まれる。
部屋の水晶の明かりがふと点滅し、その影が壁を泳ぐ。条件を満たしたため、彼女の魔力がゆっくりと僕の中に流れ込んでくる。
穏やかで、あたたかく、安らぎに満ちたそれを僕は胸の奥で受け止める。その尊さを存分に味わった後に、左手に握った魔石に注入していった。
・・・確信を持ったのは今日だが、もうミュリエルの魔力で僕が悪寒を感じることはないだろう。
魔力は、本人の望みや願いで多少なりとも変容する。彼女を悲しませたり失望させたりしなければ、害を及ぼすことはありえない。
ミュリエルは、聖女になりたいわけではない。僕のそばで、この国に受け入れられることを強く望んでいるのだ。
満タンになるたび魔石を持ち替えて、流入が落ち着いてきたタイミングでミュリエルに声をかける。
「喪失感はある? 寒いとか、目眩は?」
「いいえ、不調はないです。でも、ぽかぽかしていたのは引いたような気がします」
「魔力使用後の、好転反応が落ち着いたかな。でも、今日はこれ以上の魔力の行使はおしまいだよ。一緒にご飯を食べて早めに休もうね」
「はい。ありがとうございます、アル」
お礼を言う声は、どこまでも嬉しそうで安堵していることがわかる。
ミュリエルの信頼を、魔力を託されるのはとても光栄なことだと僕は改めて思った。
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